終の家
庭でまどろむ犬もいますが、大半は家の中で寝ています。外へ行く気力がもうないものが多いのでしょう。ここへきたてのころはまだ散歩に出かけたり外で遊んだりもできますが日々を暮らしてゆくうちにだんだんと衰えて寝ている時間が多くなります。姉も僕も自分の目の届く頭数しか預かりません、多くて10頭といったところでしょうか。今は7頭です。
葛西先生にはずいぶん前から、この仕事を始めたころからお世話になっています。犬にとってここは死を待つための家ですが苦しんでほしくないという思いから葛西先生におこしいただいてもう6年になります。あのころは先生自身も病院を始められたばかりのころでした。犬に触れる手先の柔らかさで信頼に足る方だと悟りました。
犬を飼い始めたのは幼少期です。犬が好きな家系で、絶やしたことがありません。大型の犬を好んでいましたね、特に死んだ父は。
思えばここは最初から終わりのための家でした。母の命がもう長くないと悟った父は曽祖父から譲り受けたこの屋敷を改装して移り住みました。ここは景色や空気がきれいでしょう、外界から切り離されて天国に近い。母に似て体の弱い子供たちの精気を蓄えようという気持ちもどこかであったと思います。おかげで僕も姉もこの年までなんとか大病なしに生きています。母自身がここを気にいったのかどうかはわかりません。いつも自分の意見を口にせず微笑んでいる人でしたから。それでも医者に告げられた余命を何年も過ぎてから亡くなりました。
日下真白はその静かな面差しに似合わず意外に雄弁だった。軽トラックのハンドルを握って山道を行く彼の横顔には何の感情も浮かんでいないが。淡々としゃべり続ける彼はいったい何を思って私に語るのだろうか
。荷台には犬用の大きなゲージやトイレ砂、犬の介護用用品が積まれておりからからと音を立てている。
小説家を生業とする私は考え事をする際に散策をするくせがあり偶然日下家の屋敷を発見したのだった。遠くに屋敷の影を認め歩き出したはいいが歩いても歩いても近づかずこれはカフカの城かとあきらめかけたころやっと屋敷の角にたどり着いた。軽装で出てきてしまったことを後悔するくらい山の奥にあった。綺麗に切りそろえられた垣根や雑草のない花壇を見ると家に人が住んでいるのは確かだが屋敷には生命が感じられなかった。人が住んでいる家に存在する騒めきや人の動く空気の揺らぎがそこには無かった。
ふいに木陰からのそりと犬が現れゆったりとした動きで私に近づいてくる。人懐っこいのか私の膝をくんくんと嗅ぎ足元にごろんと転がった。動物を飼ったことが無いのでどう接したらいいのかわからず私は停止する。犬は私のつま先を枕にして寝入ったようだ。足を動かすこともできず立ち尽くす。
「おーい、ミルコ。どこいっちゃったんだよ。」
木の向こうから男の声が聞こえて来た。なんだが聞き覚えがあるなと思いがさがさと音を立てて木をかき分けて来た男を見て確信した。
「葛西、ここお前の家だったのか。」
高校時代の友人である葛西が地元に戻ってきて動物病院を開業しているのは知っていたがまさかこんなところで再会を果たすとは思ってもみなかった。年に数回ある地元の呑み会でちょくちょく会うくらいだったのに。
「斎条か。な、なんでここにいるんだよ。」
突然の再開に驚いた葛西が足早に私に近寄ってもおそらくミルコなのであろう犬は微動だにしない。
散歩の途中にたどり着いた旨を伝えると葛西は散歩って距離じゃなかったろうと笑った。
「俺の家じゃないんだよ、老犬の往診中。お前、勝手に人の庭に入るなよ。」
どこからが庭かわからなかった、と返す。葛西は動かなくなってしまったミルコを撫で、なんとか起こそうとするが犬は私のつま先の上から離れなかった。
「大きい犬だ。」
「介助犬だったんだよ、こいつ。だから人好きなの。」
そういえば葛西は昔から動物が好きだった。道端で猫や犬に出会うと必ず触りに行って、そのせいで授業に遅れたことも何回かあった。
「みーちゃん元気か。」
「何年前の話をしてるんだよ、大学2年の時に死んだ。」
葛西の家にはみーちゃんというメス猫がいてなぜか私のことを妙に気に入っていたのだ。家に遊びに行くとすり寄って来た。そうか、当時すでに成猫だったから生きていればそうとうな年寄りだろう。
「お前の初めての彼女だったのにな。」
にやりと笑って見せた顔は高校時代から何も変わっていなかった。
日下家の屋敷は近くで見るとより荘厳だ。ミルコを起こして葛西と共に屋敷に近づくとミルコと同じような種の犬の毛づくろいをしていた白いワンピースの若い女性が怪訝そうな顔で私を見つめる。あたりまえか、一人で木陰に入ったのに二人になって出て来たのだから。勝手に敷地内に入った非礼を詫びてから葛西の友人だと告げると途端に顔がほころんだ。
「先生のお友達だったのね、こんな偶然があるなんて。」
おっとりと喋るこの女性は日下真世、この屋敷の持ち主だという。
「といっても父が残してくれたお屋敷に姉弟そろってずっと住んでいるだけですの。」
維持費もばかにならないだろうに、姉弟はいったいどのように生活を立てているのだろうか。彼女からは山を下りて働きに出ているような雰囲気は感じられず、隔離された屋敷で俗世離れして暮らしている様子がありありと想像できた。
真世は少し足を引きずるようで杖を常に身に着けていた。それが一時的な怪我ではないことは使い古された杖でわかった。そんな身体の具合を感じさせない明るい顔をしていて、さらさらとした細い黒髪を後ろで結わえてほとんど化粧もしていないさまは好感が持てる。肌が青白いためか、ともすると伏し目がちになるせいかふとしたときに得も言われぬ薄幸さを感じどきりとする。
「ましろ、こっちにおいで。」
真世が犬でも呼んだのだろうと油断していたら屋敷の中から男が出て来た。よく似た顔をしている、日下真白だった。姉の持っている明るさをすべて消し去ったような雰囲気の男でひょろ長い体が少し丸まっている。
「弟です、ご挨拶なさい。」
姉と弟の年の差は2,3歳といったところだろうに力関係が歴然としていておもしろい。弟は姉に頭が上がらないのか元来大人しいのか素直に従った。
「ましろです。」
ぺこりと頭を下げると姉に似た細い髪の毛が動いた。年は私と葛西より少し下といったところか、彼にも俗世の匂いは感じられなかった。
私が小説家だと話すと真世は素直に驚きの声をあげた。ペンネームを聞かれて本名のままだと答えると目をつぶって私の名前を唱えている。
「もしかして、昔〇◎社の雑誌にコラムを書かれてました?」
思い当ったのかぱちくりと目を開いた。
「ええ、よくご存じで。」
〇◎社の雑誌はそんなに売れていたわけでは無かったし私もなんとか食っていける程度の三流小説家だ。
「読んでましたよ、ねえ真白。」
弟ははにかんで頷いた。
車体が跳ねて屋敷に近づいてることを知る。舗装されていない道を少し進んだらもうすぐだ。
あまりに物語が生まれそうな屋敷なので取材させてほしいと真世に頼むと快く承知してくれた。今は使っていない部屋も多いからと掃除までしてくれた。おかげでほこりや虫には悩まされずに屋敷を探索している。葛西の友人ということで姉弟の警戒心が薄いのか基本的に自由に行動させてもらっている。ときおり真白が後を付いてくることもあるが見張りというより思い出に浸っているように見える。
今日は葛西が新しく入居する犬を連れてくるということで街への買い出しに付き合った。他人に対する応対に自信が無いのだと恥ずかしそうに言う真白の頼みを断ることはできなかった。犬に対してはあんなに自然に接することができるのに人相手になると途端にぎこちなくなるのだ。急に饒舌になるのも緊張の表れかもしれない。
すでに屋敷には葛西の車があり新顔の到着を知る。黙々と買って来た品物を下ろして庭に運び込むとやはり大型の犬が葛西に連れられてそこにいた。
「新しい子だよ、名前はジョー。」
ジョーの姿を認めると真白の表情はとたんに和らぐ。人間にもこんな表情で接したらよいのに。
新たな犬は既存の者たちとすぐに馴染んだ。終わりの近い動物の持つ静けさに溶け込んだのだろう。老犬がそうであるのに疑問はないが真世と真白は若く健康だと言うのに違和感なくこの場所に居る。空気や時間がよどみ眠気が溜まるような屋敷に唯一の刺激をもたらすのは葛西だけだったようだ。現在は私も屋敷を揺るがすものになっているかもしれない。どうだろうか、犬たちの視線は私を素通りし彼方を見つめる。浄土か。受け入れられているような気も拒絶されているような気も起らない。
葛西がやって来る時だけさざ波の様に大気が揺らぐのを最初は彼の持つ車のけたたましいエンジン音(たぶんどこかが壊れている)のせいか生き生きとした獣医の屈託のない笑い声のせいかと思っていたがもう一つ要因があることに気が付いた。真世は葛西のことを憎からず思っている。
「今日は葛西先生がいらっしゃるの。真白、玄関を掃いておいて。」
「お茶菓子切らしていたわ。もういらっしゃるのに。」
「斎条さん、明日もいらしてね。葛西先生が来てくださるから。」
いつも茶菓子に手をつけない私とは違って葛西はよく食べ歓声を上げる。時折テーブルの片隅にひっそり現れる手製の焼き菓子にも彼は目ざとく気が付き手を伸ばす。私に言わせれば昔からあいつは食い意地が張っているのだと言うことになるが真世にはそれが愛しいらしかった。葛西が来る日は動きの悪い片足を引きずりせわしなく働いている。
俗世から切り離されて生活しているせいか真世は少女のままで、葛西にあからさまに好意的なのに獣医は気が付かない。動物に興味が向きすぎて人間への対処を怠っている、とこれは高校時代から苦言を呈していたことだ。
真世の気持ちに気が付いているのは私だけではない。真白もまた無垢な姉を見守っている。気を使っているのか折を見て二人きりにしようと動く姿を何度か見た。しかし恥ずかしいのか真世はすぐに真白か私を呼びうまくいかないのだ。その様子を私は微笑ましいと思ってみていた。およそ三十路に近い男女が行う恋愛ではないがこの屋敷ではそれが正解だ。
真白と私は互いにこのことについて口に出したことは無かった。暗黙の内にお互い知り得ていることを確認した。
私が屋敷に通うようになってから数か月が経つと真白の緊張は解れ私に対しても自然に接するようになった。犬の世話や屋敷の掃除を一通り済ますと小説の構想を膨らましている私の傍らに来る。ぽつりぽつりと話をするうちにどうやって生計をたてているのかということが凡そわかって来た。
姉弟の父は妻を亡くし、失意の中子供二人を育てた。東京で大きな事業をしていたという父親は姉弟の将来を心配してかなりの遺産を残したらしい。それは現在父親の弟が管理していて屋敷の維持費や姉弟の主な生活費はそこから出ているという。
「それでもこのままでは良くないからと叔父は僕らに仕事を紹介してくれたのですけれど、どうしても向かなくて。」
彼が会社勤めをしている姿を想像すると慣れない環境でぎくしゃくしている姿が目に浮かんだ。
「この仕事は姉が思いついたんです。動物専用の介護施設というか老犬ホームというか。いろんな事情で最後まで動物といれない人のためにって。」
儲かっているかどうかはあやしいところだが彼らの叔父は仕事をしているという事実に安心しているようだ。
動物は犬に限っていないそうだが集まって来る動物はなぜか犬ばかりだと真白はひっそり笑った。もし彼らの父が遺産を残していなかったらこの浮世離れした姉弟は下界の空気に肺を汚して死んでいたかもしれない。そんな想像をして私は密かに心を騒めかせた。そうだ、彼らは確かに生きていて生活を営んでいるのに死という言葉とあまりに似合った。
真白と視線が絡み合うとそんな私の思考を見透かされるようで私は固まる。この屋敷に出入りする私もまた沼にはまるようにここに凝る、そんな想像をして身震いをした。
「斎条さんは突然現れたのにいろんなことを全部知っている、そんな気がしてならないんです。」
真白は硬直する私にそう語り掛けた。互いに同じことを思っていたのだ。
まさか、と首を振ると彼は窓に顔を寄せた。日の光が白い肌に当たって発光しているようだ。
「葛西先生が姉を攫ってくれたらいいのに。」
真白の視線の先には姉がいて、杖を突きながら犬を見回っていた。姉の恋路に歯がゆい思いをしているのか、しかしそれにしては深刻な顔だ。
「葛西にそんな勇気はないよ。」
親しく話すようになると彼の口調は年齢よりずいぶん幼い。年相応の友人が少なかったためだろうと勝手な推測をする。
「じゃあ斎条さん。」
不穏なものを感じた。誰でもいいということか?
「姉はここが好きだけれど僕は嫌いです。姉がここをでたら僕がここに居る理由はない。」
真白君、と呼び掛けても彼が視線をよこすことは無かった。何かしら思い詰めているのだろうが総てを知ってるなど神ではあるまいし私は何もできない。
「僕もういかなきゃ。マッサージの時間だ。」
彼はさっと表情を仕事用に変え私を振り切った。まだ信用に足りないということか?それとも決心がつかないのか?
先ほどの口調からは単純に姉を応援しているという感じではなかった。むしろ自分が屋敷から出たいがために姉を利用する、穿った見方をするとそうも捉えられるような。
ここが嫌いなのは死を待つための家だからだろうか。母を看取るための、そして父もまたここで息を引きとった家。そして姉弟が死にゆく動物と共に暮らす家。死がこうも身近にあるのに大きな悲しみがないのは感覚が麻痺しているからだろうか。人間の営みが育む時間の流れの終わりはそう悲しむべきものではないのだと優しい誰かが耳元で囁く、それが日常の屋敷。
真世よりも街に降りる頻度が高く人に接する機会もある真白が自分たちの在り方に違和感を覚えるもの無理からぬ話に思えた。しかし私から見れば真白もこの屋敷の一部であった。
部屋を出て庭に降り屋敷の裏手を散策すると雑木林を抜けた辺りにぽっかりと空間があり、大小さまざまな墓標を発見した。一番中央の大きな墓は外国の映画で見る真っ白な十字架が二つ並んで建てられていて、花が添えられていた。姉弟が毎朝父と母に挨拶にやって来る姿を想像した。
周りを取り囲む小さな十字架の下に埋まっているのは犬たちだ。ここに彼らを埋めたのは真白だろう。彼がいくら屋敷のことが嫌いでも生き物の死に対しては日下姉弟ほど真摯なものはいない。祈りを胸に犬を送ったであろう葬式を思い広場を後にする。
屋敷に行かない日は専ら部屋にこもって創作に励む。締め切りに追われるのが嫌で一日のノルマを決めて書くのでそう急いてはいないものの早朝に起きだして午前の家にノルマが終わった日は気分がいい。逆に夜が更けても筆が重い日もあり、人間の気分は日によってこうも違うものかと驚かされる。
今日は昼過ぎにノルマをこなし調子が良いと思っていたら滅多にならない固定電話が鳴った。慌てて電話を取ると葛西だった。
「よお、同窓会の誘い来たか。」
そういえば2,3日前に同窓会のお知らせと書いたハガキが来ていた気がする。
「お前行く?」
地元に残った者たちは定例会と称して呑み会をよく開催していて、それには私も葛西も気軽に出席していたが今回の同窓会はクラス全体で行うものらしい。日下御殿で出会ってから私と葛西は一気に学生時代に戻ったかのように親しくなった。気持ちの上での話だが。
「日程が合えば。」
といってもその日のノルマを一週間に振り分けて他の予定を入れないようにすれば私はいつでも時間を取ることはできるのだ。
「そうか。」
黙り込む葛西に長年の勘が告げた。こんなことでわざわざ電話をかけてくるようなやつではない。何か話があるのだ。
「お前さあ、今日の夜空いてる?」
ノルマを終えた私は資料探しくらいしか予定が無い。
「飯食おうぜ。」
最近できたらしい大盛メニューがある店を指定した葛西はじゃあ夜に、と電話を切った。
葛西は待ちきれなかったのか私を車で迎えに来て店に向かった。そんなに大盛メニューが食べたいのかと聞くと時間制だから7時までに注文しないと、と答えた。現在6時45分。
「ぎりぎりじゃないか。」
「さっきネットで調べていて気が付いたんだ。」
時間すれすれに店に飛び込みメニューを注文し終えると私も葛西もなぜか疲れ果てていた。気が急くとどうもいけない。
「で、なんだ。まさか一緒にはちきれんばかりに飯を食いたいから呼び出したわけじゃないだろ。」
葛西はぎゅうっと顔をゆがめて私の方に顔を寄せた。
「真白君のことなんだが。」
真世への気持ちが湧いてきたとか真世の気持ちに気が付いたとかそういう話題が飛び出てくると思っていた私は拍子抜けした。
「真白君がどうしたんだ。」
人気のない店内にはハワイアンな音楽が流れていて、短いスカートの従業員が談笑しているのが見える。葛西はちらりと周りを窺った。
「いや、実は一昨日繁華街に行ってな。」
合コンの人数合わせに呼ばれたという。なかなかフットワークの軽い男だ。
「真白君がいたんだよ。」
どうだ、驚いただろ?俺もだよ、という顔で話は終わったとばかりにため息をついて物憂げな顔をする。私はこの男に何度人間にもっと優しくなれと言えばいいのだろう。
「葛西。俺はお前の頭の中に住んでいるんじゃないんだぞ。真白君だって繁華街くらい行くだろうよ、若いんだから。」
葛西はやっと気が付いたらしく再び私の方に寄った。
「それがさ、女装して腹の出た男と手を繋いでたんだよ。」
低い声で囁いた葛西は眉根を寄せる。
「見間違いじゃないのか。」
「俺だって最初はそう思ったけどさ、俺に気が付いてさっと方向転換したんだよ。しまったって顔して。」
私は未だ近い葛西の顔から遠ざかった。
「いろいろな趣味の人が世の中にはいるんだよ。お前にはわからないかもしれんがな。例え真白君だったとしても放っておいてやれよ。」
この男は人間に動物程の愛着はないものの近しい人間には少々過剰気味に興味を見せるのだ。真白は葛西にとって親しい人間ということになる。
「違うよ。俺は前から気になっていたんだ。あの大きな屋敷が老犬の世話くらいで成り立つはずが無い。遺産だっていうけれど限りがあるじゃないか。どこから金が出ているんだろうってな。」
あの子は金持ちに体を売っているんだ、と葛西は心底辛そうに言った。
「想像力が逞しいな。俺は彼から遺産は叔父さんが管理している、と聞いたぞ。信用できる人だと。」
「それが嘘なんだよ。叔父さん、なんて怪しいじゃないか。」
なぜそんな風に考えが及ぶのか私にはわからなかったが世間知らずの真白が女装をして男と歩く姿には違和感を覚えた。
「俺らでなんとかしてやろう。」
あんないい子が…と葛西は俯いた。こんなに情緒のある男だっただろうか。呑んでるのか?と聞こうとしたときかつ丼とカレーライスを合わせた大盛の器と私の頼んだピザがやってきて会話が中断した。
「90分内に食べ終わると無料でございま~す。では、スタート!」
かわいらしい店員の掛け声とともに葛西はスプーンを握って飯の山に差し込んだ。明らかにこんな会話をするのに向いていない店なのにどうしてここを選んだのだろう。いや、深い考えなど無いのだ。ただ食べたかったのだろう、それが葛西だ。
葛西は60分で力尽き、全額を払うことになった。残ったカツとカレーの残骸はそれを見越して小さめのピザを頼んでいた私の腹に収まったが、葛西が四分の三まで食べていたのであとは楽だった。この男はよく食うのだ。
力尽きて椅子にだらしなく寄りかかる葛西に私は言う。
「お前さ、変なことするなよ。」
「変なことってなんだよ。」
力のない声だ。
「真白君をいきなり問い詰めたり、尾行したりとか。」
そんなことはしない、とまだ苦しいのだろう掠れた声で返す。
「だからお前を呼んだんだよ。」
「どういうことだ。」
「真白君は斎条に懐いてる。それとなく聞くんだよ、お前の巧みな話術で。」
私の話術が巧みだったことなどあったろうか。黙り込む私をよそに葛西は徐々に復活していった。
「そうだよ、お前の小説家たる力をここで見せてくれよ。真白君を傷つけずそしてこの事件の解決策をだなあ。」
昔から葛西は推理小説が好きだった。私が作家になると言った時一番喜んでくれたのはこの男だった。犬や猫を登場させると余計に喜んだ。
「まあ話をするくらいなら。」
真白とはいつものように世間話でもして葛西には適当に言えばいいだろう。女装家でも男色家でもたとえ葛西の言うように春を鬻いでいようと私は一定以上に踏み込むつもりはなかった。人一人の人生に大きく踏み込むだけの勇気を失っていた。
「葛西。」
私が言うと彼は食い過ぎで火照った顔を向けた。正義感なのかなんなのか、犬好きに悪い奴はいないとでも思っているのか男の無邪気さが私には毒だった。
「真白君の女装綺麗だったか。」
葛西は怒ったような顔をして綺麗だったと言い捨てた。
予定を合わせて葛西と共に日下御殿に入場した。葛西が早く行けと目顔で示すので私は真白を探しに行く、と見せかけて散歩をする。整えられた庭と雑草が生えている自然との境をぼんやり眺めていると茂みの中で真白を発見した。手招きをされるがままについて行くといくらも行かないうちにリンゴの木が何本か生えている場所に出た。
「すごいな、どこまで敷地なんだ。」
「僕にもわからないんです。」
まだりんごの収穫期には程遠いが青い実がりんごの形になっていっているところだった。ここも丁寧に草が抜かれ手入れが行き届いていることがわかる。
「斎条さん、聞いたんでしょう。」
ふいに真白は私に近づいた。私がたじろぐと彼は今まで見たこともない顔で笑った。ぞくっとした。
「前にここが嫌いだと言ったこと、覚えていますか?」
猫背を正して顔を正面から見ると真白は端正な顔をしていた。白い肌にナイフで切り出したかのような目が二つ。黒目がちなそれは私をまっすぐに見つめていた。
「父は母を生き永らえさせるためならなんでもしました。子供のことは二の次だった。」
そんなことはないだろう、と言いかけたが声が出なかった。
「母が未だ生きていたころ、僕は父に呼び出されました。『大事なお客様が来るから日下の長男であるお前がご挨拶するのだ』と。僕は一張羅を着て来客用の部屋に父と向かいました。背中に置かれた手が熱かった。」
真白はふいと目を反らし風にあおられた。荒野の妖精だ、という陳腐な言葉が浮かんだ。
「お客様は30代くらいの男の人でした。『〇〇さんの言うことをよく聞いていい子にしていなさい』と言い残して父が部屋を去って、男の人が内側から鍵をかけました。」
がしゃん!真白は大きな声を出した。
「男の人はにこにこしてカバンから女の子が着る服を出した。『きっと君に似合うと思うんだ。着替えて見せて』って。僕は嫌だったけれど父の言葉を思い出して従いました。」
私は背中が凍っていくのがわかった。
「僕が物陰で着替えようとするのを男の人は止めて、目の前で裸になった。女の子の服の着方がわからなくて困っていたら男の人は僕に服を着せてくれました。」
そして、そしてと呟く真白が哀れだったが体は動かず声も出ないままだった。
「そして一緒にままごとをして遊びました。男の人がお父さんと子供の役、僕がお母さん役。それでその日は終わりました。僕はそのときまだ6歳だった。」
もう聞きたくなかったが真白の話は続いた。
「その人はなんども家に来ました。そのたびに僕は男の人の前で裸になってドレスやスカートに着替えた。男に人は僕が自分で着ようとすると怒ってそれがこわかった。されるがままになりました。」
ここでも遊んだんですよ、と彼は弱弱しく笑う。
「外で着替えるのなんて嫌だって言ったのに男の人は僕を引っ張っていってこの木の下で着替えさせた。風が寒かった。」
幼い彼は今よりももっと浮世離れしていてある種の趣味をくすぐったことは想像に難くなかった。
「母が死んだときから男の人は来なくなりました。そのときには僕ももうわかっていた。男の人が来た次の日には母の薬が増えていたから。」
少年にはなんと残酷なことだろう。私は怒りを通り越し大きな虚無を胸に抱えた。
「でも最悪なのはそれからです。僕は男の人の持ってくる服が好きになっていた、男の人がかわいいねって言ってくれる声とか、女の子にするみたいに優しい手つきとか。僕はあの人が好きになっていた。」
真白の顔は常よりも蒼白で今にも倒れそうだった。支えてやりたいが今近くに寄ったら嫌われそうな気がしていけない。
「知っているんでしょう。僕、女装して男と遊んでいるんです。街に降りてお化粧して適当な男をひっかけるんです、意外と捕まるんですよ。僕が男だって知ってても付いてくる。お金は向こうに払わせます。」
露悪的な言い方をしている、とわかった。私には真白が何を望んでいるのかわからないがこの若者をなんとか絶望感から救いたいと思った。救いたいなんておこがましいにもほどがあるが。
「葛西先生と目が合った時もう終わりだって思った。でも同時にほっとしたんです、これで言えるって。夜の繁華街なんて誰かに見つかるにきまってるしそれをずっと望んでたんだ、僕は。」
私が一歩近づくごとに真白の体からは力が抜けて、彼はりんごの幹につかまってなんとか立っている状態だった。
「こんな場所捨ててしまえばいいじゃないか。」
都会へ出てしまえば女装なんて珍しくもない趣味だ。彼が悩み苦しむのはすべてこの閉ざされた屋敷が原因のような気がする。
「姉を置いてはいけない。」
「お姉さんは君が思っているより強い。君がいなくても生きていけるさ。」
真白が屋敷を出たとなれば寂しいとは思うだろうが日々の買い物や仕事のことを外の人に相談しやすくなる。今よりも世界が広がるだろう。
「僕は怖いんです。ここが嫌いなのにここでないとうまく生きられない。」
ついに私は真白の体を捕まえた。抱きしめると薄い体が折れそうだった。少年という年はもうとうに超えているというのに彼の体からは幼いもの特有のか細さを感じる。抱きしめた時もう戻れないと思ったが後悔はなかった。
「今度一緒に街に行こうか。君の好きな服を着て。」
うなだれている青年の頭をなでながら今までの人生の中で一番優しげな声を出した。
「それでだんだん怖くなくなったらお姉さんと話をしてここを出るのもいいし、留まってもいい。街にホテルを取って何日か住んでみるのもいい。」
保護者がいない生活の中でこの青年は誰にも相談できなかったのだろう。震える体はやっと温もりを取り戻した。
「屋敷を出て生きられるかどうかゆっくり確かめればいいよ。」
幸いなことに叔父という後見人もいるし金もある。そして若い彼にはまだ始めることのできる時間がたくさんある。彼の話を咀嚼してみれば男のことを好きになったのは父親の影を見たからかもしれなかった。すがりたいときに近くに居なかった父親の代わりに幼い男の子を愛する男はするりと真白の心の中に入り込んだ。
真白は私の体にそっと手をまわして耳元で何度も礼を言った。体を放した後は二人とも奇妙に気まずく、目を合わさないまま庭に戻った。葛西と真世が陽気に話をしており、犬たちはいつも通りぼんやりと中空を見つめたりうずくまって気持ちよさそうに寝ていた。
「斎条さん、僕はあなたのコラムが好きだった。きっと優しい人だって思いました。」
後ろから囁きのような真白の声がする。その通りだった、と真白は微笑んだ。私は顔が熱くなるのがわかった。顔を背けて足早に葛西と真世のもとに向かうと二人は昨日のテレビ番組の話で無邪気に盛り上がっている。
この閉じられた世界で姉弟は年を重ねるのだと勝手に思い込んでいた。死に惹かれている彼らはそのままであればよいと無意識に思っていたのは自分だ。けして優しくはない。真白が外に出たいと言ったのでやっとそれに気が付いて背を押したのみだ。
この屋敷に心惹かれる私もまた死を思っていたということなのか。こんな場所捨てて生きている方が幸せなのかもしれない。しかし私は風向きが少し変わってきているような気がしていた。葛西のせいだ。純粋で単純な生命力は死を遠ざける。それにつられてか真世もまた芽吹きだしているような感覚がある。この二人の小学生くらいの恋愛を後押しするのが私の役目かもしれない。
真白はここを離れてもうまく生きてゆくことができるだろう。慣れることが必要なのだ。私の手には奇妙に真白を抱きしめた感覚が残っている。そうだ、今度の週末にでも街に行こう。どんな格好でもいい、好きな格好をして旨い飯でも食べれば彼も楽観的になるはずだ。
マルコやジョーが侍る庭で私と真白は秘密を抱えて葛西の冗談に笑い転げる真世を見守る。この屋敷は近い未来解放されるだろう。妻を治すために心を鬼にした父親から、幼いころの記憶から。そうなったら私はこの屋敷を舞台に小説を書こう。とびきり愉快な探偵小説を。