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終章 声に咲けぬ花 その①一時騒然の風景


 七月下旬。

 世間一般の学校は夏休みを迎えていた。

 それは、俺の通う千場高校も同様で、平日のお昼時だというのに、校内はおろか校庭もひっそりと静まり返っている。加えて珍しいことに、今日は運動部の活動がない日らしい。

 音を立てているものと言えば、流石川のせせらぎと、風にそよぐ木々と、生徒のいない空白を埋めるかのごとく鳴いているセミたちぐらいだった。

 俺が登校してきたのは、ボランティア部の活動のためだけれど。少しだけ忘れて、夢見るように校門前で佇んだ。夏の音に耳を澄ませていた。


「土一――!」


 他の音を押しのけて、微笑みたくなる声が体の芯に響いた。声の主は、黄色の〝パンジー〟を二つ引き連れながら駆けてくる。


「愛良先輩!」


 来た道を数歩戻り、左手を伸ばして恋人を待ち受けた。その様子を見ていた愛良先輩は、うきうき嬉しそうに笑みを深めると、飛びつくように手を握ってきた。


Tjenaシェナ! 土一! 待たせてごめんなさいね」

「バスの到着時間が俺の方が早いんだから仕方ないですよ。謝らなくていいし、走らなくてもいいんです」

「土一を見つけると走りたくなるのよ」

「牛じゃないんだから……。ほら、髪、ぐしゃってなってますよ。綺麗な金色の髪なのにもったいない」


 繋いでいない方の手で、乱れた前髪を直してあげる。


「人を牛呼ばわりしたかと思ったら今度は褒めるなんて、女たらしね」

「たらし込みたいのは愛良先輩だけでーす。……そういえば、俺があげたパンジーの髪留め中々つけてくれませんけど、もしかして気に入らなかったとか?」

「気に入ってるからつけられないのよ。失くしたり壊したりしたら嫌じゃない」


 歩き出した愛良先輩が不服そうに頬を膨らませて言った。歩調を合わせて歩きながら、フグみたいな頬っぺをしぼませるべく、返事をする。


「失くしたり壊したりしても、また別のをあげるのに。まあ、髪留めのパンジーがなくても、声に咲く〝パンジー〟が二つあるからいいんですけどね」

「ずるい、私も土一の声に咲くチューリップが見たいわ!」

「いやー、俺の花を見られるのはなんか照れ臭いですね」

「私のばっかり見て、土一のエッチ! スケベ!」

「……愛良先輩、男はエッチでスケベなものですよ」

「ば、ばかっ、真剣な顔で言うんじゃないわよ!」


 ――付き合い始めて数週間。

 愛良先輩との関係は、見ての通り良好だ。でも、交際スタートからこうだったわけじゃない。忘れてはいけないのだが、愛良先輩は受験生だ。そして俺はあまり頭がよくない。

 夏休みに入る前には期末考査があり、受験生と馬鹿は勉強に打ち込まなければならなかった。

 愛良先輩が志望している進路は推薦がもらえるけれど、それはお父さんが決めた進路。俺との交際を機に、父親の言いなりから脱却すると決意した愛良先輩は、他の選択肢も選べるようにと水面下で動いていた。

 だから、こうして二人の時間を謳歌できたのは、実は夏休みに入ってようやくだった。

 親しい面々(千駆、千足、一戸、今井、理音、蛍)に交際を報告したのも、期末考査が終わった後だ。

 みんな一様に祝福してくれたが、千足だけは「まじ? いいなー、おっぱいどーだった? 何カップ?」と軽薄に笑ったので、居合わせた千駆とともに背中を殴っておいた。

 その千駆は、弟への鉄拳制裁を加えた後、「よかったじゃないか。破鍋に綴蓋って感じで、お似合いだよ」と〝エリカ〟の花を咲かせつつ、笑みを浮かべていた。

 家に帰ってから芙美恵おばさんに言葉の意味を訊ねてみると、【破鍋にもそれに相当した綴蓋があるように、どんな人におそれ相応の配偶者がある。また、配偶者は自分相応のものがよいというたとえ】だと教えてくれた。

 一戸も祝福してくれたけれど、同時に軽く心配もされてしまった。


『噂を当てにするわけじゃないが、もてあそばれてるわけじゃないよな?』

『ノヘちゃん直球~、さっすがピッチャー』

『今井、俺の本職はキャッチャーだ』

『へいへい。ウワサのシンソーは置いといて、ドイッチャンがいいならいんじゃね? マンガイチ、ボロボロのぞーきんみたな捨てられコーギーになっても、それもまたセイシュンっしょ!』


 一戸の隣が定位置になっている今井も、そう言って励ましてくれた。お礼にヘッドロックをかけておいた。


『ぐ、ぐるじいっ、ドイッチャン、首じまっでるよぉ~!?』

『自業自得だろ』


 理音はやっぱり素直にマイペースで、俺が嬉しそうに報告するから、理音も嬉しそうに「おめでとう」と言ってくれた。

 後ろめたい感情の整理がついたからか、理音の素直な瞳に自分を映し出されるのが、怖くなくなっていることに気がついた。

 蛍にも自分の口で伝えた。一瞬ポカンとした蛍は、なぜか石ころを蹴飛ばす不審な動作をしてみせた。それから、〝マーガレット〟を大きく咲かせて「おめでとう」と言ってくれた。

 俺はふと、隣を歩く愛良先輩を眺めた。

 時々、かすかに肩が触れて、その度に気恥ずかしそうに一瞬目を伏せる。それを悟られまいとして、他愛のない話題を振ってくる。それと、無意識なのか、繋いだ手が結構な頻度で「ぐっ」とか「ぎゅっ」と力を込められる。


「――ねえ、土一……部室に行くにはまだ早いし、もう少し二人で歩かない?」

「よ、喜んで」

「うんっ……! あ、あと……手の繋ぎ方、変えてもいい? そのぅ、恋人っぽいやつに……」

「っ、喜んで!!」

「どっかの店員さんみたいね」


 いわゆる恋人繋ぎという繋ぎ方をする。どこか気後れした様子で差し出された愛良先輩の白い小さな手は、白日の中でキラキラしていて、つい見入った。

 手指にすら見惚れてしまうのだから、俺は相当この人に惚れているんだろう。ほっそりとしている指に自分の武骨な指を組ませたけれど、柔らか過ぎて力の加減がわからなくなる。


「……ん……」


 耳にした俺が万感の思いを抱く声が、愛良先輩の唇からこぼれ落ちた。白い〝パンジー〟が二つ、淑やかに咲いているのがまた心臓によくない。


「チ、チカラ、強かったデスか?」

「ううん、そのね……こうやって指を絡めるとよくわかるのよ。あったかくておっきくて、これが男の子の手なんだなって……これが私のボーイフレンドの手なんだなぁーって」


 子どもがするみたいに、繋いだ手を前後にぶんぶんと振っている。明日の募金活動の準備を放り出して、このまま二人でいたい。俺は心の底からそう思っていた。

 部室についた時には、集合時間を十五分ほど押していた。


「付き合い立てだもんな、わかるわかる」


 顧問のモモちゃん先生は遅刻を咎めることなく、ニヤリと笑って冷かしてきた。俺と愛良先輩の初心者カップルは言い返すこともできず、熱い頬をそっぽに向けた。

 モモちゃん先生に付き合っていることを知られたのは、夏休み初日の部活前。ちょうど今日みたいに手を繋いでいる場面を、ばっちり目撃された。


「兆、わかる。俺も蛍といると時間忘れる」

「り、りおん、くんっ……!!」


 席についていた理音が同意して頷くと、斜め向かいに座っていた蛍が赤面し、髪を振り乱して立ち上がっていた。


「よーし、今日のボランティア部の活動は、独身彼氏なしの先生が顧問を降りないように誠心誠意説得する、にしようか」


 モモちゃん先生は、教卓につくなり空元気な口調でそう言った。笑みは乾き、目は荒み気味。項垂れた背中には、どんよりとした雲を背負って見えた。

 居たたまれなくなったボランティア部員(理音は除く)で、顧問を続けてくれるよう拝み倒すものの、かける言葉が「きっといい出会いがありますよ」や「焦らなくていいじゃなですか」と冴えないものばかりで、説得の効果は得られなかった。


「わ、私、橘先生のこと大好きです! スポーティーな体型で、美人なのにかっこいいですし、生徒思いの優しい素敵な先生だなって思ってます。うちのクラスの男子も、先生のことクールで美人で、二組の男子が羨ましいなーって言ってましたよ! ね? 蛍ちゃん」

「う、ん! です、です!」


 有志で手伝いに来てくれていた菜花ちゃんの訴えが、モモちゃん先生の荒んだ目に光を戻させた。


「私なんて彼氏いない歴イコール年齢で、男の子に恋愛対象として見られたことすらないです、ぜったい……」


 橙色の〝ゼラニウム〟が顔を伏せるように咲いているのを見て、俺は反射的に「そんなことない」と否定した。

 その後で、しまったと顔を顰めた。幸い、小さな声だったため、みんなには聞こえていなかったようだ。


「……じゃあ、先生が菜花の初めての恋人になろうかな」

「えっ?」

「だって菜花かわいーじゃん。彼氏じゃなくて彼女を作るって発想はなかったなぁ~。……年下の、女子高生の彼女か。……あれ? めっちゃよくない?」

「いえ、先生? 教育者として全然よくありませんよ?」

「鳴子はお堅いなぁー。体の方は柔らかいのに」

「なっ、先生!?」


 モモちゃん先生が胸元を見ながら言うと、愛良先輩は慌てて両腕で覆い隠した。


「おぉ~? 先生は柔軟性があるって意味で言ったんだぞぉ? 体のどこを想像したんだぁ?」

「もうっ!! 独身の成人男性に心当たりのあるボランティア部員がいたら、橘先生に教えてあげてちょうだい!」

「よろしくお願いします」


 モモちゃん先生は打って変わって殊勝な態度で頭を下げていた。俺は秀作兄さんのことが頭に浮かんだけれど、うっかり教え忘れたことにしておく。

 収拾のつかない状態だったけれど、なんとか一段落つけて本来の活動に取りかかる。とはいうものの、事前準備は抜かりなく済ませてある。

 今日行うのは、学校のホームページでの最終事前告知と、当日の手順のおさらい、モモちゃん先生が所有する車への備品の積み込みのみ。そしてそれらは、滞りなく完了した。

 それもこもれも、菜花ちゃんがモモちゃん先生の機嫌を回復してくれた功績が大きいのは、言うまでもない。


「――繰り返すが、明日は現地集合だからな? 各自忘れ物をしないように。それから遅刻は厳禁だ、肝に銘じておけー」


 はーい、と全員が了解の返事をし、解散となった。積み込み作業をした直後だったこともあり、全員で昇降口へ向かう。

 その道のりで、不甲斐ないボランティア部員たちは、口々に菜花ちゃんへの感謝を並べた。


「先生ってたまーに、ああやって面倒くさくなる時があるのよね」


 締めくくりに、愛良先輩が苦情をこぼした。俺と蛍が苦笑いで同意を示すと、理音と菜花ちゃんは「知らなかった」という顔をしていた。

 一旦会話が途切れたので、俺は理音に声をかける。


「言いそびれてたけど、理音、久しぶり。元気してた?」

「ああ、元気だ。色々とやることが山積していて……明日も参加できなくて、すまない」


 夏休みが始まってから今日まで、部活は三回あったけれど、理音はその三回とも休んでいた。三度続いた時はさすがに気になって、体調でも崩したのかと蛍に訊ねた。

 しかし、蛍も用事のためとしか聞かされていない様子だった。その日も菜花ちゃんが来ていて、こっそり耳打ちされた話によると、夏休みが始まると同時に、理音は中々連絡が取れなくなり、家も留守にすることが増えたと言う。

 いい機会だから欠席の理由を訊ねてみようか、と口を開きかけるも、俺たちに声をかけてくる人物がいて、言い出せなかった。


「おー、アマネリオンに土一発っけーん。鳴子センパイたちもいるっつーことは、ボランティア部か」


 トラックを走っていた千足が、片手を上げながら駆け寄ってきた。トラックの外でストレッチをしていた千駆もそれに気づき、こちらに歩いてくる。

 他の陸上部員は見当たらなかった。校庭は来た時と変わらず、ひっそりとしたままだ。北西兄弟の自宅は学校からほど近い場所にあるから、自主トレに来たんだろう。


「みなさんお疲れ様。明日だったね、募金活動。今日はその準備ってところかな」


 運動中は髪を結んでいる千駆が、愛想よく微笑みかけた。首筋を伝う汗が宝石のように輝いていて爽やかだ。女子三人がうっとりと見惚れている。


「そっちこそ自主トレだろ? お疲れ」

「あぁ、うん」


 千駆にしては、どこか上の空の返事だった。顔は俺を向いているけれど、目が女子三人の方へ向けられていた。千駆の視線を辿る途中で、それは起こった。


「――しっかし菜花お前さぁ、めっちゃ浮いてんじゃん。場違い感ヤバイことに気づいてねぇの?」


 片方の口端を上げた千足が、意地悪く言った。その声に咲く〝ダリア〟は枯れてはいない。だけど放たれた言葉は、まるで弾丸のような衝撃と攻撃力を持って、菜花ちゃんを撃ち抜いている。

 みんな突然発生した険悪な空気に対応し切れていなかった。目だけを忙しなく動かして状況把握に努めている。

 そんな中で俺は〝マーガレット〟に目を奪われていた。目を凝らすと、蛍の唇が小刻みに震えている。


「つーかいつまで樵田にくっつてんだよ、ウッゼーな。知ってんぜー? お前ってさ、樵田の保護者ぶることで、自分がクラスに溶け込みやすいようにしてるんだろ? いい人ってポジションでよぉ~。でもザ~ンネン、クラス中が知ってるんだよ、菜花は嫌われたくなくて必死になってる偽善者だってな」

「言ーな……」


 息遣いに怒れる〝マーガレット〟を咲かせながら、蛍は千足に掴みかかると、


「菜花ちゃんのこと、悪く言ーなっ!」


 雄々しく叫んで横面をぶっ叩いた。左頬に女子の拳を打ち込まれた千足は、なにが起こったのかわからないって顔をしている。


「あんたはどう、なのよ! 双子のお兄さん…がっ、理解者で味方だってわかりきっている千駆君がいるから、好き勝手悪態つける、でしょっ!? 嫌われるのが怖くない人、そうそういるわけ、ないじゃない!!」


 噛みつく勢いで蛍はまくしたてた。言い終わりに突き飛ばされた千足は、抵抗もなく地べたに尻もちをついていた。

 俺を含めた全員が呆気に取られていた。荒い呼吸音だけが時間の経過を示していた。いち早く立ち直ったのは千駆だった。弟の首根っこを掴むと、頭を下げさせる。


「不肖の弟が大変失礼なことをして、本当に申し訳ない。弟の失言は兄のボクにも責任がある。菜花さん、樵田さん、ごめんなさい。この通りです」


 千駆も腰を折り深々と頭を下げた。千足の体勢は土下座をしている状態になっていた。

 直後、久しぶりに長い言葉と大声を出した蛍が、前のめりに崩れ落ちていくのが見えた。俺は無我夢中で走り出していた。


「きゃあああああ――!」


 菜花ちゃんと愛良先輩が悲鳴を上げた。理音が蛍の名を叫びながら寄り添う。北西兄弟も驚きの声を発していた。

 蛍は浅く速い呼吸を繰り返していた。虚ろだが意識もあり、呼びかけると眼球を動かして答えた。俺は蛍を理音に預けると、「職員室に行ってくる」と言い残し、全力でダッシュした。

 辺りは一時騒然となった。


 続く

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