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第三章 先輩 鳴子愛良 その③本当の鳴子愛良の風景


 車窓の向こう側を過ぎていく景色を眺めながら、ここ数日のことを振り返っていると、


「――なぁーに、たそがれてるのよ? 言っておくけど、まだ午前よ」


 茶化す声が俺を呼び戻した。同時に、頬をつんつんと指先でつつかれる。眺めていた窓とは反対方を向けば、私服姿の愛良先輩が隣の席で笑っていた。

 長袖セーラーではなく、白のレースブラウスとシンプルなブルーのデニム。足元は白とベージュの歩きやすそうなサンダルを履いていた。耳ではピアスが揺れていた。膝の上には夏らしいトートバッグが置かれている。

 もちろん俺も私服だ。ネイビーのポロシャツとベージュの七分丈パンツに、白と黒のスニーカー。アクセサリー類は、強いてあげるならアナログの腕時計。スポーツブランドのショルダーバッグは足元に置いておいた。


「あ、いや、なんでも……」


 今日は、休日。愛良先輩とのデートの日だ。

 それにもかかわらず、一人黙って考え込んでいた申し訳なさから目を伏せると、シートベルトで強調された胸元が視界のど真ん中に入ってきた。


「お、おっきい~……」

「ばか! 心の中でつぶやきなさいよ!」


「ごっふぉっ!! げ、んこつ!?」


 顔面目がけた右ストレートが綺麗に決まった。容赦のない威力に悶絶していると、運転席から上品な笑い声がこぼれた。


「二人とも仲良しなのね」


 愛良先輩に負けるとも劣らない金髪美女が、声に〝サイネリア〟の花輪を咲かせながら、バックミラー越しに語りかけてきた。

 青色の中心部が白くなった〝サイネリア〟を咲かせた女性の名前は、鳴子絵理沙なるこえりささん。愛良先輩のお姉さんで現役女子大学生だという。愛良先輩が一緒に遊び回っている男子大学生は、この姉さんの紹介なんだろうか。

 絵理沙さんの服装は、上はグリーンのハイネックのノースリーブニット。下はスキニーのデニムパンツと白のシューズ。

 絵理沙さんと愛良先輩は、生き写しのようにそっくりな姉妹だった。

 待ち合わせた駅で、車から降りて来た二人を見た時は軽く混乱した。ただ、よくよく観察すると全部が全部同じというわけではなかった。明確なのが瞳の色。絵理沙さんの瞳は両眼ともブルーであることがわかった。

 あとは、こう言ってはなんだけれど、絵理沙さんには内から溢れ出るパワフルさがあり、どこにいてもスポットライトを浴びているかのような輝きがあった。それは外見の美醜など関係なく、自分に自信を持っているか否かに思えた。

 実は、絵理沙さんが咲かせた〝サイネリア〟は、名前の頭二文字、【サイ】が【災】、別名のシネラリアの頭二文字【シネ】が【死】を連想させるため、贈り物に向かないとされている。

 しかし絵理沙さんには、〝サイネリア〟にまつわる縁起の悪さをも吹っ飛ばしてしまえるパワーを感じられた。

 愛良先輩は十二分に人目を引く美貌を持っている。それでも、姉妹で並んで立った際、絵理沙さんの輝きに霞んでいたし、本人もそれを承知し、当然とも思っている様子だった。

 そんな、学校ではまず見られない姿に面喰うこと数十分。置かれた状況に慣れ始め、油断が生まれた頃の熟考と、うかつ過ぎる発言が、つい今しがたの出来事。


「それにしてもごめんね、土一君。姉同伴のデートだなんて気が重いわよね。この子ったら海に行きたいって聞かないの。電車とかバスを使って二人で行けるところにすればいいのに」

「いえ、気が重いなんてことないです。こちらこそ、すみません。休日に車を出してもらって、ありがとうございます!」


 本日は、絵理沙さんの運転で海沿いの観光地を巡る予定。

 愛良先輩が男子大学生たちとするお決まりのデートコースらしいが、生憎、俺には運転免許も自由に使える車もない。

 そのため、のんびりと余暇を過ごすつもりだった姉に頼んで、運転手をやってもらっているというわけだ。


「……あの、海辺じゃなくてもよかったんじゃ? わざわざお姉さんに迷惑をかけなくても……」


 小声で愛良先輩にそう話しかけたが、「私のことなら、迷惑じゃないから気にしないで。運転好きだし~」と言われ、ばっちり聞かれてしまっていた模様。


「いいのよ、失恋と言ったら海を見に行くものじゃない!」

「なんか、恋愛ドラマとか少女漫画にありがちですね」

「……そ、そうね」

「その二つとも愛良は大好きでよく見てるよね。必ず登場人物に感情移入して泣いちゃうし」

「お、お姉ちゃんいーの! 余計なことは言わなくていーから、ほら、運転に集中しててっ!」

「はぁーい」


 自由奔放で、どちらかと言えば人を振り回すタイプの愛良先輩も、実の姉の前では形無しになってしまうようだ。新鮮なその姿は、いかにも妹っぽくて可愛らしい。


「……怒られちゃった」


 いたずらっぽく舌を出す絵理沙さんの顔がバックミラーに映る。目が合うとウィンクを投げられた。普通の男子高校生の胸は容易くドキッと高鳴る。

 ちなみに、俺の失恋については出発前の自己紹介時に、愛良先輩の口から暴露された。「あらら、そういう趣旨だったの……」と、絵理沙さんは困った表情で微笑んだ。気の毒そうな視線が、完治したばかりの傷には少々沁みた。


「お姉ちゃーん? あんまり土一をからかっちゃだめよ? 土一は今ひっじょーにチョロい時期なんだからね。勘違いしちゃうわよ?」


 人聞きの悪いことを言ってくれる。

 いくらチョロい時期でも、こんな魅惑の美女相手に、初恋の告白を断念せざるを得なかった系高校生男子の俺が勘違いできるはずない。

 というか、別にチョロい時期なんかじゃない。


「あららそれは大変。勘違いしちゃだめよ、土一君?」

「そうそう」

「愛良がヤキモチ焼いちゃうからね~」

「そうそう。私からお姉ちゃんを奪おうだなんて考えてみなさい? 血の雨が降るわよ!」

「……お姉ちゃん、そっちのヤキモチのつもりで言ったんじゃないんだけどね」


 絵理沙さんはくすぐったそうに笑い、目を細めていた。


「愛良先輩はお姉さんのこと大好きなんですね」

「ええ、そうよ!」


 緊張するかと思っていた愛良先輩とのデートは、案外心安くいられそうだった。愛良先輩とのデート、と言うよりは鳴子姉妹とのお出かけ、が妥当っぽいけれど。


 +++


 移動時間およそ二時間弱。県を一つ越え、海なし県から海あり県へ。

 海辺のリゾートなだけあって、立ち寄るスポットへは海沿いの道を走れば行けた。

 スタートは展望台タワー。港に立つガラス張りの展望台タワーは、地上五十五メートルの展望室から、太平洋と関東平野の大パノラマを見渡すことができる。

 次は水族館。約600種の海洋生物が展示されている海中の世界。近海を切り取ってきたかのような巨大水槽には感嘆の息が漏れた。淡水魚エリアもあり、川に親しんでいる俺と愛良先輩が最もテンションを上げた場所となった。


「土一、土一、ニジマスがいるわよ! はぁ~、綺麗ね」

「愛良先輩、こっちにはナマズがいますよ! 渋い、かっこいー」


 他の観光客が通り過ぎていく中、一際はしゃいでいる田舎の高校生男女を見守る絵理沙さんの視線は、生暖かかった。

 水族館を出るとお昼を過ぎていた。

 新鮮な魚介類をリーズナブルな価格で購入できる名物市場で昼食を取る。俺と絵理沙さんは海鮮丼を注文した。貝類とウニが苦手な俺だったけれど、ぺろりと平らげていた。観光地の空気感と空腹がなせる業だろうか。

 揚げ物が大好きだという愛良先輩は、マグロのヒレカツをご満悦で頬張り、口の周りをギトギトにしていた。

 お腹が膨れた一行が次に向かったのは、国営の海浜公園。

 園内は六つのエリアに分かれていて、各アトラクションや、一年を通して四季折々の花畑が楽しむことができる。有名なのは初夏に咲くネモフィラ畑だとか。


「時期的にネモフィラは終わっちゃっているわね」

「少し残念なような、ちょっとホッとしたような」

「へ?」

「いえ、こっちの話です」

「そう。この時期の見頃はラベンダーよ」

「……よし、絶叫系の乗り物を網羅しましょう! 吐く勢いで!」

「言ったわね、土一。覚悟しなさいよ?」


 薄く微笑む愛良先輩のオッドアイに、狂気的な妖しい光が宿っていた。


「お姉ちゃんは適当にキミたち二人とか、あちこちの写真撮ってるから。気が済んだらケータイに連絡ちょうだいねー」


 運転以外はずっと、首から下げたデジカメで写真撮影に及んでいた絵理沙さんが、手を振って遠ざかっていった。

 定番のジェットコースターからスイング系やら回転系やらの絶叫系アトラクションを何度も、それこそ目が回って本当に吐くくらい堪能した。

 退園前に寄ったお土産屋で、ネモフィラ畑のポストカードを見つけた。一面に広がるネモフィラブルーは颯然として爽やか。心が洗われるような青色の幻想世界が映っていた。

 俺は雪村夫妻と北西兄弟、それからクラスメートたちのお土産に加え、ネモフィラのポストカードと、マーガレットのポストカードを購入した。

 あと、ハンドメイドのアクセサリー売り場で見かけた、パンジーとサイネリアのヘアピンを、鳴子姉妹に隠れて買っておいた。


 +++


 日が傾いてくると、海辺に面したカフェのテラスで一休み。個人経営だというカフェは、愛良先輩の行きつけ。

 店員さんはもちろん、オーナーさんとも顔見知りで、「今日の彼は、今までのボーフレンドたちみたいに、こなれた風じゃないねぇ」と珍しがられた。

 カフェテラスはさざ波の音と潮風が心地いい。海面は、夕焼けを浴び燃えるように輝く部分と、夜陰に呑まれた部分の明暗が美しかった。

 テラスからの一望に見惚れていると、挽きたてブレンドコーヒーとケーキのセットが運ばれてきた。ケーキは俺がモンブランで、愛良先輩はティラミス。

 絵理沙さんは、海に立つ鳥居と夕日のコラボレーションを撮影するため別行動中。


「日没までどのくらいかしらね」

「そうですね、……大体四十分ってところだと思います」


 水平線から太陽まで、指が何本分あるかを見て答えた。


「え、どうしてわかるの?」

「ボーイスカウトで習ったんです。腕を前にまっすぐ伸ばして、手のひらを内側にするんです。自分の目の位置から見て、太陽と水平線までの距離が指何本分あるかを数えます。指一本が約二度として、五本全部収まれば約十度。太陽や星は一時間に十五度ずつ進みますから、一度だと四分になります。今は指五本分あるんで四十分かなぁと、……教わった時は地平線だったんで、水平線にも応用が効くのかは謎ですけど」


 話し終えた後で我に返った俺は、猛烈な恥ずかしさに見舞われた。日常生活でまず役立たないであろう知識を、あろうことかじょう舌に語ってしまった。

 いつだったかクラスの女子が、男のウンチクはうざいしキモイ、と話すのを耳にしていたのに。


「へぇ、指の本数でね~」


 見様見真似で腕を前方へ伸ばしている愛良先輩は、一応、感心した様子でいるものの、内心で呆れ返っている可能性も否めない。

 ちょっぴり居たたまれなくなった俺はコーヒーに手を伸ばした。


「こういう話をしてくれたの、初めてよね。考えてみたら、土一と二人きりってあるようで意外となかったものね」


 言われてみればそうだ。コーヒーを口に含みながらそう思った。

 ボランティア部だって、先に勧誘されていた蛍を追って入部した。愛良先輩と俺との間にはいつも蛍がいた。二人きりなったのなんて、この間、愛良先輩がうちを訪ねて来てくれた時ぐらいのものだった。

 ですね、と同意の言葉を発するより先に、


「はぁーー、楽しかった! 土一とのデート楽しかったわー」


 愛良先輩が、組んだ両手を空に伸ばして満足げに言った。たしかに、言葉通り楽しそうにしていた。

 だから少し面喰ったんだ。学校で見せる自由奔放さとは違う、無邪気に遊び回る姿も、歩いている時や、アトラクションを乗り降りする際に、手や肩が軽く接触した瞬間の反応も、なんだか初めてデートに来ているみたいだなって。

 でも、そんなはずはない。だって、


「大学生のボーイフレンドたちとよく来てるんじゃなかったんですか?」

「そうだけど、その時は緊張してるから」

「まったまたー。通じませんよ、そんなジョーク」


 そう軽口をたたいて、フォークで切り分けたモンブランを口の中へ運んだ。まろやかな甘さが美味しいモンブランに苦味を感じたのは、目の前に座る女の子があからさまに無理をして笑ったからだ。


「自業自得、よね」


 その声に咲く〝パンジー〟は苦しげに萎れていき、やがて枯れた。愛良先輩の自分への激しい嫌悪がそうさせていた。


「ねえ、土一……あなたから見る私って、鳴子愛良ってどんな女の子か教えてくれない?」


 唐突な質問が始まった。パッと思い浮かぶままを、頭の中で並べていく。自由奔放、一匹狼、複数の年上彼氏持ち――


「それらの行動の原動力が親への反抗……ってところかしら。どう? 当たってた?」


 俺の思考と並行して、指折り言い挙げていった愛良先輩の言葉は、一言一句がピタリと一致していた。驚きを隠せないでいる俺に、愛良先輩はつまらなそうに微笑んだ。


「一年の頃から周りに言われ続けてることだもの。下の代の子たちにも言い回しが伝わっちゃってるのよね」


 たしかに、周囲から聞き及んだ噂のイメージが定着していた。実際に接してみても噂通りの人だと思っていた。つい、さっきまでは。

 今俺は、学校の誰もが知らない鳴子愛良に触れていのかもしれない。

 踏み切ってみたくなった。跳んでみなければなにもわからない。それを教えてくれたのは、目の前のこの人だったから。


「本当のあなたは、どんな女の子なんですか?」


 ド緊張の中、どこか告白めいた言葉だなあ、と頭の隅にいる俺がぼやいた。


「えっとね……」


 微熱交じりの声を出した愛良先輩も、告白を受けた少女のような顔をして、胸を押さえていた。


「私には、生まれた時からお父様が望む私の幸せがあって、私はその通りに生きるしかないと思っていたわ。『お父さんの言うことを聞けば、愛良は必ず幸せになれる』。そう言い聞かせられて育って、幼い時分から今でもその言葉を信じているのよ」

「どうして、ですか……?」


 幼いままならいざ知らず、高校三年にもなれば自我も芽生えたはずだ。

 自分の可能性を知った現在なら、文武両道を地で行く愛良先輩であれば、お父さんの描いた幸せを頼らなくても平気に思えた。固執する理由を考えて、閃くものがあった。


「お父さんの、市長としての地盤を引き継ぐためですか?」

「いいえ。それは優秀な姉に託されているわ。お姉ちゃんも期待された以上の成果でもって応えている。私は不安も責任もなく、ただ甘やかされて育ってきた。だから怖かったのよ。お姉ちゃんはお父様の敷いたレールを歩む覚悟を決めていた。その反動で、私には自由に未来を選択して欲しいと常々考えてくれていたのよ。『お父様の決めた道ではなくて、愛良は愛良のなりたいにもになっていいのよ』。笑顔で助言された私は、将来を想像してみたのよ。そうしてみたら、私はお父様が与えてくれる幸せ以外の将来が、怖くて不安であると思ってしまった。お父様の言う通りに生きれば、困った時、責任を取らなければいけない時、絶対にお父様が助けてくれる。それならば怖くない、不安もない」


 話を聞きながら不思議な感覚に陥っていた。

 対面に座る愛良先輩の容姿が時々、幼児期、児童期、学童期、と変貌して見えた。ただし、浮かべる表情だけは一貫して憂い顔。


「この歳になっても、お父様は変わらず同じことを言うわ。私はそれを承知しているけれど、いくばくかの窮屈さを覚えてもいる。それでもね、自由が持つ不自由さの方が断然怖いのよ。逃げている自覚も負い目もある。だから、『将来はお父様が決めた人と結婚しなければならないの、それまでは自由にやらせてもらうわ』、なーんて反抗するセリフを吐いて、カモフラージュして、誰にも気づかれないように一人でいたわけよ。……どう? 徹頭徹尾ダッサイでしょう?」


 俺に答える間も与えず、愛良先輩は更に、蛍をボランティア部へ誘ったのは、一匹狼を気取っているのが寂しくなったからだと言った。後輩であれば距離を置いて付き合える、ましてしゃべれない蛍ならば尚更。


「それにね、蛍も私と同じようになにかから逃げているニオイがしたのよ。土一も、理音もね。同族を嗅ぎ分ける嗅覚って感じかしら、それが働いたから入部させたのよ。……言っちゃうけど、理音を引き入れてできちゃったトライアングルには、私が一番ビビっていたと思うわよ? 涼しい顔して土一や蛍の相談に乗ったけど、汗びっしょりだったもの」

「……そうだったんですね」


 涼しい顔ではなかった。俺の部屋で俺に寄り添ってくれた愛良先輩は、一生懸命だった。愛良先輩がいてくれたから、俺は変われた。

 でも、俺の背中を押してくれた愛良先輩も悩み、苦しんでいた。思い出したのは、悲しげに俯く〝パンジー〟が咲いた言葉。


『……なにもしないまま刻一刻と時間が過ぎ、減っていく選択肢に嘆くだけ。そしてなにも成せないまま終わる。そんな人生、嫌でしょう?』


 あれは自分のことを語った言葉だったのか。

 愛良先輩はきっと、重ね続けた後悔の上に立っている。グラグラと揺れる足場の悪い場所に、必死でしがみついている。踏み切りたくても、踏み切れずにいる。

 それをダサイなんて俺は思わない。思えない。根を張った場所が悪くても、間違っていても、そこで咲かせる花が歪になっても、独りじゃ動けない。甘えかもしれないけれど、きっかけをくれる誰かがいなければ、人は変われない。

 逆を言えば、きっかけをくれる人が一人いれば、人は変わっていけるんだ。


「……愛良先輩」


 振り絞った声はかすれていて、残念ながらピアスの揺れる耳には届かなかった。


「私はお父様が描く幸せな将来以外考えていない。考えようともしないで逃げてる。私が一番怖いのはお父様とぶつかることなのかもね。そして本当は、そんな自分を誰かが変えてくれないかしらって願っている、他力本願極まれりって感じの、どうしようもない女なのよ」


 コーヒーで口内を湿らせているうちに、愛良先輩が話のまとめに入っていた。


「私ね、デートをする時いつもこうしているの」


 虚を突いた発言で思考を停止させられる。愛良先輩はティラミスが乗っていた装飾用の台紙で紙ヒコーキを折ると、砂浜に向けてかざした。


「お父様の描く幸せから私を連れ出す勇気があるなら、捕まえて? ……ってね」


 流れ星に願いごとを託すみたいな切ない声でつぶやいて、紙ヒコーキを投じた。

 俺は弾かれたように席を立つと、メガネをテーブルへ放り、スタートダッシュを切った。愛良先輩の呆気に取られた声を置き去りにして、道路を横切り砂浜へ飛び込む。


「土一!? そんな、だって今まで誰も……っ」


 夕風を掴んだ紙ヒコーキはぐんぐん飛距離を伸ばし、海上へ向かっていた。

 対する俺は、紙ヒコーキの行方を追うため、空を見上げた効率の悪い走り方をしている。加えて、ここの砂浜は岩場の割合が多く足を取られた。ラップタイムを計ったなら、自己ベストを大きく下回るだろうスピードだろう。


「途中、拾いものをしたのが仇になったか……?」


 いいんだ。俺は中学ん時、短距離走じゃなく棒高跳びをやってたんだから――!

 どこから漂着したのか、砂浜には物干し竿に似た細長い鉄製のパイプが落っこちていた。

 持った感触は固く、反発力もありそうだ。長いこと海に攫われていたわけではないらしい。棒高跳び用のグラスファイバー製のポールには数段劣るけれど、代用できる棒が落ちていただけラッキーだ。

 肩でリズムを取りながら走り、タイミングをよく突っ込み動作に入る。波打ち際にある岩場の潮だまり、水深は目算で二十センチ。ポールの先端を突っ込むボックスに見立てた潮だまりへ、高い姿勢で体を伸ばすようにしてパイプを突っ込んだ。


「踏み切りは上の手の真下で――っ」


 踏み切ってもすぐにパイプにはしがみつかず、振り子を意識して体を振り、伸び上がりに備える。腕を伸ばし、キックした脚も伸ばす。そうすることでパイプが立ちやすくなるし、その後の脚の振りあげにつなげやすくなる。

 パイプの反発を感じながら、頭を少し後ろへ傾けて足を振りあげると、視界の天地が逆転していた。腕の力も使って、体を引き上げていく。体を捻りながら伸び上がり、パイプを突き放した。

 これが棒高跳びなら、バーをクリアして終了だ。

 けれど、俺の目的はバーを越えることではなく、紙ヒコーキを捕まえることだ。首を回すように頭を振って、愛良先輩の紙ヒコーキを探した。


「――あった!」


 紙ヒコーキは俺の真上を悠々と飛んでいた。手を伸ばせば届く距離だった。しかしそれは、俺が落下しなければの話。


「くそ……と、ど、けえっ―――!」


 目いっぱい伸ばした左手は空を掴み、紙ヒコーキには指先すら触れることはなかった。

 浮遊感が消え去り、一直線に落下していく。

 海面に背中を打ちつけても、俺の目線は一転に注がれていた。海水が口や鼻や耳に侵入してきても、波が視界を遮るまで紙ヒコーキの行方を追っていた。


「きゃあ…ああ…あ…ああ…あ…っ!」


 途切れ、途切れの悲鳴が、波の隙間から聞こえてきた。名前も何度か呼ばれた気がする。

 俺の落下した場所は水深が浅かった。海底に打ちつけた全身に痛みが行き渡るけれど、構ってはいられなかった。すぐさま起き上がり、空を仰いだ。


「……ない、どこにもない……」


 燃える夕日に焼き尽くされたのか、それとも、闇に吸い込まれてしまったのか。紙ヒコーキは忽然と姿を消していた。


「――土一っ!」


 名前を呼ばれたかと思ったら腕を掴まれた。


「なにやってるのよ!? 危ないじゃない!」


 当然だけど愛良先輩だった。泣きそうな顔のまま怒って怒鳴っている。〝パンジー〟もつぼんだり下を向いたりと、不安定な状態だった。


「怪我は!? 怪我してないでしょうね!?」

「……なかった」

「腕は? 足は? 頭は背中は? どうなのよ!?」


 怒涛の質問とともに、体のいたるところへ触れていた。それには答えず、俺は結果を口にする。


「つかまえられなかった」

「――え?」

「紙ヒコーキ、つかまえられなかった」


 そんなこと、と愛良先輩が嗚咽するようにつぶやいた。信じられないと物語る顔は、夢から覚めた直後を思えわせた。


「っ、ばか……ばかっ!」


 叩かれた胸板が、べちっ、べちっと水気を含んだ音を立てた。依然として〝パンジー〟は不安定なままだった。


「……すみません」

「捕まえられなかったことを怒ってるんじゃないわよ! どうして追いかけたりしたの!? どうしてこんなずぶ濡れになってまで……!」


 とうとう泣き出してしまった愛良先輩が俺を睨んでいた。見た覚えのある表情だった。前に目撃したのは自分の部屋で、今と同じように二人きりだった。思えば俺は、この人に心配ばかりかけている。


「な、なに、わらってんのよぉ!?」

 笑みをこぼすと、泣きながら不満をぶつけてきた。小首をかしげるように俯く〝パンジー〟が咲いている。

 綺麗だと思った。溶け合いながらも境を保っている空と夕日と海、それをバッグに佇む花と、愛良先輩は、とても綺麗だった。

 見惚れていると、涙が落ちて海に混ざっていった。その雫を拭う術を俺は持っていない。

 海水にまみれた自分が無性にもどかしかった。指で拭うことはできるけれど、躊躇した。愛良先輩の肌は白く滑らかで、こんなしょっぱくなった手では触れちゃいけない気がした。

 だから涙を拭う代わりに、言葉を紡ぐ。愛良先輩の問いかけに答える。


「紙ヒコーキを追いかけたのは、見えたからです。愛良先輩の声に咲く花が、つぼんだまま下を向き、枯れていくのが。その様相が深い悲しみと不安、自己嫌悪を意味していることを知っているから、追いかけずにいられなかったんです」


 動揺を隠せない愛良先輩が、戸惑った口調で「私の声に、咲く花……?」とつぶやいた。


「俺には、人の声に咲く花が見えるんです。声に咲く花は、人の感情に合わせて状態を変えます。愛良先輩の花はつぼんだまま下を向き、枯れました。それは、深い悲しみと不安と自己嫌悪の表れ。……心当たりありますよね?」


 しゃべればしゃべるほど、愛良先輩はなにを言われているかわからない、という困惑の表情を深めていった。

 おずおずと俺の腕に触れ、「土一、あなたなにを言ってるの……?」と訊ねてくるのは、至極真っ当な反応と言えるだろう。


「とりあえず、上がりましょっか。いつまでも海に浸かっていたら風邪引きますよ」


 気を取り直してそう声をかけた。返事は待たず、更に促す。


「行きましょう。足元、気をつけて」

「……ええ」


 その声にもつぼんだ〝パンジー〟が咲いているのだと、戸惑っている彼女に教えてあげたかった。


 続く

長くなってしまってすみません…!

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