第二章 幼馴染 樵田蛍 その①三つ咲いていた風景
閲覧いただきありがとうございます。
いつにも増して読みづらいかもしれません。なにとぞご容赦くださいませ。
アクセス解析を見て驚いています。思っていたよりも多くの方に見ていただけていて光栄です!
お付き合いいただいてありがとうございます!
家の外へ出ると少し肌寒かった。
ぶるる、と体を震わせた俺は、斜め前にいる愛良先輩の服装に目を止める。長袖とはいえ、夏服のセーラー服は生地が薄い。
この後彼女を待ち受けている長い家路は、バス移動がほとんどではあるけれど、この外気の冷たさに耐えられるだろうか。上着ならすぐ取ってこられる。
一声かけようと息を吸ったその時。愛良先輩が、鞄から上着らしきものを引っ張り出した。その上着、水色のカーディガンに腕を通しながら、くるりと振り返る。
「本当にいいのよ? 見送りなんて」
上目遣いで俺を見ていた。やや気兼ねした様子でいる。
愛良先輩は家を出る前から、しきりに同じセリフを繰り返していた。
「後輩選手権先輩思いで賞の小角なんで。見送らせてくださいよ」
ニッと笑えば、しょうがないわね、という微笑みが返ってきた。
「じゃあ行きましょうか」そう言って歩き出す愛良先輩の後に続いて、緩やかな傾斜を下っていく。
並んで歩くんじゃなく、一歩後ろを歩いた。
ふと見ると、ポニーテールがセーラーカラーの上で軽快に揺れていた。
なんとなく、まじまじ眺めてしまう。金色の髪というのは、上質な繊維をよった高価な糸みたいだと思った。質が良いがための柔らかさから、ウェーブがかかっている。
「土一」
不意に名前を呼ばれてドキッとした。別にやましいことがあるわけじゃないけれど、バツが悪くなるくらいには熱心な視線を注いでしまっていた。
狼狽えた俺は、道の脇に咲いている青い紫陽花へ視線を飛ばした。
……あ、返事をしてない。
「――はいっ。はい、なんですか?」
「ごめんなさいね」
突然の謝罪に視線を引き戻された。
肩のあたりに咲いた紫色の〝パンジー〟は、面目なさそうに俯いていた。
「……? あぁいや、見送りってそんな大層なことじゃないですから」
「そうじゃなくて、その……」
口ごもり、言い難そうに足元を見ていた。言うのを躊躇っていることは一目瞭然だから、できれば察してあげたいところではある。
見送り以外で、愛良先輩が俺に謝りそうなことなんてあっただろうか。考えたけれど。かいもく見当もつかず、首を捻るばかりだ。
悩む気配を感じ取ったのか、前を行く愛良先輩が閉ざした口を開く。
「……理音のことよ。私がボランティア部に引っ張ってこなければ、こんなことにはならなかったでしょう?」
「え、そんなことに責任感じてたんですか?」
「だって……そうじゃない」
斬新な発想だと思った。
そうだったのかも、しれないのか? 一理あることなのか? 思案して、それは違うと結論づけた。
「遅かれ早かれきっとこうなってましたよ。俺が変わろうとしていなかったんですから。むしろ先輩が理音を連れてこなかったら、もっと先延ばしになって、もっともっと取り返しのつかない状況になっていたかも……」
自分で言って自分でダメージを受けた。
そうだ、俺は今結構取り返しのつかない状況にいる。けれど、水面下じゃきっとずっとそういう状況だったはずで。それが表面化しただけだ。
二人一緒の登校を今井に冷やかされた時の、申し訳なさそうな表情。回し飲みを躊躇して、ポカソを受け取らなかったあの苦しげな笑顔。注意して思い返せば、予兆はいくつもあった。
「だから、愛良先輩は踏み切る機会を俺にくれたんですよ。なんにも責任に思うことはないです、たぶん、絶対……!」
そう語気を強めて言うと、愛良先輩は肩越しに振り返って目を細め、「――ありがとう」と口元をほころばせた。
綺麗な笑顔に花を添えるように、白い〝パンジー〟が咲いている。
また前に向き直り、色を変えていく空を見上げて、
「……私は土一のこと、応援しているわ」
歌を口ずさむみたいに、おどけた素振りでそう言った。
思いやりのある優しい音色を耳にした途端、切なさが込み上げて無性に泣きたくなった。
優しくされていいのだろうか、という疑念。優しくされると嬉しい、という欲念。二つがない交ぜになって胸の中で騒ぐから、切なくて泣きたいんだ。
「――――――っ」
前を歩く一つ年上の女性は、バス停につくまで黙ったまま、一度だって振り返らないでいてくれた。
愛良先輩が乗るバスは予定時刻通りに到着した。
信号が一つしかないため、あまり手間取られないことが理由だろう。
「それじゃあ、ここまで送ってくれてありがとう。Vi ses!(ヴィ セス)」
明るい声に黄色の〝パンジー〟が咲く。
「いえ。こっちこそ、話を聞いてくれてありがとうございます。鞄を届けに来てくれたことも、あと、みそおにぎりも!」
手を振り合う俺と愛良先輩を閉まるドアが阻んだ。
発進したバスが見えなくなるまで見届けて、来た道を戻る。
木造二階建ての一軒家が近づいた頃、背後からエンジン音が迫ってきた。道の端に寄って立ち止まる。
思った通り、白のカローラだった。運転席には芙美恵おばさんが乗っている。
芙美恵おばさんは、ハンドルを握ったままスラリとした指を立てて合図した。片手を上げてそれに応え、車が横を通り過ぎるのを待って歩き出した。
ほどなくして雪村家につく。
芙美恵おばさんも駐車を終えていた。買い物袋を持って車から出てくるところを、運ぶのを手伝うべく駆け寄った。
「「ただいまー」」
混声二重唱を響かせて家に入った。
制服から部屋着に着替えてきた俺は、買い物袋の中身を冷蔵庫へしまう作業を手伝いながら、頭では思考を巡らせていた。
愛良先輩を見送ったことと、食欲が戻ったことは話せた。無作法な態度を取ったことへの謝罪もできた。しかしながら、まだ肝心な話を切り出せない。
「土一君の食欲が戻ったなら、今日の晩ご飯はチーズ入りのハンバーグにしましょうね。買い置きしておいた合い挽き肉を使ってしまわなければならないわ」
「そうですね。それにハンバーグは克己おじさんの大好物ですからね。もちろん俺も好きです!」
「ふふふ、ありがとう。材料はおばさんが切るから。土一君は成形を手伝ってくれるかしら?」
「はい!」
調理用のビニール手袋を着用し、合い挽き肉をボールに入れて塩を振って練っていく。
卵とパン粉とコショウと、芙美恵おばさんがみじん切りにした玉ねぎを加えてよく混ぜる。混ぜられたら、タネを手に取って片手から片手へキャッチボールをするみたいにして空気を抜いていく。
それらの作業をこなしながら俺は、言葉を選んで少しずつ話を始めた。雪村夫妻に対して、俺が他人行儀を貫いていたことを。
「七年前に母さんと父さん……両親が他界して、家族と帰る家を失くしました。それ以来俺は、家族と家族の情っていうものに飢えていたように思います。雪村家に引き取ってもらえて、克己おじさんと芙美恵おばさん、秀作兄さんに、たくさん良くしてもらってきたのに。家庭の温もりを与えられていたのに……すみません、でも、いつもどこかでこれは別物だって思っていました」
台所に並んで立っていると、なんだか話しやすかった。同じ作業をしているからか、もしくは、顔を突き合わせていないためだろうか。またはその両方かもしれない。
ちらりと横目で芙美恵おばさんを窺ってみる。
たどたどしい俺とは違い、熟練した手つきでタネの空気抜きを行っていた。その顔に浮かぶ笑みは穏やかに見えた。
ただ、照らす電灯の光が、前髪の下や鼻や頬に寂しげな陰影を作っていた。
締めつけられるような痛みを胸に覚える。こんなことを話す必要があるのだろうか、と挫けそうになる。あれこれ理由をつけて言い逃れたくなる。
知らなかった。誰かに本当の気持ちを打ち明けるのが、こんなにも躊躇われることだなんて。避けていた。真正面からぶつかることで嫌われるかもしれないことから。
そして、わかり合えるかもしれないことからも。だから満たされなかった。愛情に飢えていた。失うことを怖がっていた。愛情に飢えているくせに、失うことを怖がって遠ざけていた。
なんて、なんて愚かな――
「――大丈夫よ、土一君。続けて。おばさん、ちゃぁんと聞いているわ」
芙美恵おばさんの静かな声が、自責の沼から掬い上げてくれた。
そうだ。今は自分に愛想をつかしている場合じゃない。自分がなにを語っていたのか、次になにを語ろうとしていたのかを思い出した。
失ったものの大きさに慄いて、温情を素直に受け取れず、目を逸らした。その罪悪感から身心ともにがんじがらめになって、身動きが取れなくなった。ぎこちなくしか、振舞えなくなった。
「……有難いことなのに。とんでもない果報者なのに。心ではいつも、これは俺が求めているものじゃない。克己おじさんや芙美恵おばさんや秀作兄さんは、俺の家族じゃない。俺が家族と思ったら、大切にしたら、今度はこの人たちを失くすかもしれない。だから大切じゃない、大好きになんてならない。俺はいずれここを出ていく、出ていかなきゃならない。それまで、もうこれ以上しなくていい苦労や迷惑をこうむらせちゃいけない。他人行儀でいるべきなんだって……でもそれって、みなさんの思いを踏みにじっているのと、同じですよね……?」
べちゃっと粘り気を含んだ音がした。見れば、芙美恵おばさんの手からこぼれたハンバーグのタネが作用台へ落っこちていた。
芙美恵おばさんらしかぬミスにポカンとしていると、更に驚きが追加される。あの几帳面な芙美恵おばさんが、調理用のビニール手袋をぞんざいに脱ぎ捨てていた。
次の瞬間――
「あぇっ!?」
頭を抱きかかえられるようにして、芙美恵おばさんの腕に包まれていた。またもやした、べちゃっと粘り気を含んだ音は、俺の手からこぼれたハンバーグのタネだ。
体勢上、俺よりも小柄な芙美恵おばさんに身を預けざるを得なかった。
俺は手に調理用のビニール手袋をはめていて、その手で服や体に触れるのは気が咎める。
抱きしめられていること。ハンバーグのタネを落としたこと。抵抗できない状況であること。頭ではその三つを瞬時に把握しつつも、心はパニック真っ只中だった。
「ふ、ふみ、芙美恵おば、さんっ?」
「考えていたの」
「は、え? 考える……?」
「土一君にとって私たちはどういう存在であるのかしらって。ご両親を亡くされて、幼い心と体に余る傷を負ったあなたは、表情を失い、人形のように無口になってしまっていたわ。……私は、かける言葉が見つからなかった。どんなにか苦しかったでしょうに、どんなにか辛かったでしょうに。けれど、土一君はまた笑いかけてくれた。痩せた頬を持ち上げて、一生懸命に笑ってくれたの。……とぉっても嬉しかったぁ」
芙美恵おばさんの懐かしむ声には実感がこもっていた。
俺の境遇に胸を詰まらせ、己の力不足を反省していた。そして、嬉しかったと語る声にはもっとも強い気持ちがこめられていた。
不意に俺の頬を掠めていく温かなものがあった。床へと落ちたそれは涙だった。透明な雫は、あとからあとからこぼれ落ちてきた。
「それから土一君は、たくさん笑顔を向けてくれるようになったけれど、そのうちの幾つかは私たちを気遣っての笑顔だって悟ったの。心を開いてくれたのだと思い込んでいた私は、情けないことに戸惑ってしまって……。土一君はどんどん良い子に育ってくれるけれど、それはそうしなければならない環境にある。私たちがそうさせているんだわって、理解したの。そんな風にしなくていいのよって、どう伝えれば土一君は受け入れてくれるのかしら? 私たちは本当は、どこまでしていいのかしら? 考え続けて、わからないまま臆病風に吹かれて、土一君に拒絶されない場所に留まっていたの」
そこで一度言葉を切り、俺を抱く腕の力を少し緩めた。芙美恵おばさんは、俺が顔を上げるのを待っている。どうしてか確信があった。
顔を上げた俺は、少し低い位置にある芙美恵おばさんの目を見る。正解とでもいうように微笑んで、だから、と芙美恵おばさんは続ける。
「考えていたの。土一君にとって私たちはどういう存在であるのかしらって。土一君にとって私たちのいるこの世界はどう見えているのかしらって。あぁ、でも、そう……やっぱりそうだったのね。悲しい思いを、心細い思いをさせていたのね……っ」
〝桜〟
あっ! と声にならない声が漏れたのは、芙美恵おばさんの声に三輪一組となった〝桜〟が三つ咲いたから。
俺は知っている。花が三つ咲くのは、言葉を向けた相手に対して愛情を持っているということだと。俺は、母さんと父さんの声に咲く花にそう教えてもらった。
花は初めて三つ咲いた。
……いや、違う。初めてじゃない、始めから三つ咲いていた。俺がきちんと見ようとしなかったから。逃げていたから。避けていたから。本心をぶつけてこなかったから。目を背けてきたから。
だからきっと、見えなかった。
三つの花はどんな時もそこにあって、芙美恵おばさんの声にも、克己おじさんの声にも、秀作兄さんの声にも開花していた。
俺は今までずっと、家族として愛されていた。だとしたら世界は、いつでも俺に花咲くように微笑みかけてくれていたことになる。
そう思った直後。突如、過ぎ去った日々の記憶が脳裏によみがえり、それまではなかった温かみを持った。まるで無造作にしまわれていた写真が、一枚一枚丁寧にアルバムへ納められ、日付や手書きのメモで装飾してもらえたかのようだった。
心が震えているのを感じる。
「……芙美恵おばさん、少し、離れてもいいですか?」
「……。ええ、ごめんなさいね、私ったら……」
自分から言い出したことなのに、離れていく体温が恋しかった。
申し出に応じてくれた芙美恵おばさんは、少し残念そうにしている。心が痛むけれど、これを外すことだけは譲れない。これとはもちろん、調理用のビニール手袋だ。
素手になり、気がかりがなくなった俺は、小さく両腕を広げながらおずおずと問いかける。
「あの、また……また、その……」
年上の女の人、いや、相手が誰であったとしても、男子高校生がハグを乞うのは中々どうして言い出し難い。
「ん? あっ……ふふ。ええ、いらっしゃい」
俺の意図するところを理解してくれた芙美恵おばさんは、両腕を大きく広げた。
察してもらえて助かったのだけれど、気恥ずかしさから背中がむず痒くなった。けれど、と芙美恵おばさんを見る。
無性に惹かれる陽だまりがそこにはある。本能的に求めずにはいられない、焦がれてやまない母性が子を歓迎してくれていた。
なにも恥ずかしいことなんてない。抗う理由だってないんだ。俺は再び、芙美恵おばさんの腕に包まれた。
「……よしよし」
楽しげなその声が、子どもを慈しむ母親のような声みたいだと、虫のいいことを考えていた。でも、虫のいいことなんかじゃないんだと、三つの〝桜〟が俺に告げていた。
『踏み切るのはあなたからしなくちゃ』と愛良先輩が教えてくれた。
だから踏み切れ。踏み切るんだ。鼻水を垂らしている場合じゃない。
「悲しいだけじゃ、心細いだけじゃ、なかったです……。そのことに、今さっき気づきました……。おじさんとおばさんと、しゅ、しゅうにいは……俺の、もう一つの家族だったんだって……! やっと、俺やっと……」
「どいち、くん……?」
「世界は、俺に笑いかけてくれていました。今俺の目に映る世界はちゃんと優しさが、愛情があります! 俺にとって克己おじさん、芙美恵おばさん、秀兄は、かぞく……、家族って思っても、いいですか……? 今さらで、遅過ぎって感じですけど――」
「――そんなことあるわけないじゃない!」
悲鳴染みた強い否定の言葉とともに、Tシャツの肩甲骨あたりの生地をぎゅううっと掴まれた。
「今さらなもんですか! 遅いもんですか! 土一君が望むならいつだって、私たちはいつだってあなたの家族なんですからね……!」
これほど優しい言葉が他にあるだろうか。これほど包み込む言葉が他にあるだろうか。
涙で滲みっぱなしの視界。いよいよ目を開けていられなくなった。今、赤ん坊のように泣くたくってしょうがない。
「ぁあ、うっ、わぁぁぁぁぁぁ、あぁぁぁぁぁぁ――――っ」
「ありがとう……ありがとう、土一君……っ」
一日に何度泣けば気が済むんだろう。この世界に二度生まれ落ちた気分だった。
それはきっと、あながち間違いではないんだろう。
続く




