一 凶報、或いは黒鷲の咆哮 3
クレイモルンの深い褐色の瞳に凝視されていることに気づき、その底を知覚できないとも気づき、ミューズは逃げるように視線をそらした。一つの疑念が浮かび上がる。
この男を、俺は恐れているのか。
苛烈さではイシャーンに勝ると称され、才に欠けると見なした重臣を罵倒してやまなかったミューズである。けれど、その象徴の一人と見なして来たクレイモルンに対してこの時に抱かざるを得なかったのは、確かに恐れに似た感情であった。無論、クレイモルンが無能な男であったはずはない。国政を預かり、滞らせないだけの力量は備えていた。だが、結局はそれだけの人物ではないか。鋭敏さでは侍中メレフィンに及ばず、剛毅さでは右尚書僕射コーリンゲンに及ばず、凡庸さでは大司馬レルディスに及ばない。かつて、クレイモルンをそう酷評したのは、他の誰でもないミューズ自身である。何よりも、東の隣国カーネストラを制し、北方の雄ネーデル帝国を圧し、兵制度の一大転換とも言える府兵制度を構築した大宰相カルマルを父に持ち、偉大な父の高すぎる名声を重荷として負ったクレイモルンの肩は、いかにも頼りなさげにミューズには思えたのである。
けれど今、先王ハリティの右に無気力に控えていた時分と同一とは思えぬクレイモルンの迫力に、ミューズは確かに怯えている。はたと思い当たる。同じ思いを二度味合ったことがある、と。一度目は感嘆に、二度目は屈辱に、それぞれまみれた経験であった。
「カルネリアス家と言えばヴェルヌきっての名門。国王ゾンダーク陛下を裏切り、イシャーン殿下にお味方すると聞こえたのですが?」
疑問の口調が続く主君の様子に、アレイシャンは苛立ちを感じ取る。どのような実力者との交渉でも、主導権を常に握って来たのがミューズである。他人に先んじられることを好む男では、ミューズはないのだ。そのミューズが、あのクレイモルンに翻弄されている。アレイシャンは半ば唖然とした。この会話は、クレイモルンに切り捨てられて終わる、そうした類のものなのではないかとの恐れをも抱く。
「ミューズ殿。あなたを選ぶことはできない。そうお考えくだされ。」
穏やかに、けれど鮮やかに突きつけられたクレイモルンの最後通告であった。ミューズの背中に冷たい戦慄が走る。誤解も曲解もしようのない断言された拒絶の言葉は、予期していた以上の衝撃をミューズに与えたのだった。
これほど才を示しても、存在を許容してはもらえないと言うのか。ミューズの心が醜く焦がれる。バルバロッサは、カルネリアスを、マクスウェルを越えたいのではない。ただ、ただ、あなた方に認めてもらいたいだけなのだ。それすら、理解してはもらえぬのか。焦がれは、なおも続く。南部総管・鎮南将軍より相国位に進み、近衛代将軍をも兼ねるに至った男は、繊細な野心という名の竜に全身を犯されてもいたのだった。
胸の前できつく組みあわされていた両腕を苦労してほどく。そして、ミューズはわざとらしい溜め息をつき、クレイモルンから視線を外した。或いは、心に巣くう竜の吐き出す紅蓮の劫火に耐えている、それは姿であったかも知れない。
「アリュー。相国閣下は反逆の道を歩まれるおつもりらしい。地下にご案内しろ。丁重にな。」
頷きながらも、アリューには、その言葉が敗北の宣言としか聞こえなかった。失礼と声をかけ、クレイモルンの肘に手をかけたところに、ミューズの言葉が重なった。
「閣下、やはり私では……」
その時、確かにアレイシャンはミューズの言葉を聞いた。耳にしたように思えた。ミューズ本人は何をか言わんとしたのか、真相は歴史の闇に消えている。続くべき言葉は、ミューズの強烈な意思の力で押しとどめられたのである。驚嘆に値する強靭な意思の力であった。理解してはいても、決して納得したくはない事実が必ず存在するように、言葉として結ばれたが最後、決して取り消すことのできない思いもある。ミューズはそれを避けたのであっただろう。後悔した様子を見せぬために顔を伏せたミューズを察したのか、クレイモルンもそれ以上の言葉を敢えて引き出すことはせず、軽い会釈を残して執務室を後にした。閉じられた扉の音が、ミューズの耳に苦く響く。かろうじて残されていた道が閉ざされた、その瞬間でもあった。
ミューズはこの日幾度目かとも知れぬ溜め息をつく。自らの限界を知る、それは絶えることのない嘆きだった。
「ライシェル、早く来い。イシャーン陛下を玉座へお連れしろ。俺の野心は、いつまでもつかわからんぞ。」
きつく握り締められた両手の中で、ミューズの自負心と、そして野心とが静かにたゆたっていた。