第三章 先輩 鳴子愛良 その①失恋しても朝は来るの風景
昨日は、悲嘆に暮れながらなんとか家へ帰った。
どんなに悲しくても、芙美恵おばさんに出迎えられれば、自然と笑顔になっていた。帰る場所があるっていうのは本当に心強くて温かい。
お陰で、布団に入るまでは(多少、消沈しつつも)笑っていられた。タオルケットに包まって涙しても、心静かに自分との対話ができた。
迎えた朝も、ご飯を『美味しいです』って言っておかわりができた。
学校へ登校するのは、それなりにきつかった。蛍と鉢合わせないようにと登校時間を早めたら、蛍も同じことを考えていて。同じ時間帯のバスに乗っているにもかかわらず離れた席に座り、バスを降りた後も別々に登校するという、針のムシロ状態になった。
「おい、あれ見ろよ。小角と樵田」
「はぁ? あいつらのラブ登校なんていつものこと……うわ、なに、小角と樵田破局? ケンカ?」
「え、なぁに? 樵田さんぼっち登校じゃん。オヅノにフラれたとか?」
「あー、逆かもよ? 樵田さん最近、リオン君と仲イイし」
でも、この程度ならまだマシだった。
「なになに? お前ら別れたん? ぶっちゃけ理由なに? どっちから振った?」
「チワゲンカですかー? それともケンタイキー?」
「転校生君にホタル寝取られちゃったんだぁー? だっさぁー」
神経を逆撫でする言い方を選ぶ奴らもいた。
これらの声には、枯れた花が咲いた。
枯れた花は、実はそうそう見られない。弾みで出た悪口や愚痴の類では花を枯らせることはできない。声を向けた相手を害する明確な悪意が宿らない限り、枯れた花は簡単には咲かなかった。
奴らの反応は、俺と蛍の今までが今までだったから仕方ないとも思う。
とはいえ、気力を削られる思いだった。教室につくまで散々冷やかされたが、それは教室についてからも同様で。俺は机に突っ伏し、外部を遮断。聞く耳を持たない構えを取った。
それでも、まとわりつく輩は後を絶たない。そんな奴らには――
「彼は寝不足なんだよ。わかったかい? わかったらなら巣へ戻れよ、この低能の下衆野郎どもが」
千駆が冷水のような、いや、氷水よりも冷たい言葉を浴びせていた。
腕から少し顔を上げて窺うと、苛烈な笑顔がそこにはあった。大国の皇帝が、捕らえた反逆者を前に浮かべるような、冷徹で慈悲のない笑みだった。
声に咲く〝ダリア〟すら、通常より高い位置に咲き、威圧気味に見下ろしていた。過激な物言いに枯れた花が咲かないのは、俺のために発した言葉だからだろう。
顔を伏せている場合じゃない。そう思う俺の頭にぽすん、と手が置かれ、軽く押さえつけられる。
「――いいから寝ていなよ。寝不足は図星だろう? 顔を見ればボクにはわかるよ」
澄んだ水滴のような言葉が真上から落下してきて、胸の中で広がる。
まだささくれ立った傷心に、よく効く傷薬を塗り込まれた思いだった。俺が女だったら絶対千駆に惚れている場面だろう。
千駆の言葉に引き下がっていった奴らの代りに、近寄ってくる足音があった。
「なぁーんだよ、千駆。いやにドイチの肩ばっか持つんだなぁ? 一年前はこーゆーネタがありゃ、率先していじってたくせに」
からかいの中に苛立ちを含ませているその声は千足のものだった。
今日はドアを乱暴に開けることもなく、お馴染みのあいさつを口にすることもなく、俺を冷やかす輩を遠巻きに見ていたらしい。
「そういうのはもうやめたんだよ」
「ふーん。さっきの奴らもウゼーけど、千駆もいい子ちゃんぶってて、なんかウゼー」
「そうかい」
「チッ。ドイチ寝てるし、今日は勧誘なしでいーわ」
頭をボリボリと乱暴に掻く音を立て、千足が遠ざかっていく。
千駆はその背中に向けて「賢明だね」と嘲りを帯びた声色を投げかけた。ピンと空気が張り詰め、糸の切れる一歩手前の、キリキリとした音が聞こえるようだった。千足が踵を返す気配がした。
「……千駆、お前が勝手に外見変えたことまだ許してねぇーからな?」
ドスの聞いた声に背筋を震わせたのは、おそらく俺だけじゃないだろう。
千駆はなにも答えず、黙って千足を見据えているようだった。痺れを切らした千足が教室を出て行き、張り詰めた空気が一気に弛緩した。静まっていた室内にざわめきが戻る。
「北西兄弟のケンカこっわ」「千足君って怒らせるとあんな風になんだね……ちょっとイイかも」「二年二組の中じゃ、ドイッチャンと樵田のことはノータッチで行こーぜ」「そうだな」「あたしもさんせ~い」「だね。なんとなく理音君が来る前でよっかた」「ほら、そういうのも言うなっつーの」「あ、そっか、ゴメン」
口々にしゃべっているクラスメートたち。その中でも、今井と一戸、竹宮さんと浅岡さんに感謝の念を送った。このお礼は昼休みに、きちんと言葉にしよう。
俺がそんなことを考えていると、千駆が独り言ちる。
「……許すも許さないもない。ボクたちは初めから別々の存在なんだから」
それから再び俺の頭へ手を置いて、穏やかな声で囁いた。
「騒がせて悪かったね。モモちゃん先生が来るまで時間がある、今しばらくはそうしているといいよ」
昨日といい今日といい、世話になりっぱなしだ。千駆には当分頭が上がらないだろう。
+++
午前中の休み時間を机に突っ伏して過ごした俺は、昼休みの鐘が鳴る頃には、空元気を出せるくらいに持ち直していた。
「いやーさかー!」
両手を突き上げるついでに、伸びをして背筋や首をほぐした。ミシミシと節々が音を立てている。
「ドイッチャン、おメザメ?」
「よく寝てたな、土一。もう昼だぞ」
今井と一戸が、背後から声をかけてきた。
二人はロッカーに腰かけて、弁当に食がっついていた。休み時間もその場所に陣取って、他クラスの奴が入って来られないように無言の圧をかけてくれていた。
本当にいい奴らだ。二人にはもちろん、竹宮さんと浅岡さん、他のクラスメートたちにもお礼を言って、廊下へ出た。隣のクラスに、蛍に会いに行くためだ。
教室の外へ出た途端、千駆の背中を見つけた。一組の教室の前に立ち、中を窺っている。
「千駆?」
「――あぁ、土一クン。起きたんだね。もういいのかい?」
「うん、色々とありがとう。ここ数日で受けた恩は必ず返すよ。……陸上部に入る以外でね」
「ボクは千足と違って、本気で勧誘しているわけじゃないさ……。そうだなぁ、マルナナカフェのオリジナルアイスで手を打とう」
「了解、奢るよ。ところで、誰か探してるの? 千足?」
「いや……、ボクが見ていたのは彼女さ」
〝エリカ〟
千駆が指さした先には、人垣ができていた。時折できる隙間から覗くのは、蛍と、蛍を庇うように立つ菜花ちゃんだった。
俺は千駆や今井や一戸と言ったクラスメートたちの保護下にあり、手が出せなかった。だから、噂の真相をたしかめたい野次馬は蛍の元へ殺到していたんだ。
「……ちょっと行ってくる」
「ああ、頼むよ」
てっきり「いってらっしゃい」と返ってくるものだと想像していたから、少し呆気に取られた。
千駆の視線は依然として菜花ちゃんに向けられている。その様子に閃くものがあったけれど、目の前のことに頭を切り替えた。
蛍の盾になっている菜花ちゃんのところへ、人混みをかき分けて入っていく。
「はいはいはーい、質問はわたくめが受付ますよって。ふわぁ~あ」
わざとらしい欠伸を一つ。のん気さを演出しておいた。
一拍の沈黙を置いて、わっと取り囲んでくる野次馬たち。蜂の巣をつついたような騒ぎだった。耳を澄ませば、多少言葉は違えども、大体が俺と蛍の関係を問いただす内容だった。
俺はまたわざとらしく、きょとんした表情を作る。
「なんだそんなことか。午前中はとにかく眠いから相手にしなかったけど、正解だったな。……あのなぁ、俺と蛍は幼馴染なだけで、これまで一度も付き合っちゃいないよ?」
至って真面目に、そしてやや呆れた口調で言った。
「じゃあ、どうして一緒に登校しなくなったんだ?」
「幼馴染だからって一緒に登校するのは変だって散々周りに言われたからだよ」
実際にそう言ってきた奴らの顔がちらほらあり、そういえばそうだったな、という顔をしていた。このまま冷静に、こいつらが聞きたいこと全部に対処していこう。
「樵田さんと理音君はなんで仲良くしてるの?」
「それは二人の自由だろ。俺たちが口出しできることじゃない」
そう答えると、女子数名が恥じ入った様子で下を向いた。彼女らの関心は、俺と蛍じゃなくて、蛍と理音というわけだった。
その後続いた質問は、「なんで急に?」や「きっかけは?」と、最初の質問と大差ないものが続いた。
俺の答えは「じゃあ今日は練習ってことで、明日から正式に別々の登下校を宣言するよ」や「今までみんなが助言をくれたからです。満を持してって感じです」と煙に巻く物言いをしておいた。
そうして全員の質問に答えた。野次馬たちは消化不良を感じつつも納得し、引き下がっていった。
一人、やたらと突っかかってくる物言いをした先輩がいて、彼の腕を捻って黙らせたことが、決め手になった気もしなくもないけれど。
「ごめんね、菜花ちゃん。変なことに巻き込んで」
「へ? あ! ううん、取りなしてくれてありがとう、小角君」
菜花ちゃんは、ホッとした様子で微笑み、〝ゼラニウム〟を咲かせていた。
彼女とは、蛍を介してだけのつき合いに留まっていたため、気安さとは無縁だった。これからは、できればきちんと友人として付き合っていきたいと思う。
「お礼を言うのは俺の方だよ。本当にありがとう」
蛍を守ってくれて……。
心でつぶやきながら手を差し出した。菜花ちゃんは逡巡の後、しっかりと握手に応じてくれた。
「これからもよろしく」
「うん、よろしくね」
〝ゼラニウム〟
初めて真正面から菜花ちゃんの笑顔を見た気がした。数秒間、笑みを交わし、俺は蛍へと向き直った。
「……蛍。昨日保留にしたままの話がしたいんだ、ちょいいいかな」
心持、目を見開いた蛍は、少しの間を置いた後、こっくりと頷いた。俺たちはボランティア部の部室へと移動した。
部室には愛良先輩も理音もいなかった。昼休みに部室を使用したいと連絡をする暇はなく、一か八かで訪れてみた。二人がいたら場所を変えようと思っていた。
なんだったら、歩きながらでも構わなかった。
室内へ入った俺は、閉め切ってあった窓を開けた。かすかに聞こえていた流石川のせせらぎが、はっきりとする。
「…どい…ち、くっ…、さ…きは…あ…がと…う。あ…と、ご…め…」
背中に投げられた言葉は、その内容よりも、発せられる音が増えたことや、明瞭さに意識が向いた。
蛍は少しずつ言葉を取り戻している。この分なら理音への告白は、自分の口で伝えてしまえるかもしれない。脳裏に、樵田家のみんなの喜ぶ顔が浮かんだ。
「…きの…う…の、つづ…き…」
「うん。二人一緒の時間をおしまいにしようっていう、問いかけに対する返事。一晩うつらうつらしながら考えた」
「…う、ん…」
その言葉を言うために、目を閉じる。
「俺は……」
まだ蛍が好きだ。けれど。
「蛍のことを諦める。もう二度と思いを伝えたりしない。そういう意味では、二人一緒の時間をおしまいにするのには、賛成だ」
蛍が小さく息を飲む音が耳に届いた。
「でも、だからって全部なかったことみたいになるは反対だ。さっきも言ったけど、蛍は大事な幼馴染だ。俺にそんな風に思われるのは嫌かもしれない。腹が立つかもしれない。けど、でも、それが俺の本心なんだ……!」
息が続くまで言い切って一度止める。熱くなった胸を冷ますため、窓から入り込む新鮮な空気を取り込んだ。それから目を開ける。
蛍は、話が想定していなかった方向へ進み、驚いた顔をしていた。
「二人一緒をやめても、俺たちは幼馴染だし、ボランティア部員だ。完全には離れられない。必要以上に仲良くすることもないけど、よそよそしくすることもないだろ? 二人で登校しなくても、あいさつくらいしたい。廊下ですれ違ったら、軽く会話をしたたっていいと思う。ていうか俺はしたいし、もし困っていたら普通に力になりたい。好意のあるなしとか幼馴染とか関係なしに……! ……どう、だろ? それでも、離れなきゃいけないって蛍が思うなら、その時はその意志を尊重するよ……」
話を聞くうちに、蛍は顔を俯かせていき、最後には下を向いてしまった。
窺い知れない表情と反応のなさに狼狽え、次第に俺の声は弱々しいものになっていた。そうして言い分を伝え終えたものの、蛍は動かずにいて、だから俺も動けないでいた。
こんな時理音なら、平気で蛍の顔を覗き込むんじゃないだろうか、と脈絡もなくそんなことを思った。
あの長身を屈めて大胆に顔を覗き込む。それがどんな面持ちであっても、理音がそうするだけで、想像の中の蛍は笑顔になった。
「どい…ちく…は、ず…い…よっ…」
悔しさをにじませた声が、想像の世界から俺を現実へと引き戻した。
「どい…ちく…が…へい…き…でも、…わ…たし…は…っ」
ギクッとしたのは、蛍が恨めしそうな眼差しで俺を見ていたせいだ。しかしそれも一瞬のことで、蛍は覚悟を決めた顔で俺を見据えた。
「かわ…り…に、りお…くっ…に、こ…くは…く、する…の、みと…ど…け…て…く…れる?」
――代わりに、理音君に告白するの、見届けてくれる?
「もちろん」
「ふ…ら…れ…ちゃ…たら、…やっ…ぱり…ふた…り…いっしょ…は…おし…ま…い…する。…ぃ…い?」
――ふられちゃったら、やっぱり二人一緒はおしまいにする。いい?
「……わかった。約束する」
蛍は目を閉じ、そっと息を吐いて、小さく笑った。泣いているようにも見える不思議な笑みだった。
振られたら、と蛍は言ったけれど、その可能性はまずない。
蛍がテラーロイドの音声を褒めた時、蛍がテラーロイドの扱いを習っている時、蛍が理音のお陰でしゃべることができたとお礼を言った時、理音は幼い子どもの顔をして、どこか懐かしそうに、とても嬉しそうに笑っていた。
なにより、蛍が自分で作った声に理音への〝マーガレット〟を二つ咲かせた日。俺が蛍に暴言を吐いて飛び出して行こうとした時、蛍の名を呼んだ理音の声には〝ネモフィラ〟が二つ咲いていたんだから。
蛍との話を終えた俺は、ボランティア部室からほど近い場所にある購買で、コロッケパンを購入した。
もので釣ろうなんて、我ながらさもしいと思う。でも、きっかけがなくちゃ話しかけづらいのも事実だった。
二年二組の教室に戻った俺は、自身の席でおにぎりにパクついている理音の元へ向かった。
「――おーい、理音、よかったらパン食べないか?」
なるべく自然を装って、その実めちゃくちゃ緊張しながら笑いかける。この二日間に渡る己の行動を顧みれば、正直無視されてもおかしくない状況だけれど……。
「兆、いただく。ありがとう」
マイナスの感情など一切なく、〝ネモフィラ〟を大きく咲かせていた。
最初から理音はそうだった。他人に対して悪意がない。あるのは善意と好奇心。無垢な子どものように、素直にまっすぐ人を見た。
素直さは時に鏡となる。俺は、理音の持つその鏡に、見たくない自分を映し出されるのが怖かった。鏡を怖れて、壁を作っていた。
一方で蛍は、だからこそ理音を好きなった。テラーロイドだけが理由じゃない。いいところも、悪いところも、目を逸らさず見つめて映し出す理音に、自分も世界も一変させられて、また蛍自身も変わることを選んでいたから、恋に落ちた。
俺は、まったくもって理音にも蛍にも敵わないんだ。
「理音、昨日はごめんな」
「ああ。……コロッケパン、うまい」
感情は未だ悲鳴をあげるけれど、腑に落ちた。
蛍と理音の恋は、叶わないわけがないじゃないかと。
続く




