一 凶報、或いは黒鷲の咆哮 1
半瞬、紅の頭髪を震わせたミューズは、自らの心が軋む音を聞く。否、野心との名をも持つ、強烈に過ぎる若者の自負心の、それは悲鳴ですらあったかも知れぬ。自身の心の内に甲高く響いた悲鳴の影響を微塵も感じさせず、ミューズは、凶報をもたらしたアレイシャンの翳った金髪を凝視する。ミューズの近臣をねめつける眼光が「風雪の邪眼」と評されるようになったのは、さほど遠い昔のことではない。現王ゾンダークが忌避してやまぬその苛烈さを感じぬはずもなかろうに、アレイシャンの叩頭した姿は微塵も揺るぐことがない。ミューズが側近に遇するに値する、若者は豪毅な騎士であった。
「大鷲、黒鷲旗と言うのだな。」
ミューズ・フォン・バルバロッサの独白が、払暁の執政室に細く響く。ひび割れた音とも思われたのは、アレイシャンの錯覚ではないだろう。黒の大鷲カルネリアス。反逆の王子イシャーンを守護すべく、朔風に逆らい雄々しく舞った黒鷲の様は、これまでの武勲から「紅の獅子」の二つ名を持つミューズの心を激しく焦がしてあまりある。遥けき中空より襲い来て獅子の燃え立つ鬣に嘴を突き立てる黒鷲の猛々しさを思い浮かべ、アレイシャンの背には戦慄が走る。彼の戦慄を知らずか、薔薇の名を関する若き権勢者は手にした前線よりの報告書を強く握り、固い感触を伝えるのみの羊皮紙の向こう側に、とある知己の姿を見出していた。
大陸西方の王国ヴェルヌを支える大小の貴族。その頂点に位置づくは、「六翼」と称される六大貴族。カルネリアスとは、それら貴族群の筆頭にして国政の最高位たる相国を世襲する名門中の名門。
そして……
ミューズは、まるで自らの長身をもてあますかのように踵を返し、今は座る者とてない紫雲の玉座を脳裏に描く。過ぎ去るには未だ時の侵食を得ない思いの中で、ミューズは自身を王者の傍らに侍する武官に擬していた。二四歳の若年にして数多の戦いに勝利し、南部総管として治下に置く十余州の統治に励み、いずれヴェルヌ武官の最高位に就いて次代の王者イシャーンと西域に覇を唱えん。
全ては、ただそれがためだけになされていたはずであった。けれど、かつての強い願望は、今は飲み込めぬほどの苦さで喉の奥を苛立たせる。苦さは口惜しさに由来する。俺は奴をこうも憎々しげに思っていたのかと、ミューズは時ならぬ自問を考え込む羽目に陥った。
奇矯な振る舞いに「カルネリアス家の駄馬」と蔑まれては弱々しい笑いを返すだけと思えたライジェリアルは、その薄笑いの下に才無き他者を嘲笑う舌を隠し持っていた。自らを理解しえないものなど歯牙にもかけぬ怜悧な思考への感嘆は、やがて怯えと変わる。奴の下風に立ち、気圧されることを結局は肯んじなかった狭量さが、ミューズをして決別へ追いやった要因の一つではあっただろう。
「バルテュスは、果たして早馬を即座に走らせたかな?」
つと零れた言葉はいかにも皮肉めく。主の欲するところを機敏に察し、視線を上げたアレイシャンの聡さは、微笑を誘われるほど如何にも近侍の騎士らしい。思考の奥底を見通す聡さでなく振り上げた指の下ろし先を探ろうとする献身さが、この金髪の騎士には備わっている。
「エスクード殿の身辺に遣わした者が戻りませぬ故、判然と致しませんが、バルテュス殿の性を考えますに、敗戦後、すぐさまの報とは言い難いかと。」
アレイシャンの言葉は湿る。会戦に直面しての変心を懸念して、エスクード配下の騎士幾人かへ因果を含めておいたのは当然の所作である。あのバルテュスのこと、簡に極まった報を届けるのみであろうから、それで判然とせぬ事柄を他の幾つかの報で補う心づもりでもあったものを。全く何の不手際か。
「十日、といったところか。」
会戦地と想定したヴェルヌ西部の赤帝盆地から王都サラガまでの距離に加え、二日日ほどのバルテュスの葛藤をミューズは目算する。自身の不手際さへの叱責に構えていたアレイシャンは、知らず安堵の吐息を一つ漏らした。
―戦況は優勢なるも、予期せぬカルネリアス家の参戦有り。憂慮の事態に備え、セイトまで転進す。
カルネリアス家の参戦を糾弾するバルテュスの報を目にした折の衝撃が、再びアレイシャンの胸中に蘇る。バルテュスが記したように、予期せぬ事態に驚愕したためではない。密事はカルネリアス家の離反を前提として進められたのである。既に当主クレイモルンは宮中で監視下にあり、彼の長子で勇将とうたわれたセレヴレッゼも没して三年が経つ。完全とは言えぬまでも、憂いは断たれていたはずであった。
しかし、現実には彼らの喉元に、鋭利に過ぎる黒鷲の嘴が迫っていたと言う訳である。
「アリュー。クレイモルン殿を至急呼び寄せよ。」
意図せずして早まった口調は自身の迷いを露にしているとも思え、ミューズの心は更に粟立つ。音も立てずに身を翻し、執務室を後にして遠ざかる側近の背中を見つめ、沸き起こる言いようのない不安を口の奥で噛み潰す。アレイシャンの去った後の破られることのない静寂は、禍々しさをまとい、毒蛇めいてミューズに絡みつく。いつしか執務室の中を歩んでいたミューズは、ふと思いついて立ち止まり、暗い灯火を投げかけられてほの白い光を放つ壁を見つめ直した。
厚い壁の向こうは皇城の謁見の間である。権力の中枢を手に入れた今も、決してミューズが座すことのない紫雲の玉座。現在、玉座を占める権利を持つ者は、ヴェルヌ第七代国王ゾンダーク。王都の統治を預かっていた当時に誰ともなくあだ名された怠惰王その人だった。それを退け簒奪することも、或いは今のミューズには容易であるやも知れぬ。けれど、意地が、そのような何かが、ミューズを玉座へ近づけようとはしない。紫雲の玉座が膝を屈するのはヴェルヌにただ一人。確信にも似た思いを抱いている自分に気がつくと、ミューズは忌ま忌ましげに小さく舌を打った。