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第二章 幼馴染 樵田蛍 その④一人きりの登校の風景

閲覧いただきありがとうございます。

前の話に続き、字の文過多となってしまい申し訳ありません!


 ――朝が、来た。

 目覚し時計よりも少し早く目が覚めた。けたたましい音が鳴りだす前に、先手を打って黙らせておく。ついでに二度寝防止用のアラームも解除しておいた。

 寝不足のわりにすんなりと起きられたものだ。寝た気は……あまりしないけれど。

 メガネをかけながら体を起こし、レースのカーテンを引いた。燦々と差し込む朝日が、ほぼ徹夜明けの目に沁みて辛かった。

 網戸にしていた窓から風が入る。肌を撫でる冷たさに鳥肌が立った。睡眠が足りていないと動悸がする。そのせいもあってか身が震えた。

 そんな時、鼻先を撫でる風にみその味がした。嗅覚と脳が起こす毎朝の錯覚だけれど、少しいつもとは違った。

 思い出したのはみそ汁の味ではなく、みそおにぎりの味だった。


「……また食べたいな、みそおにぎり」


 体の震えも動悸も治まった。愛良先輩に感謝だ。

 だからといって、緊張が完全に消えたわけじゃない。今だって怖い。でも、蛍が好きって思いはどこにも行かず、まっすぐ蛍に向かっている。

 まるでボーイスカウト時代に使い方を習った、方位磁石みたいだ。磁石を見るのは得意で、オリエンテーリングで迷ったことはなかった。あの時みたいに目標に向かって進んで行こう。

 両手で両頬を打ち、勇んでベッドから降りた。

 いつもより気合に満ちた朝。

 そのせいなのかもしれないけれど、自分の部屋から出た瞬間のあの他人んちのニオイを今朝は感じなかった。もう他人んちと感じなくなったからかもしれない。

 俺はいつものように朝のあいさつをした。


「おはよう、土一。早く顔を洗っておいで」


 〝梅〟


「おはよう、土一君。さあさ、朝ご飯ができているわよ」


 〝桜〟

 ごく自然に三つずつ咲いている、克己おじさんと芙美恵おばさんの花。それらが俺の勇気になる。踏み切る力になる。


「あの、髪が伸びたので、髪を切りたいので、散髪代をもらってもいいですかっ……?」


 身支度を済ませた後、朝食へ手をつける前にそう切り出した。


「そうだな。少しさっぱりさせた方がいいな」

「ええ、ええ、もちろんよぉ~。そうだわ、土一君さえよければおばさんが切ってあげましょうか!」

「それはよしなさい」


 芙美恵おばさんが興奮気味に発言すると、間髪入れず克己おじさんが固い声色でそう言った。

 俺もよくよく言葉を選んで同調する。


「俺も、その、床屋さんの漫画が読みたいので、遠慮しておきます」


 克己おじさんと俺は知っている。芙美恵おばさんに散髪を任せると、前髪だけやたら短くされてしまうことを。主な被害者は秀作兄さんだ。


「もうもうっ、なによう二人とも!」


 芙美恵おばさんぷりぷりと怒っている。俺と克己おじさんは顔を見合わせて苦笑した。そして三人一緒のタイミングでみそ汁をすするのだった。

 食後、芙美恵おばさんは散髪代三千円を食卓に置いた。

 タンッと鳴る食卓の音が不機嫌な心境を表していて、また苦笑する。悪いことをしてしまったかもしれない。でも、こういうのってそれっぽいなって思った。

 それっぽいがなにを指すかは言葉にはしない。野暮になるから。


 ハミガキの途中、尻ポケットに入れておいたケータイが振動した。歯ブラシを口にくわえ、ケータイを取り出した反動で開く。メールを受信していた。

 差出人の名前は、樵田蛍。

 すごく気になる自分がいる反面、全力でメールを開きたくない自分もいた。けれど開かないという選択肢はない。

 珍しく操作ミスもなくメール画面へ進めた。新着メールを開く、緊張の一瞬。絵文字の一つも使われてない文章が目に飛び込んできた。


【おはよう。昨日はごめんね。土一君はなにも悪くないから気にしないで。それから、しばらくは別々に登校しましょう】


 三回以上読み直した。読んだそばから、なにかの間違いだと心が拒否した。

 もう一回読んでみよう、もう一回読んだら実は違うことが書かれているかもしれない。そんな悪あがきをしていた。

 しかし、何度読んでも内容は変わらない。現実を受け止めた俺は、洗面台の縁に左右の手をかけて、へなへなと座り込んだ。

 ……いや、……うん、想定内だ。……いや、想定してなかったよ。だけどへこたれている場合じゃないし、その資格もない。

 すぐに立ち上がって返事を送った。

 別々に登校する件には了解を。昨日の件については、それでも謝りたいから時間を作って欲しいと頼んだ。

 できれば、時間は放課後。場所は学校から歩いて十数分の川辺。五月の大型連休や夏にはイベントが行われる流石町の公園。呼び出しの目的は謝罪だけではない。

 言わずもがな、思いを告げるロケーションだ。

 口をゆすいでいる間に返信がきた。たった一言、【わかった】と。


「これで、後に退けなくなった」


 気合を入れ直している俺には、想像もできなかった。

 たった一言の返事。それを蛍がどんな気持ちで返信してきたのか。七年という月日が蛍にとってどういう時間だったのか。高校に入学してからの一年を蛍がどう思って過ごしてきたのか。そのことを、ようやく今日知ることとなる。


 +++


 味気ない通学路を歩いてバス停についた。馬鹿はなんとやら。病欠は滅多にしない俺と蛍だったから、一人きりの登校は慣れていない。

 でも蛍は、俺と一緒にいるようになる前は学校を休みがちだったっけ。


「暑いな、喉も乾いた……」


 今朝は水分補給のきゅうりがないから仕方ない。

 やがてバスが到着した。一人で乗り込んでくる俺を見て、運転手さんが虚を突かれた表情をした。

 そんなあからさまな反応をするのはやめて欲しい。こっちだってキツイんだ。

 田舎の日常は繰り返しみたいなものだから、小さな差異が大きな反応になってのしかかってくる。みんなして「一人なのか?」と訊ねてくるのはそのせいだ。


「ええ、俺一人っすよー」


 面倒だから明るく大きな声で宣言した。痴話ゲンカでもしたのかねぇ、と誰かの囁き声が耳に届いた。

 そんな生易しいもんじゃない。そんな生易しいものならどんなによかっただろう。

 窓際の席は蛍に譲る癖がついている。誰もいないスペースに覚える居心地の悪さを消すため、席を一個ずれた。

 窓の外を眺め、背もたれにもたれかかった。バスの振動を感じながら目を閉じる。俺は蛍のことを考えた。ずっと、考えていた。


 ――蛍がしゃべらなくなったのは八年前、小学三年生の時だと聞いている。


 生来から蛍は、大人しく引っ込み思案な性格で自己主張をあまりしない子どもだったそうだ。

 いわゆる、意地悪をされてしまうタイプ。小さい声でしか話せず、大人や友達に「もっと大きな声で話して」と言われ続けた。

 その度に委縮し、苦手意識がつき、声量は弱まっていった。なお、自己主張はしないものの自己表現は好きで、よくオリジナルストーリーの絵本を作ったり、お絵かきをしたりしていた。

 迎えた小学三年生の春。

 クラス替えとともに担任の先生も変わった。新任の若い女の先生だったという。綺麗な人だったけれど、神経質に顔を歪めていて、いつもなにかに焦っているような、余裕のない様子だったと蛍が教えてくれた。

 その女教師も、始めの頃は優しかったらしい。声が小さいのも個性。個性は一人一人違う大切なもの。だから気にしなくていい。そんな風に蛍を励ましてくれていたという。


 一変したのは、二学期の半ば。

 元気盛りで生意気盛りの生徒たちが、新任教師の手に余ったのだった。学級崩壊の一歩手前まで追い詰められた彼女が選んだのは、最悪の手段。クラス内の弱者を――蛍をいじめることだった。

 授業中、蛍に音読や発表を頻繁に命じ、できないことを承知で「大きな声で話しなさい」と注意する。注意されても直せない蛍を執拗に詰り、自分に従わなければこうなると、クラス中に見せしめた。

 弱者を作り、差別し、見せしめにすることで、優越感と恐怖心を植えつける。年端のいかない子どもを統制するのには卑劣に冴えたやり方だ。

 クラスはあっという間に一丸になったそうだ。

 蛍は耐えていた。親にも誰にも相談できず、ストレスがピークに達して、声が出せなくなる日までひた隠しにしていた。

 冬休みが終わって三学期が始まる日の朝、蛍は声を失っていた。

 小さな、けれども柔らかな声で「おはよう」と起きてくる娘が、その日は涙をボロボロと流して、口を必死に動かして、それなのに一言すら発せずにいて、喉元を押さえて座り込んでいた。

 蛍のお母さん――鮎美あゆみおばさんの悲鳴を皮切りに、家族で診療所へ駆け込んだ。

 心理的ストレスによるものと診断され、蛍本人の筆談で担任先導のいじめにあっていたことを知った。寝耳に水とはこのことで、両親は学校へ乗り込んでいった。

 並べてあった透明のドミノが、倒れることで色づいていくみたいに事態は進み、広がっていったと、鮎美おばさんがのちに語ってくれた。

 愛娘の状態に気づけなかった樵田夫妻は自分たちを責め、蛍を守り抜くと決意すると、学校側と徹底抗戦した。罪の意識に耐え兼ねていた生徒たちの証言が決め手となり、女教師は流石町を去った。学校側からの謝罪もあった。

 けれど、蛍が難しい立場であることは変わらなかった。

 どういう形であれ、いじめに加担していたという罪悪感。先生がやっていたから、みんながやっていたから仕方なかったという自己弁護。一度芽生えた差別意識。学校という狭く封鎖された世界では、蛍を軽蔑視する風潮が完全には消えなかった。

 樵田夫妻は、通学するか否かを蛍の好きなように選ばせた。自宅にいることを選んだ時は、主に鮎美おばさんが教師となって勉強を教えていた。

 蛍に無理に声を取り戻させようとはしなかった。無理をして声を失ったのだから、それ以上の無理をさせたくなかったのだという。

 そうして小学四年生の春がきて、俺を見かけるようになり、初夏の候にあの衝撃的な接触を果たした。


 いじめの件から腫物扱いを受けていた蛍と、よそ者&問題児の俺。

 特異な目で見られる二人。浮いた存在同士。親しむのも一緒にいるようになるのも自然の流れだった。

 声に咲く花が見える俺は、言葉を発しない蛍の喜怒哀楽を察することができたから。そこも大きな要因だったと思う。

 最初は、グー・チョキ・パーを用いた簡単な意思疎通方法を作る遊びに夢中になったっけ。

 グーが【いいえ・怒っている】。チョキが【はい・嬉しい・イェイ・ピース】。パーが【わからない・おはよう等のあいさつ】。

 二人の間だけで交わされる合図は楽しくて、特別で。秘密基地の中にでもいる風な心地にしてくれた。

 蛍と遊んでいると、時折学校の奴らが絡んできた。問題児の俺は怖がられていたから、決まって俺のいない時を狙っていた。

 蛍は、しゃべらないままの自分を許容してくれている家族のために、家では笑顔を貫いていた。そして人知れず、孤独に泣いていた。

 蛍を守りたい。一緒にいたい。そばにいて欲しい。環境や状況は関係なく、俺自身がそう在りたいと思うようになった。


 蛍の家族とも割合すぐに親しくなり、信頼を寄せてもらえた。

 蛍の事情も早い段階で聞かされた。樵田家は問題行動が噂になっていた俺に対し、嫌な顔一つせず、いつだって笑顔で迎えてくれた。

 憎しみに支配され、漫然と花を傷めつけていた俺。その中には、樵田家の玄関先の植木鉢も含まれていたのに。克己おじさんに指摘されて思い出した俺が謝るまで、その件を持ち出すこともなかった。


『いいんだよ。それより、花のことを気にして蛍と疎遠にならないでくれな? うちに対しても変な遠慮はいらないよ』


 〝タンポポ〟の花輪を咲かせたのは、蛍のお父さん――鷹彦たかひこさん。

 大学教授をしている鷹彦さんは、メガネをかけた、いかにも誠実そうなお父さん。フィールドワークが趣味で、山林にいるのを度々見かける。


『土一君はきちんとごめんなさいができて偉いわね~。いいのよいいのよ~。これからも蛍ちゃんと仲良くしてね~』


 いつも目を細めて笑っているような顔をしている鮎美さんの声には、ピンク色の〝ナデシコ〟が三輪一組で咲く。

 娘の直毛とは裏腹に、切り揃えられたボブカットにはウェーブがかかっている。


『けいのともだちなら、だいじょぶ』


 〝スイレン〟の花輪を咲かせたのは、蛍の四つ下の弟、蝶介ちょうすけ

 母と姉に似て小柄で、顔立ちも女の子っぽい。髪の毛がクリンクリンとして、パーマをかけたようになっている。淡々としたしゃべり方をするけれど、人懐っこい性格。

 三人は揃って花を大きく開花させながら、親指を立てて笑った。

 そんな温かい家族に愛されて育った蛍が羨ましくて、嫉妬も少ししたけれど。それ以上に、仲のいい樵田家を眺めているのが好きだった。

 同時に俺は、蛍を特別好きになっていた。

 蛍はまっすぐに俺を好いて、慕って、必要としてくれた。両親を失ったばかりの俺にとってそれは、かけがえのない宝物だった。決して失いたくない宝物だった。


 俺は両親の死後、一度はやめたボーイスカウトを再開し、社交性を身につけた。学友たちと仲良くすることで、蛍の助けになれればと思ったんだ。

 それとたぶん、人恋しかったからというのもある。両親はおらず、雪村の人々には遠慮が生まれた。俺は他人に好かれたかった。嫌われたくなかった。

 その甲斐あって、小学五年生から先は比較的平穏な学校生活を送れるようになった。上手く立ち回れるようになった後、クラスメートの女子に告白をされた。

 その声に、花が二つ咲いていたんだ。

 俺に向かって咲く蛍二つの〝ラベンダー〟と、蛍に向かって咲く俺の二つの赤い〝チューリップ〟の意味を知った時――俺はその思いから逃げ出した。

 大好きな人にしてしまったら、また失くしてしまうから。

 もう、いなくなられたくなかったから。蛍には特に、絶対に……。

 だから中学の三年間、陸上部の練習や大会で蛍から手作りのお弁当を差し入れられても、バレンタインのチョコをもらっても、笑ってお礼を言って誤魔化した。

 落胆する姿を、失望する表情を、悲しげに咲く二つの〝ラベンダー〟を、休みなく咲く二つの〝ラベンダー〟を、その裏に込められた思いを知りながら、目を背け続けてきた。

 中学三年生のバレンタインを誤魔化しで終えた時、俺の蛍に向けた声に咲く二つの〝チューリップ〟が赤から白へ変わった。

 なぜかはわからない。

 植物の図鑑を持ち歩き、人の声に咲いた花を片っ端から調べていた俺は、赤いチューリップの花言葉と白いチューリップの花言葉を知っている。

 けれど、そのことについては深く考えないようにした――。


 続く

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