二.虚空を叩く雷の名は反逆 1
降りしきる雨は、ヴェルダナの東岸を冷たく濡らす。三日前より降り続く長雨は、ヴェルダナ湾を濡らし、西岸のパルツィヴァルを濡らし、そしてヴェルヌの大地をも等しく濡らした。海面は冷たく煙る。季節を戻すかのような急激な冷え込みをもたらす晩春の長雨は、苦闘を引きずる眼前の戦況にも似て、イシャーンの心に底冷えを呼び寄せる。厚手の長衣を通り抜けて身に突き刺さる冷気は、果たして天候のみがもたらすものであっただろうか。間断なく天幕を叩き続ける春の長雨は、やがて訪れる初夏の陽光の前ぶれであるはずが、なぜかその気配すらイシャーンに与えてはくれない。
ゆらりと、天幕の四隅に吊るされた灯火が揺れる。不測の事態による火災を防ぐためにかぶせられた不燃性の薄い覆いが、揺れる炎の姿を不気味に描き出す。遠く、遥か東方に聳え連なる竜峰レイフシュタットに巣食うという火吹き竜の伝承を思い出し、その山麓を越えて旅立った旧友に思いを致す。
お前は、いずこで何をしているのか。
恐らくは、鼻を小さく鳴らしながらの独特の笑いが返って来るのだろうと考えたところで、イシャーンは我を取り戻す。おりもせず、ありもしない味方を頼りに戦うことなど、自身に決して許してはならない。十八歳での初陣以来、配下の近衛騎士団と共に数十の戦場を疾駆して未だ一度の負けも知らぬヴェルヌの第二王子イシャーンとは、そうした思考を常とする若者であった。
指揮官用に張られた天幕の中、イシャーンは粗末な椅子に深く座り込んでいる。目の前には、これもまた急ごしらえの粗末な机が置かれ、机上には色あせた野戦地図が大きく広げられていた。味方と敵との配置を示す戦駒を見つめるイシャーンの、その無髯の容貌はひどく若く、そして端整でもある。白皙の左頬に落ちかかる一筋の頭髪は雪原に落とされた陽光の鮮烈さを思わせる黄金色に輝き、苛烈な輝きを秘めた青磁の瞳と相俟って、危険なほどに挑戦的な様を描き出している。
その絵画の名は、反逆の王子。
実兄ゾンダークの国王即位後、親王の地位も近衛大将軍の職も追われ、一旦は授けられた侯爵位もわずか三日にして剥奪の憂き目にあい、今やヴェルヌの史書には廃王にして反逆者イシャーンの名が記される。けれど、イシャーンの反逆は、それを記す側にさえ信じる者はいない。「春雷のイシャーン」の異名を持ち、ヴェルヌ最強の「西風の騎士団」を率いた若き名将の反逆を、国内の誰が心から信じることができようか。
当のイシャーンですらもが、自身が反逆の徒であるとの意識はない。ただ、自身の本心を偽ることはできなかった。ことさらに王位を求めた覚えはない自分を、なぜ兄ゾンダークが敵視するのか。旧友と頼ったミューズは、何故に自分を陥れたのか。このいずれをも、イシャーンは理解ができなかった。
否、より正確に言うのならば、理解はできても納得することができなかったのである。兄のヴェルヌ国王即位の際には、将軍としてこれを守護するべく戦場に赴き陣頭で指揮を取る。自身の騎馬の左右にはミューズと、そしてもう一人、カルネリアス家きっての異才ライシェルがつき従う。自身の思い描いた光景が崩れたその理由をこそ、イシャーンは当事者たちに尋ねずにはいられない。ならば、屹立して朔風に逆らい、祖国と切り結ぶ他に術はなかった。
加えて何より、不当に加えられた圧力に唯々として従う男では、イシャーンはない。
再び、イシャーンの双眸が青磁の色に輝く。天幕の入り口が音もなく引き開けられ、凍える滴をまとった長身の女性が滑り込んで来たのだった。頭からかぶった黒い外套のせいで、身にまとう赤色の長衣は暗い影を帯びているようにも見える。濡れそぼった外套を素早く脱いで後方の従者に預けると、女性は懐から一巻きの封書を取り出しイシャーンへ差し出した。
「シャリン将軍よりの書状、確かにお届けいたします。」
夕陽を背負う牡鹿の封印を一目確かめ、机上に置かれていた短い指揮棒を使い弾き飛ばす。露わになった書体は、西部総管・征西将軍にして「ヴェルヌの六翼」の一翼ディスカート家当主シャリンの、いかにも生真面目な右上がりのそれであった。肺病に冒され六年前に急逝したゼルヴィスを襲いディスカートの家名を継いで以来ヴェルダナの東岸を守る女将軍は、今もなおイシャーンと連携し、西方パルツィヴァルの攻勢を挫く障壁であり続けていた。
けれど、いかに堅牢な障壁とて、間断なく寄せる波濤に抗い続けることはできぬものである。
「総管殿の戦への援兵であったはずが、主と従とが取り違えられるとこうも後手を踏むものかよ。」
書状に記された戦況の報告を読み取り、気づかずに口調が荒くなる。市井の庶人とも思われかねない物言いを耳にして、書状を届けた女性は眉を顰めながら従者を天幕の外へと追い立てた。両耳の下で切りそろえられた黒髪を一つ振ると、細かい水滴の幾つかが女性の足元に跳ね落ちた。髪と同色の瞳が何か言いたげな表情を浮かべ、一瞬の後には憂慮の色へと変わっていく。イシャーンの副官を務める女性武官アンジュ・ヴェルチェスタは、この時主君より四歳年長の二十八歳である。イシャーンと共に戦場を駆けて七年がたち、「十代の公子に体で取り入った女」との悪評も既にない。ただ、余人の目が届かぬ場面での振る舞いは、有能な副官と言うよりも、むしろ世慣れぬ弟の世話を焼く姉の体であった。
「殿下。シャリン将軍からは何と。」
「アンジュが見て来た通りだ。この長雨でヴァルダナも荒れている。リングレンダが船団を動かす気配はないようだが、それも次の凪までだろうと言っている。」
視線は書面に落としたまま、口早にイシャーンが答える。思考を幾筋にも巡らせるほどに早まる口調は、イシャーンが未だ熟せざる戦巧者である現れであるとアンジュは知っていた。しかし、その未熟さをこそ自身が憎からず思っていることには知らぬふりを決め込んでいたのである。
「リングレンダの船団には揚陸隊の準備もあるようだが、パルツィヴァルがどこまで本気かは量りかねるそうだ。恐らくは、我らの負けっぷりを見ながらのしかけになるだろうと言っている。」
全てを読み終えたのか、イシャーンの右手が書状をアンジュへ差し出した。受け取って一読し、イシャーンの言が直截には過ぎるものの過誤はないことを確かめる。それにしても、負けっぷりを見ながらとはよくも口にしたものであると、主君の率直さを咎めたくもなった。
「怒るな、アンジュ。敗れるつもりなど毛頭もないが、彼我の状況を考えれば、確かに蹴散らされそうなのは我らの方だろう。」
歪めた眉で苦言を読まれたものか、イシャーンが和らいだ声をかけてくる。椅子から立ち上がり野戦地図を一瞥する表情は、だが、口調とは異なって極めて厳しいものだった。イシャーンの左手が、ヴェルダナ湾の中央に置かれた戦駒の一団を東岸近くに移動させて一頭の牡鹿と対峙させる。木塊から削り出された牡鹿は、歴戦の狩人に十重二重に囲まれて、吐息を漏らすばかりに思われる。数日の後には現実となるであろう、その様を見下ろすイシャーンの双眸はいかにも暗い。背後はお気になさらず、殿下はバルテュスを存分に打ち破られよ、と述べてヴェルダナ湾に布陣した女将軍の言葉を思い出し、いかに劣勢に陥ろうとシャリンは言を違えることはないだろうとも考えたからこその暗澹である。牡鹿とは、身に幾本もの矢を受けてなお、命を賭して角を狩人に突き立て続けるものである。
「シャリン将軍は、やはり援軍は不要とのお言葉でした。」
アンジュが改めて報告する。長雨のもたらした空白を利用しての慌ただしい会談を求めたシャリンの真意は、実はその一言をイシャーンに伝えることにあったのではないかとアンジュは考える。ヴェルヌ西方の守護は我らの任、と笑みを浮かべるシャリンの横顔が蘇る。その笑みが、どこか苦さを含んだものであるように見え、その苦さは、言葉にはできぬほどの悔恨に由来すると思われたのは、決してアンジュの錯覚ではない。
後にシャリン自身が述懐したように、全ての誤りは、シャリンによる王都への援軍要請から始まっていたのである。