二.虚空を叩く雷の名は反逆 2
大陸西域の列強の一つと数えられるパルツィヴァルの軍勢が、ヴェルダナ湾への展開を開始して既に半月が経過していた。当初は大規模な海軍演習に過ぎぬと目されていたものが、気がつけば、湾に流れ込む紅河の河口域の半包囲がうかがわれるまでに接近を許してしまっていた。王都サラガより発されたと言う詰問の書状の返答は当然のように届かず、パルツィヴァル軍の真意が掴めぬシャリンの苛立ちは、やがて恐るべき戦慄へと取って代わられた。パルツィヴァル軍の指揮官が、かの国の勇将リングレンダと知れたためである。宿将クナップシュタインと並び称される難敵と対峙し、シャリンは麾下の軍勢の劣勢を正しく自認した。兵数にして恐らくは倍、視界の端を超えるほどに広げられた船団の、その全ての接岸上陸を阻止はできぬと判断し、王都への援軍の要請を走らせたのである。
その要請に応え、ヴェルヌ国軍の最高指揮官たる大司馬のレルディスは、第二王子イシャーン率いる近衛騎士団に援軍を命じ、さらには南部総管ミューズにも麾下の軍勢と共にヴェルダナ湾へ向かうよう指示を出す。合流の遅れる旧友を訝りながらヴェルダナ湾に着陣したイシャーンの元に、ハリティ崩御の急報が飛び込み、その動揺が陣形を乱した刹那、シャリンの防御網を突破したリングレンダの猛攻に遭った。行軍の疲労と、父王の訃報に混乱する指揮官と、二つの悪条件が重なりながらも近衛騎士団はよく戦い、二里の後退と押されながらも損害を最小限に抑えて緒戦を終える。兵をまとめたイシャーンは王都への帰還を考えるも、その後も小規模な戦闘が断続する中で果たせず、今後の指示を問う使者を派遣した数日の後、兄王ゾンダークよりの追討令が発されたことを知らされたのであった。
-先王ハリティ崩御に伴う服喪のための帰還の命に従わず、いたずらに干戈を交えて西方に乱を広げる。
罪状を告げる文言は、兄王により相国に任ぜられたかつての友、ミューズ・フォン・バルバロッサの筆によるものであったことが、さしものイシャーンをして絶句せしむる最大の要因となった。加えて、服喪のための帰還の命など、イシャーンには届けられていなかったのである。
「これは、殿下、謀られましたな。」
誰もが口に出すことを憚っていた考えは、幕僚の一人オウカ・フォイエンバッハによって無造作に言葉にされた。先代の相国カルマルに才能を見出だされ、いずれは宰相に至るエリートコースを累遷しながらも、歯に衣着せぬ言動が災いしてイシャーンの遠征軍への従軍を命じられていたこの初老の文官は、続けて恐るべき想定をも口にした。
「殿下、恐れながらゾンダーク様とパルツィヴァルとは通じておりますぞ。」
一同は慄然とし、その正しさを知ることとなる。リングレンダ率いるパルツィヴァル軍の本格的な攻撃が伝えられると同時に、ヴェルヌ東部総管・鎮東将軍バルテュス率いる五万の軍勢が、イシャーンを討つべく赤帝盆地に到着したのである。赤帝盆地は王都サラガより八日の距離。イシャーンに届けられた報に記されたハリティ崩御の日時は十日前であり、時を同じくして帰還の命が出されていたのだとしても、それに従うと知らせる使者が二日で王都に至るはずもない。事の始めよりイシャーンを討つために仕組まれた策謀であると、当事者の誰もが認めざるを得ない事態であった。
そして今一つ、策謀の存在を事も無げに口にしたオウカでさえ明らかにはできなかった疑いがある。
イシャーンが王都サラガを離れた直後のハリティの崩御、ゾンダークの即位とは、あまりにも都合が良すぎるのではあるまいか。或いは、先王ハリティの崩御もまた……
困惑は逡巡を呼ぶ。そして逡巡は、迅速果敢、疾風の如きと評されたイシャーンの用兵を曇らせた。西方のリングレンダとの戦線を撤収する時間と余裕とを作り出せぬままに、東方からのバルテュスの攻勢を受けることとなった戦況は、当然、悪化の一途をたどる。西方からの攻撃への対応をシャリンに一任し、イシャーンはバルテュスの迎撃に専念する状況を作り出してはいるものの劣勢は否めない。精鋭の近衛騎士団三万とは言え、追討軍五万と正対するには明らかに分が悪かった。
そうした状況の中、三日に渡り降り続く長雨は恵みのはずであり、だが、それが降り止んだ時こそが全ての終わりとなるのやも知れなかった。
野戦地図を撫でるイシャーンの右手が一つの戦駒を掴み取り、いかにも何かを思案しているように掌中でもてあそぶ。やがて、その戦駒はコトリと音を立て、静かに地図に戻された。大きく咢を開けた狼の駒と向き合うその位置には、一つの地名が記されている。赤帝盆地。ヴェルヌ西方を流れる二つの大河、赤江と紅河とが運ぶ肥沃な土壌によって形成された大規模な盆地であり、イシャーンが決戦の地と臨む場所でもあった。
「殿下。」
呼びかけたアンジュの声は、中空をつんざく雷鳴に遮られた。天幕の中をも眩しく照らす雷鳴は、アンジュと彼女の若き主君との影を湿った大地に鮮やかに刻み込み、彼女が投げかけるはずだった言葉を永遠に消し去った。
「遠雷が鳴ったか。」
イシャーンの声が、アンジュの耳には低く響いていた。その低さが何を意味していたのかを、アンジュは存外にも長く考えることとなった。