ただのありふれた日常の話
--あなたは友人が死んだら何を思いますか?
ある寒い冬の日の事だった。
いつものように仕事を終えて帰路につき、自宅でテレビなど見ながらのんびりと食事をして、上手く出来たなどと思っていた時の事だった。ふと、電話が鳴った。当たり前のように取り、「はい、○○です」と言った。
電話の相手は1年ぶりくらいに話す元同僚だった。久しぶりだなと言われ、なんだか嬉しい気持ちになったが、その声は沈んでいて、震えていて、それだけでなにか不安になった。まさか、何か困っているのかと思い、静かに続きの言葉を待った。
2秒程だろうか、ポツリと震え声で告げられた。
「……が、死んだ」
何を言われたのか分からなかった。月並みな表現だが、本当に分からなかったのだ。
そのまま状況や葬式の事について話され、慌てて近くの適当な紙にメモをしていった。頭の中では考えがまとまらず、何を書いているのかもよく分かっていなかった。
同僚の言葉が終わり、電話が切れた。
--友人は、孤独死だった。
持病持ちで、昨年定年退職したばかりだった。
近くに戻ってくるから、その時は一緒に飲もうなどと約束していた。それが最後の会話だった。
一人暮らしで、死後二ヶ月が経過していたという。とても苦しく、やりきれない思いが広がった。
途端に脱力した腕がテーブルに着き、電話を少し開いた手で持っていた。そのまま何も考えられずいると、少しして涙が出てきた。心は何も分かっていないのに。
そしてメモした紙を見るが、驚いたことに普段の見慣れた字のままで、震えも掠れもなく書けていた。あんなに動揺していたというのに。
何か空虚な気持ちになって、しばらくボーっとしていた。
そして電話を戻さなきゃと思い、少し立ち上がると点けたままだったテレビが視界に入り、同時に聞こえていなかった音を認識した。
そしたらもう、周りはいつもと変わらなかった。テレビの音と、キッチンの換気扇の音、静かな玄関に蛍光灯の灯り、何もかも日常で普段通りだった。
呆けていた頭が元に戻り、喪服を引っ張り出したり、携帯で電車の確認をしたりしながら、死んだ友人のことを思い出していた。
人の死を身近で感じたのは2度目だった。父の死はもう何年も眼だったが、ふと鮮明に当時の記憶が蘇っていた。
それから数日後。電車で片道3時間の場所で葬式に参加した。
そこで行われる葬儀に参加して、どこか現実味のなかった感覚が実態の伴ったものになっていった。
死んだんだと。亡骸がそこにあると。目を逸らすなと。そんな感情が浮かんでいた。
葬儀が終わり、長い長い電車で家に帰った。
朝に出たのに、帰ったのは夜だった。
帰ってから、手慣れた動作で喪服を脱ぎ、仕舞い、箪笥を閉じた。 風呂を沸かして熱々の湯船で顔を洗った。味気ない手料理を食べて、歯を磨いて、布団に入る。
寝る前に考えていたのは、昔の友人との思い出だった。ほとんどが楽しいことばかりで、嫌なこともあったはずなのにと思ってしまった。
……そこでまた、涙が流れていた。葬儀の時は流さなかった涙が、流れていた。
次の日、目を覚まして布団から出た。
朝独特の寒さを感じながら、固まった身体を動かしてほぐす。顔を洗ってから料理を作り始めた。
適当に野菜を炒めながら、昨日のことを思いだしていた。
あんなに色々あったはずなのに、昨日のことは昨日のことで、そうと知っていても身体は動く。日常は戻ってきていた。
非日常。イレギュラーな自体は数日で終りを迎え、突発的な自体は起こりと違って自然に終わる。
思い出すと涙が出そうになるが、それは昨日の涙とも、電話で知った時のものとも違っていて、どこか無味なものだった。
あんなに鮮明に思い出せた父の死も、あんなに悲しみがあった友人の死も、同じ死でありながら違い、同様にただの記憶になっていた。
携帯には変わらない連絡、変わらない通勤時間の知らせ。変わらない自宅の風景。変わらないスーツの着心地。変わったのは財布の中くらいだ。
いつもの乗り慣れた電車に揺られながら、仕事内容について考える。
ああ、これが日常で。……あれも、日常だった。
テレビで見る死亡ニュースや事故のニュース。いつもはただの記号であって、ただの数字の羅列だったそれは、身近で起きて初めて、数字に意味が付く。
数字が生きている、生きていた人間だったと思い出す。
数え切れないくらいの人がいて、自分もその他の一人だと、数字の一つだと実感する。
そうして久しぶりに、人生は一人につき、一つあるものだと思いだした。