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第二章 幼馴染 樵田蛍 その⑥最後のラベンダーの風景


 ゆるやかに沈んでいく太陽が、放課後の学校を彩り始めた。

 茜さす校舎に背を向け、蛙の合唱が響く中、約束の場所へと歩いていく。

 授業は気もそぞろになると思っていたけれど、案外集中できた。勉強に専念することで不安や緊張を紛らわせたかったのかもしれない。それは現在も同じで。俺は歩くことに集中していた。

 でないと迷子になってしまう気がしたんだ。歩き慣れた道だっていうのに、おかしな話と思う。

 そういえば今日はまだ、蛍に一回も会っていない。

 偶然か必然か、学校でも見かけなかった。とても味気なくて、とても心寒い。隣にいてくれた人がいないだけだというのに。もし明日からこんな日が続いてしまうとしたら、果たして俺は耐えられるんだろうか。

 そんなことを考えては軽くめまいを覚えていた。

 そしてたどり着く。


 田舎臭い町並みを――学校を、民家を、町役場を、小学校を、診療所を――追い越して、夕べの中、川原に佇む蛍に行きついた。

 黒髪を風と遊ばせているセーラー服の後姿。

 俺にとって比類ない大切な女の子。

 砂利を踏みしめる音を聞きつけて振り返った瞬間とき、蛍を見失った。俺の知らない女の子が立っていると思った。

 けれど、まばたきを一つしてみると、そこにはやはり俺の知る蛍が立っていた。知らない女の子はたちまち影を潜めていた。なにかを奪われた予感がした。


「…ど…くっ…?」


 一瞬の白昼夢に囚われて立ちつくす俺を、蛍が怪訝そうに呼んだ。その呼び声には二つの〝ラベンダー〟どころか、一つの花さえも咲いていなかった。

 俺は、手のひらにじっとりと掻いた汗をズボンで拭い、蛍のところまで歩み進んだ。


「――待たせてごめん。来てくれてありがとう」


 二つ咲く白い〝チューリップ〟。


「ふぅゆ」


 蛍がふるふると首を左右に振った。


「昨日のこと、きちんと謝らせて欲しい。……ごめん。酷い言い方をして、本当にごめん!」


 体を二つに折りたたむように頭を下げた。蛍が慌てているのが、気配でなんとなくわかったけれど、取り合わずに続ける。


「訂正させて欲しい……。テラーロイドの声は蛍の声だ。まがい物なんかじゃない、ニセモノなんかじゃ絶対にない。俺にはそれがよくわかるんだ。なにを言ってるのか蛍に意味不明だろうけど、本物の声だって俺が一番わかっていたから、あんな風な言い方をしたんだ」


 蛍の作ったテラーロイドの声に咲いた〝マーガレット〟は、その音声が蛍の声だという証明だった。


「本物の声だってわかった俺があんな風な言い方をしたのは、嫉妬をしたからなんだ……。俺は……」


 〝チューリップ(蛍のことが好きだ)〟


 声に咲く二つの白い花は正直に好意を表している。それなのに、七年越しの募りに募った思いは中々言葉になってくれない。俺自身がそれを拒んでいたせいもあるんだろう。

 一度、呼吸をする。甘いような酸っぱいような熱いような不思議な感覚が、肺でひしめいている。くすぐったくてあったかいそれらを開放するべく、形にするべく、俺は意を決して口を開こうとした。

 ただ、好きと伝えよう。

 一度だって伝えてこなかった言葉だ。二つの白い〝チューリップ〟を添えて、初めて蛍に告げる。さあ、口を開こう。

 その時だった――


「…だっ…! めっ…!」


 下から伸びた両の指先が、俺の口を押さえつけた。出口を失った告白は、喉の辺りで小さく「ンぐっ!?」とうめき声をあげている。

 目の前で起こったことが理解できなかった。蛍が、俺の口を塞いでいる。発した声に悲しそうに俯く〝マーガレット〟を咲かせながら。


 ……どうして?


 考えようとするとめまいがした。突然貧血でも起こしたみたいだ。思考がフワフワとして上手くまとまらない。足元も頼りなく感じる。膝がガクガク震えているのは、力が入らないせいだろうか。

 それでも俺は考える。思考を停止して、ありのままの現実を受け入れたら最後、立っていられなくなりそうだった。崩れ落ちてしまいそうだった。

 蛍が発したのは「だ」と「め」、つまり「だ」「め」、「だめ」だ。だめ……。だめというのはそれは――、ダメだ、……思考を巡らせても停止させても結果は変わらないんじゃ――?


「ぉお、そぉおぃい!」


 雄叫びに近い声が、耳と夕空をつんざかんばかりに響いた。

 夕立が降る前の雷鳴にも似た声には、〝マーガレット〟が怒りに打ち震えるように下を向いて咲いていた。

 怒りの〝マーガレット〟を濡らすように、蛍が涙をこぼした。止めどなく流れる涙が幾度となく〝マーガレット〟を通過していく。


「…お、そい、よ…っ」


 出会って以来、初めて聞く一番の明瞭な発音は、明確な断りを突きつけていた。

 言い終えた後で咲いた花は、理由はわからないけれど、〝マーガレット〟ではなく〝ラベンダー〟に戻っていた。

 数は一つ。もう一度見たいと渇望していた〝ラベンダー〟はしかし、拒絶の言葉に咲いた。それはなんだか、俺のことを象徴しているみたいに思えた。

 蛍は、スカートのポケットから取り出したケータイを、俺の眼前で開いた。

 画面に表示されているのは、作成日時が今日の十時二分とファイル名に記された音声データ。

 画面を俺に向けたまま、蛍は十字キーの真ん中にある決定ボタンを押した。すぐに画面が切り替わり、音声の再生が始まった。


《――私は、樵田蛍は、土一君のことがずっと好きだったよ》


 テラーロイドで作った音声……いや、これは樵田蛍の生の声で、心の声だ。声質もイントネーションも、さっき聞いた明瞭な声となんらそん色がない。

 ファイル名から推測するに、蛍は今日、学校には登校せずこの声を作っていたんだろう。俺の告白を見越し、断るために。

 正直に言えば聞きたくない。聞くのが怖い。けれど、耳を塞ぐわけにはいかない。目を逸らし続けてきた俺が今、耳まで塞いだら、それはもう台無しどころじゃ済まされない。蛍と過ごしてきた七年間を水の泡へと変えてしまう行為だ。

 永い躊躇いの一瞬を超えて、俺は俺の感覚を蛍へと研ぎ澄ました。


《――始まりを、きちんとは覚えてないの。土一君がカタクリの花のお墓にお参りをさせてって、言ってくれた時かもしれないし、互いの手を合わせてお祈りをした時かもしれない。もっと後かもしれないし、最初からかもしれない。気がついたら恋に落ちてたの。どんな時もそばにいてくれた。いつも笑いかけてくれた。上手くしゃべれない私を受け入れてくれた。ボーイスカウトを始めて、人気者になっても私を忘れないでいてくれた。理由ならいくらでも思いつけるけど、そのどれもが後づけにも思えるの。だってね、土一君を好きになるのに理由なんていらなかったから! ただひたすらに、ただあるがままに、土一君のことを好きになってた……!》


 耳を撫でる穏やかな声とはちぐはぐに、その顔は苦しげに濡れた頬を歪めていて、時折嗚咽を漏らしていた。

 思いを打ち明ける言葉には花が咲かない代わりに、嗚咽には、弱々しく頭を垂れた〝マーガレット〟と〝ラベンダー〟が交互に咲いていた。

 ケータイから流れる蛍の声が一旦止まった。画面が再生終了を示している。自動でファイルの一覧に切り替わると、蛍は十字キーを下方向へ操作して、再生ボタンを押した。


《けど、土一君はそれを望んでなかったよね……? お弁当も、誕生日プレゼントも、バレンタインのチョコも、笑って受け取ってくれたけど、笑顔が強張ってた。土一君は、私のこと異性として見てないなのかもって思ったよ。でもそんなの認めたくなくて、いつかは自然に心から笑ってくれるって言い聞かせてきたけど……どこまで行っても私は幼馴染で、それ以上でもそれ以下でもなかったってわかった。だから去年、一年をかけて土一君への恋を弔ってきたの……!》

「――蛍、でも俺は今っ……」


 いてもたってもいられなくて、口走っていた。蛍は再生を一時停止させ、顔を上げる。


「きっ、い、て…っ」


 泣き濡れた目に強固な光を宿して言った。その声に咲いたのが〝マーガレット〟だったらなら、俺は思いの丈を叫んでいたかもしれない。

 〝マーガレット〟は理音に惹かれている蛍の心の変化が形となったもの。理音に惹かれているだけなら、俺への思いを失っていないなら、どうにかできるかもしれないと思った。

 けれど、咲いたのは〝ラベンダー〟だったから、沈黙するしかなかった。悲しみに打ちひしがれて俯く〝ラベンダー〟は、俺への深い失望が形となったもの。

 蛍は俺への思いを完全に失った。自身の言葉通り、弔った。そうして新たに、理音へ思いを寄せた――。

 俺は口を閉ざすしかなくなり、話を聞く態勢に戻った。それを認めた蛍が、一時停止を解除する。


《――高校二年生の春。本当なら私は、すぐにでも土一君のそばを離れなくちゃいけなかったんだよね。でも、離れられなかった。離れ難かった。まだ離れたくないって、思っちゃったの……。それが私の犯した罪だよね。……そばにいていいのは高校を卒業するまで、そう自分の中で期限を作った。一人でも大丈夫なようになるために、今年の四月から手話を勉強していたんだよ? それで……そして、理音君が転校してきた。覚えてる? 最初に会った時、理音君が私に向かって言った言葉を》


 ここでまた再生終了画面になった。

 蛍は濡れた瞳を俺へ向けて、視線でも同じことを問いかけてきた。俺は思い出す。あの日の理音の言葉は――


「『アンタ、口利けないのか? それともパフォーマンス?』だったと思う」


 同時に脳裏を過ったものがある。理音の発言の後の、怒りをあらわにした蛍の様子。図星を指された者が逆上している姿だった。

 正解というように頷いた蛍が、次の音声ファイルを再生させた。


《――アンタ、口利けないのか? それともパフォーマンス? 理音君はそう言った。取り乱して、八つ当たりするくらい驚いて、その一方で納得もした。上手くしゃべれなくて苦しい思いをしているのは真実だけど、しゃべれないでいる限り土一君と一緒にいられるって……そう、思ってた私がいたこともまた真実なの……。全然、恋を弔い切れてない自分が腹立たしかったけど、それ以上に、隠れていたずるい私見を抜いた理音君に感じるところがあったの、……ビビビッて。その時は怒るばっかりで、家に帰ってから考えたことなんだけど》


 初めて〝マーガレット〟が咲いた思いがけない出来事の裏側では、様々な感情が蛍の中で行き交っていた。それはきっと、それ以前にもそれ以後にもあった。

 たとえば、直前にあったバス停へ駆け込んだ一幕。走る必要のなかった蛍が、俺と愛良先輩に置いて行かれまいと追いすがってきた。

 あれももしかしたら、弔い切れていなかった感情が蛍を走らせたのかもしれない。自分を取り残して愛良先輩と走っていく俺が面白くなかった。だから蛍は、自分への怒りの〝ラベンダー〟を咲かせ、悔いた顔をしていたのかもしれない。

 俺の知らないところで世界は目まぐるしく廻っていたんだ。今頃気がついたところで、後の祭りだけれど。


《――理音君はテラーロイドで、声を私にくれた。自分の中にある言葉を、音として発することができる。普通の人にとってはどうってことのないことでも、私にとってそれは、自分を世界ごと変えてくれるくらいの衝撃だった。自分の手でテラーロイドのソフトを使って、自分の声を作った時、恋に落ちる音がしたの……。私は、理音君が好き。土一君のそばにいて、依存してばかりだった私がやっと一歩を踏み出せる。そう思った、なんて……自分勝手だよね。頼って、すがって、甘えて、好きになって、諦めて、それでも離れられなかったくせに。そのせいで、私のせいで土一君に昨日あんな言葉を言わせた……! まがい物。ニセモノ。そう声を荒げた土一君は辛そうだった。痛そうだった。苦しそうだった。土一君が一番、傷ついてた……!》


 昨日、蛍が泣いたのは俺の言葉に傷ついたからじゃなく、俺のためだった。俺が自己嫌悪に浸っている間、蛍は俺のことで胸を痛めていたんだ。


「ごっ…め、ん…ね…」


 一時停止で作った数秒の空白を使い、蛍が自らの口でそう言うと、その声に咲いた〝ラベンダー〟も頭を下げていた。

 俺は言葉が詰まった。なにも謝る必要はないと、そう言い返すことができない間に、蛍の言葉が続いた。


《私、謝らなくちゃいけないと思って、言葉を声にするために今日は学校を休んだの。そうしたら土一君から返信メールがきた。なんとなく謝りたいだけじゃないんだろうなって、思った》


 音声が途切れ、蛍の指が次のファイルを再生させる。これでおしまいだろうという予感があった。事実、一覧表示になった際、次のファイルがないことが確認できた。

 なにより、蛍の表情が終わりを物語っていた。寂しくて泣いている表情と、優しく微笑んでいる表情の二つを合わせたそれは、一瞬のまぶしさと、ハッと目の覚めるような感覚を伴って、俺の胸の奥深くに焼きついた。

 今後、俺と蛍の関係がどうなろうとも、この日の蛍と、これまでの二人の日々は俺の中に残り続ける。なにがっても失われない、誰にも奪わせない。


《――土一君。私はね、理音君が好き。告白をしようと思ってる。……私たちが、互いの臆病で保ってきた曖昧な関係は、実らせるべきじゃないんだよ。私たちは離れないと成長できない。私と土一君が一緒にい続けたら、幼い二人のままになっちゃう。それが悪いって言いたいんじゃない。一緒にいたいって泣きじゃくる九歳の私もいる! でも今の私は、もうそれを選べない。だから――二人一緒の時間はおしまいにしよ……?》


 この結果は、俺が招いた。七年間ずっとそばにいて、俺に向かって咲いていた花を、自分の手で消してしまった。

 蛍の言った通り遅すぎたんだ。それでも、すんなりとは呑み込めない感情がこびりついている。吐き出しておかなければ気が済まない好意がある。

 そこまで考えて、凍りついた。

 吐き出しておかなければ気が済まない好意だって?

 〝エリカ〟の花の咲いた言葉が思い出された。


『好意を押しつけてしまったら、嫌がらせと大差ないよ』


 そう言ったのは、千駆だ。千駆の苦しげな声と表情、それから寂しげな目が脳裏によみがえった。好意を伝えることで相手を傷つけてしまうこともある。

 蛍は六年間抱いてきた気持ちを、去年から弔い続け、今日失った。その選択は蛍がしたものだけれど、原因は俺にあった。

 そんな俺にはきっと、蛍に吐き出していい好意なんてない。蛍のことを好きなら、それでも伝えるべきなのかもしれない。でも、俺にはできない。好きだと伝えないことが、俺にとって蛍に伝えられる最大の好意だと感じた。

 蛍がケータイを力なく下ろした。音声が聞こえるように、俺の眼前にかざし続けていた。手と腕、かなり疲れただろうな。

 そんなことをぼんやり思っていると、蛍が不安げに瞳を揺らして俺を見ていることに気がついた。

 そういえばまだ、蛍の言葉に返事をしていない。俺はゆっくりと言葉を探り、口に出していく。


「……この結果は、俺が招いたんだ。蛍は気に病むことも謝ることもない。悪いのは俺の方だった。理音への告白、頑張って……な」


 言うべきことや感情が浮かんでは消えていって、ようやく絞り出せた言葉は、ずいぶんと脈絡のない返事になってしまった。蛍の問いかけに対する答えも出せてない気がする。でも、精いっぱい笑って言えたから、今日ばかりは勘弁して欲しい。

 整理をつけてきちんと答えを返すから。


「っ…」


 蛍はまた泣きそうになっていて、でも懸命に泣くまいと堪えていた。

 俺と蛍はもう互いを見ることができず顔を伏せた。ふと横目で見た川面に映る二人の姿は、出会ったあの日、蛍が俺に差し出したカタクリの花の姿によく似ていた。

 カタクリの花言葉は【初恋】。

 恥じらうように俯き加減に咲く花姿が由来となっている。俺はふと思った。カタクリが俯いているのは、初恋に恥じらっているのではなく、上手くいかない初恋に落ち込んでいるからなのかもしれないと。

 俺たちはしばらくの間、途方に暮れたようにその場に立ちつくしていた。

 夕日が没し、蛍が先に立ち去っても、俺は一人動けずにいた。静かだった。蛙の声すらしない。聞こえるのは川のせせらぎのみだった。

 頭の中を、蛍との思い出が駆け巡っていた。


「……け…い……っ」


 思い出が愛しいほど、喪失感が大きくて。耐え兼ねて名前を呼ぶと、一番真新しい記憶が浮かび上がってきた。


『ど…いち、くん…、じゃ、あ、ね』


 十数分前の、別れのあいさつに一つ咲いた〝ラベンダー〟。それまでの声では、下を向いた姿ばかりを見ていたから、普通の開花は久しぶりに思えた。

 そばにいてほしかった。できれば、ずっと。けどそれは、叶わなかった。

 それでもなお、蛍へ向けた俺の声に白い〝チューリップ〟は咲いた。きっと俺の〝チューリップ〟は、こうなることを知っていた。だから、赤から白へその色を変えたんだ。


 白いチューリップの花言葉は【失われた愛】。


 その日見た〝ラベンダー〟が、俺が見た蛍の声に咲く、最後の〝ラベンダー〟となった。


 第二章 了

 第三章へ続く

今はこんな感じですが、このお話のラストはハッピーエンドとなっております。

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