98、歌巫女エルラの旅
サクルラ国を出て早10日。
歌巫女エルラ一行は国境間近まで来ていた。
「此処からヨウガル国へと入る。我が国と違い治安が悪い。皆、心するように」
護衛騎士団長の言に誰もが深く頷く。
長きに渡る旱魃で疲弊していたところに、先の戦争でドラゴンにより更なる被害を受けた。
おかげで今のヨウガル国の民は食うや食わずの辛い生活を余儀なくされている。
よって飢えを凌ぐための強奪が横行し、治安は悪化の一途を辿っていた。
「それでもしばらくは静かだと思うよ。人がいないから」
「いない?」
怪訝な顔をするテルムに、うんとレイスが頷く。
「此処に来るまでの村や町には人がいっぱいいたでしょ。街の人が言ってたけど増えたのはヨウガルから人が逃げてきたからなんだって」
「…国を捨てたのか」
戦争時の敵であった国に逃げる。
それしか他に道は無いほどに困窮していたのだろう。
たとえそこで待つのが迫害でしかなくとも。
「でもサクルラ国はそんな人達を難民扱いにして受け入れてくれてるから良かったけど」
だがテルムの考えをさらりとレイスが否定する。
「敵だった国の民を助けるのか?」
信じられないと言った顔をするテルムに、うんと笑みを向けた。
「マリキス商会ってところが発起人になって他の商会や商店から有志を募って難民の救済基金を立ち上げたんだって。それを受けて国も動いてくれて、今では最低限の保障はしてもらえるようになったんだ」
「よく周囲が納得したな」
敵に肉親を殺された者も多いはずだ。
そんな者達が素直に敵国の民を受け入れられるものだろうか。
しかも難民を受け入れた所は、財政負担や治安の悪化と雰囲気もギスギスしたものになりがちだ。
「初めは揉めたみたい。だけどマリキス商会の取締役の人が『敵国とは言え、飢えて死ぬ子供を見ながら美味しいご飯が食べられるのか』って言ったら、文句を言ってた人も黙ったんだって」
「そいつはまた」
呆れ顔をするテルムにレイスが笑顔でその効果を口にする。
「だから今まで通ってきた所に諍いとかなかったでしょ」
「…確かにそうだったな」
「飢え死にせずに済んで、ちゃんとご飯が食べられるようになったから誰もが感謝して、受け入れてくれた町に少しでも恩返しがしたいって一生懸命働いてるんだって。夏から秋にかけての農作業はやることが多いから人手はあった方がいいしね」
「そうかもしれないが…良くそんな風に割り切れるものだな」
納得が行かないと言った顔をするテルムに、肩を竦めながらレイスが言葉を継ぐ。
「拘るテルムの方が変だと思うけど」
「そうなのか?」
「うん、だって病気や事故、野盗や魔獣に襲われたり、戦争や天災とかでちゃんと明日が迎えられる保証は誰にも無いんだよ。過去に何があったって拘ってる暇はないよ。それより前を見てしっかり生きなきゃ。生きてれば美味しい物が食べられるしね」
「…結局はそこか」
呆れるテルムに、えーっとレイスが反論する。
「美味しい物って大事だよ。食べた時に生きてて良かったあって思えるもの。特に王都で食べたカレーライスは凄く美味しかったなぁ」
「か、カレーだとっ」
その名に何故か盛大に狼狽えるテルム。
「うん、それとー。ハンバーガーでしょ、お好み焼きにタコ焼き、ラーメン、オムライス、かつ丼と牛丼、親子丼、唐揚げにコロッケ、餃子とチャーハンが美味しかったかな」
「…それはマリキス商会が広めたヤツか?」
ゴクリと喉を鳴らしてからテルムが問いかける。
「そうだよ。テルムは王都で食べなかったの?」
「お、俺は…修行先から直接、採用試験会場に向かったし。従者に決まってからは神殿から出なかったからな」
「あー、それは残念だったね」
あからさまに憔悴してしまったテルムの姿に、レイスが気の毒そうに声を掛ける。
「そうだ、これならあるよ」
言いながらレイスが大事そうに懐から紙袋を取り出した。
「何だそれは?」
「チョコレートだよ」
ほらっと紙袋から出されたのは、銀色の紙に包まれ四角い菓子だった。
「春から王都で売られ始めたお菓子なんだけど、朝から並ばないと買えないくらい大人気なんだ」
そうレイスが説明するがテルムの耳には届いていないようで、見開かれたその眼はチョコから離れない。
「はい、どうぞ」
「ああ」
震える手で受け取ると、テルムはゆっくりとチョコを口に含んだ。
「美味しい?…って何で泣いてるのっ」
驚くレイスの前でテルムは静かに涙を流していた。
「いや、その…あまりに美味くて」
慌てて涙を拭いながらバツが悪そうにテルムが答える。
「そっか。ね、生きてて良かったって思ったでしょ?」
「…ああ、そうだな」
「やっぱり美味しいは正義だよね」
得意げにそんなことを言うレイスに、何だそれと思わず突っ込むテルムだった。
そんなことがあった数日後、テルムが宿の裏庭で剣を手に素振りをする様を見物していたレイスが不意に聞いてきた。
「テルムは誰に剣を習ったの?」
その問いに何故かテルムの顔に怒りの色が浮かぶ。
だがじっとこちらを見つめる眼差しに、渋々と口を開いた。
「…流れの騎士だ」
「その人は今、どうしてるの?」
「…何故、そんなことを聞く?」
逆に問い返され、んーとレイスは首を斜めにする。
「テルムから剣の先生の話を聞いたことがないからさ。もしかしてケンカ中なのかと思って」
「だったら何だって言うんだ。お前には関係ないことだろう」
「そうだけどさー、でも気になるじゃない。もしかしてテルムが何かしたからケンカになったとか?」
「俺は何もしていないっ。あいつがっ…」
カッとなって言い返すテルムの前で、ピッとレイスは人差し指を立てて左右に振ってみせる。
「何もしないでケンカになるかなー。自分は何もしていないつもりでも、知らないうちに相手を怒らせるようなことをしていたのかも」
「そんなはずは無いっ。ヤツは俺のことを…」
思わずそう言い返してから、ハッとした様子でテルムは自らの口を手で覆う。
「前にねー」
黙り込んでしまったテルムを気にすることなくレイスは話を続けてゆく。
「凄く仲の良い恋人たちがいたんだ。でもね、お年寄りに席を譲った女の子を見て『偉いな』ってこっちを見た彼氏に彼女が言ったんだ。『ああやってさも自分が良い人だって見せつける女って最低よね』って」
唐突に始まった世間話にテルムが訝し気にレイスを見返す。
「その何気ない一言で、彼氏は自分の命より大切だと思ってた彼女への想いが嘘みたいにスッって消えてしまったんだって。親切をした相手をそんな風に貶める心根が許せなかったんだよ。そうなったら彼女の嫌な部分がいろいろ目に付くようになって、それを口にしたらケンカが絶えなくなって…最後は2人で罵り合って別れることになったって。それだけ人の心は繊細で移ろいやすくて複雑ってことだね」
「…俺もそうだと言いたいのか?」
「さあ、僕はテルムの先生を知らないから本当のところは判らないよ。でもテルムが先生にとって絶対に許せない言葉や行動を取った可能性は高いんじゃない?。でもだからってテルムが悪い訳じゃないけど」
「…どういうことだ?」
「その彼女にしてみたら彼氏の言い分は理不尽以外の何物でもないよね。彼女の前で他の女の子を誉めて、お前も出来るようにしろよって目で見るなんて無神経にも程があるって怒って、思わず言ってしまった言葉だったかもしれないし。それに気付きも、確かめもしない彼氏もどうかと思うしね。つまりどっちも子供だったんだよ。自分本位で相手を思いやることが出来なかった。でもケンカ別れって結果に終わったけど、そうなるまでに2人が愛し合っていたことは本当だし、その気持ちに嘘は無かったと思うよ」
そう言うとレイスはテルムの側へと歩み寄ってきた。
「テルムと先生も同じだったんじゃないかな。結果はどうあれ、先生がテルムに剣を教えて世話を焼いてくれた時は間違いなくテルムのことが好きだった。その想いに嘘はなかったと思うよ」
「…そんなはずは」
「テルムと先生の間で何があったか知らないけど、よく考えてみて。何が真実で何が嘘だったのか。一方的に相手を責めてばかりじゃ、それは子供と同じだよ。人はいつまでも子供のままじゃいられないんだから」
ポンとテルムの肩を叩くとレイスは宿の方へと目をやった。
「お腹空いたねー、今日の夕食は何かな」
「…お前ってヤツは」
諭すようなことを言っていたと思ったら、たちまちいつもの調子に戻ってしまったレイスにテルムから派手なため息が零れた。
ヨウガル国の街道を粛々とエルラ一行が進んでゆく。
レイスが言った通りに国境沿いの村には人がほとんどいなかったが、サクルラ国から離れるに従って街道に人影が増え出した。
しかしその姿は誰もが酷く窶れていて、ヨウガル国の困窮具合を如実に伝えていた。
「…話には聞いていたがここまでとはな」
通り掛かった村で見た、目ばかり大きく枯れ木のように痩せた手足をした子供達の様にテルムの眉が寄せられる。
「国境沿いなら逃げ出すことも出来るけど、ここまで離れるとそれは難しいからね。国を捨てることは重罪だから見付かったら投獄されてしまうし。…何とかしてあげたいけどヨウガル国が救援を求めないうちは内政干渉になるからダメなんだって」
「この国の王は何をしているっ。意地を張ってる場合じゃないだろうっ」
怒りも露わなテルムに、無理だよとレイスが力なく首を振る。
「下手に他国に救援を求めたりすると、弱みを握られたことになるでしょ。救援と引き換えに、どんな無理難題を押し付けられるか判ったものじゃないから簡単に助けを求められないんだ」
「クソッ…何も出来ないのか」
レイスの話にテルムは悔し気に唇を噛んだ。
そんなテルムの姿に、意外だと言った顔でレイスが口を開く。
「テルムって他人なんてそこらに転がる石くらいにしか思ってたんじゃないの?」
「どんな 人非人だっ、俺はっ!?」
「えー、だって最初に会った時、口では仲良くやろうとか言ってたけど生ゴミ見る目で僕のことを見てたじゃない」
「そ、それは…」
しっかり見破られていたことに驚きと気不味さからテルムの眼が逸らされる。
「自分以外は全員が敵…とか思ってるでしょ。だから人と深く付き合おうとしないで上辺だけを取り繕ってる。でもみんな馬鹿じゃないんだよ。そんな風に思ってるって感じ取ってるから向こうもテルムに近寄ってこないんだよ」
「…お前」
世間知らずのぼんやりしたヤツだと思っていた。
だがどうやらとんでもない食わせ者だったと、漸くテルムはレイスの本質に気付いた。
油断なく此方を見つめるテルムにニッコリと笑いかけると、レイスは笑んだまま言葉を継ぐ。
「まあでも最近は人らしくなったよね。世界中を憎んでます…みたいな恥ずかしい暗ーい目付きもあまりしないし、笑ってもお面を張り付けたみたいな嘘くさい笑顔ばかりじゃなくなったもの」
「…そこまで言うか」
「事実だろう」
しれっと言い返されてもテルムは反論できない。
何故なら、レイスが指摘した通りだからだ。
「そう言うお前だって胡散臭さだらけだろうが。ただの世間知らずかと思えば、いきなり穿った考えを口にしたり、国の内情を詳しく知っていたり。…印象がちぐはぐ過ぎるっ」
「うん、そう思って当然だよ。だって僕は言われた通りの言葉を君に伝えているだけだもの」
「どういうことだっ?」
あっさりとんでもない事を言い出したレイスをテルムが睨み付ける。
「種明かしは明日だって。明日はエルラさまが町外れにある孤児院を慰問されるから、その時に教えるよ。じゃあね」
「お、おいっ」
笑みと共に手を振ると、レイスの姿は煙のようにテルムの前から消えていった。