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EL-エル-  作者: 松田秀人
1/2

EL-エル- 1

 どんな物事にもそれに至る原因、理由がある。

 風が吹けば桶屋が儲かる。昔々の、この国のことわざだ。バタフライ効果。因果の積み重なり。それがいま思い付くだけでも三つある。

 家を出るのが十秒遅ければ中国人の運転する車に轢かれていた。

 家を出るのが一秒早ければ咥えた煙草を掠めて飛んでった流れ弾に当たっていた。

 家を出るのが一分遅ければ開店二日の旅行代理店を月まで吹き飛ばした爆発に巻き込まれていた。

 一体どれほどの偶然が積み重なって生きているのか。与り知らぬところで自分の生死が決まるのは最高に腹立たしいが、とりあえずは落下してきた硝子の破片で腕を切る程度で済んだのは幸運と言える。

 しかし、このまま馬鹿共が張り切る表通りにいるのは命が幾らあっても足りない。切った腕を抱えながら小道に逃げて適当なアパートの玄関部に身を隠すと、銃声はいくらか遠くなった。ショルダーホルスターから拳銃を抜いて、外の様子を窺う。旅行代理店があった雑居ビルは変わらず煙を吹いていて、歩道にはメキシコ人と中国人の死体が並んでいた。サイレンの音が近づいてくるとパトカーと機動隊の装甲車がやってきた。

 逃げるタイミングとしては良い頃合いだ。小道を射的会場とは反対に走り、隣の通りでタクシーを拾った。

「なあ兄ちゃん、あんた中国人か? さっきそこで――」

「日本人だ。この地図の場所へ行ってくれ」

「ほう、こんな糞みたいな場所に珍しい。歓迎ついでだ、前払いでいいよ。安くしといてやるよ」

「このタクシーは芝居小屋か? 俺はここに十年住んでるんだ。その口閉じてさっさと出せ」

「けっ。人が悪いぜ、まったく」

 酷いベトナム訛りの英語はとにかく耳障りでしかない。ようやく走りだした車だが、車内は異様に臭かった。ガラムの臭いがとにかく不快だ。

「せめてチップはちゃんとくれよ。日本人はチップも寄越さないケチ民族だって、おじいちゃんが言ってたぜ」

「心配するな、黙って走ればチップはやる。それと窓を全部開けろ」

 腕の傷は思ったよりも浅かった。シートで血を拭って唾を塗る。絆創膏を貼りつけておけば大丈夫だろう。

 メキシコ人たちのビルを吹き飛ばした中国人の中には知った顔の奴がいた。たしか「楊」という男だ。劉商会のメッセンジャーボーイとして俺に連絡してきたことがある。目の前で脳天を撃ち抜かれて死んでしまったが。まだ十七のガキだったが、鉄砲玉の死に方としちゃ上等な方だ。掴まって拷問の末に死ぬよりはよっぽど優しい結末だろう。

 反対車線を警官隊の装甲車が走り去っていく。応援だろうか。メキシコ人たちは襲撃を退けたかと思えば今度は警官隊と一戦交えることになったわけだ。

 運転手の下品な話を聞きながしながらしばらく、目的地の吹田サービスエリアに到着した。

「着いたぜ、お客さん」

「ああ、こいつはチップ込みだ」

「ドルでの支払いとは分かってるじゃねえか、助かるよ。そんじゃ、スノーデン氏によろしくな」

「見張られていた、ということか――」

「今回の件は子供の授業参観並みに重要だからな。しっかりやる必要があるのさ。とは言え、あのタイミングでのドンパチは手が出せなかった。無事に潜り抜けてくれて助かったよ」

 ひどいベトナム訛りの英語はいつの間にかすっかり消え去っていた。男は別れの挨拶を陽気に言うとすぐに発車した。俺はサービスエリア内の指定された倉庫に向かった。

 倉庫の前には人の良さそうな顔をした外国人労働者の清掃員がいた。

 こいつも「そう」なのだろう。

「ごめんなさい、ここは関係者以外立ち入り出来ませんので」

「奥から三番目のトイレが汚れている」

「わかりました、それでは――」

 合言葉を清掃員に伝え、倉庫の扉を四回ノックすると内側からロックが外された。薄暗い倉庫には黒人の男が一人、その隣には浅黒い肌の女……子供の二人だけのようだ。

「よく来てくれた、E」

「あんたがスノーデンか」

 スノーデンは黒人で筋骨隆々な身体がスーツに収まっていた。脇の膨らみから拳銃を所持しているようだ。大きな両手には火傷や切創の痕が多い。

「デスクワークばかりの人間だと思ったかな。これでも元海兵隊でね、CIAに入ってからも鉄火場を押しつけられることが多い」

「そんなプロがわざわざ俺を使う理由を聞かせてくれないか」

「ああ。一週間前、西成に潜むFARCの連中が密輸を予定していた貨物船を内密に押収した我々が船内でこの子――エルピスを発見して保護したのが始まりだ。貨物船には麻薬や火器が詰め込まれていると踏んでいたのだが、中身はごくありふれた建築資材だけだった。見張りの船員を尋問した結果、この子ひとりを国に送り届けることが奴らの目的と分かった」

 スノーデンの話を少女は、エルピスはまるで自分とは関係なさそうな顔でパイプ椅子に腰かけていた。FARC――コロンビア革命軍の連中がこの大阪に潜んでいるのは有名な話だ。FARCだけじゃない。IRAやイスラム過激派、人民解放軍崩れの愚連隊にメキシコ麻薬カルテル――国家としてとっくに崩壊したこの日本には世界中の厄介な連中が身を寄せ合っている。金、武器、麻薬、人間、最高の国際市場だ。ここ、日本ではなんでも手に入る。

「エルピスに疑問を感じた我々は彼女に様々な検査を受けてもらった。すると、大変驚くべき事実と巡り合った」

 スノーデンはエルピスの手を取ると、手の平を俺に見せた。

「これは――」

 エルピスの手の平には無数の刺が絡み合うトライバルタトゥーのような紋様が存在した。俺は思わず右手のグローブを外して彼女の手の隣に並べて比べ見た。

「そうだ。エルピスは君と同じ……いや、日本人以外では初となるアンチボディだ」

「こいつが、アンチボディだって。しかし――」

 アンチボディ。抗体の意味を持つこの言葉は俺たち日本人にのみ現れた人類の突然変異の通称だ。十七年前、東京湾に隕石が落下した日、全国で同時多発的に日本人の突然死が始まった。一億二千万の人口は僅か一週間で四千万人にまで減少し、生き残った人々には全てこの紋様が身体のどこかに浮かび上がった。原因不明の死の拡大に国のすべてが機能を停止し、世界は人類の滅亡を危惧した。国家としての機能を失った日本の保護と一時統制が必要と掲げた米国とEU連合は中国、ロシアを強く牽制するも前代未聞のケースである。謎の病原体が蔓延している日本に乗り込んで同じように感染拡大してはどうしようもない。安保理決議から各国が日本の復興に向けて公権力から政治まで内政干渉を行うという取り決めとなった。

 そうして沖縄から北海道まで、地方ごとに各国が一時的な領土権を取得している。実質的な支配。自衛隊は解体され、完全な日本領はもはや東京都だけである。

「しかし、こいつは日本人ではない。この紋様に由来して呼ばれるトライバルウイルスは日本人にしか作用しないはずだ」

「そうだ。それは世界中の医療機関が実証済みだ。しかし、彼女にはアンチボディの特性が見られた。しかも君たち日本人よりも、より完全なアンチボディということも」

 アンチボディとなる要因は大きく分けて現在二つと言われている。まず純日本人であること、そしてトライバルウイルスによって死亡しなかった者。外国人や混血、動物にトライバルウイルスを投与しても何ら異常を来すことなく二十分ほどで完全に死滅してしまう。このウイルスはまるで日本人だけを根絶するのが目的のように作用する。作用した場合、数時間から一日で心停止に至り死亡する。死亡しなかった場合は身体のどこかにトライバルの紋様が浮かび上がる。それでも寿命は三十台半ばが平均となってしまう。実際、十七年前に生き残ったのは若年層がほとんどだと聞く。

 トライバルウイルスは今でもこの日本国内に蔓延していて、新生児は日本人である以上、例外なくウイルスによる生死を乗り越えなくてはならない過酷な現実がある。

 アンチボディとなった者には特性が現れる。それは超常現象を呼び起こす超能力だ。念力、テレパス、透視、思考改竄。一人ひとり扱える能力は決まっていていて、現在百六十ものパターンが発見されている。

 現在、日本人のほとんどは東京で保護と監視のもと生活している。援助のもと生活水準はパンデミック以前よりも遥かに豊かで、日本人らしい秩序的な気性も相まって超能力の犯罪利用抑止にもなっている。超能力はESPやPKとも言うが、そんな名称はどうでもいい話だ。俺はもっぱらPKと一括りに呼んでいる。それとパンデミック以前に海外に出国していた日本人は高い死亡リスクから完全なワクチン精製がなされるまで永久帰国禁止となっている。

「より完全なアンチボディという言い方は些か君に失礼かもしれないな」

「構わない、話してくれ」

「彼女はアンチボディにも関わらず寿命は一般的な人間以上なのだ。老化を司るテロメアの慎重修復は現在の科学をもってしても達成できないが、彼女は違う。自然体で有りながら細胞にまったく老いが見られない、つまりは死という生物に課せられた制約からこの世で最も遠い存在だ」

「細胞が劣化することで人は老い、死に至る。この子供が本当に不老とでも」

「事実、現在の調べではそれに近いということになるな」

 あのCIAが与太話と言えるような事をこうして大真面目に語っている姿にはなんとも言えない不気味さを感じる。思えば昔からアメリカってのは大真面目に馬鹿をやってきた国だ。スノーデンが筋金入りの愛国者であるならば彼の熱心な気持ちも分からなくはないが、俺にとってはやはり与太話に過ぎない。

「こいつがスペシャルだということは分かった。しかし、どれも俺には関係の無い話だ。なにが不思議で、そうでないかなんて事は俺にはもう分からない。それで、俺に何をしろと?」

「あ、ああ――FARCから彼女の情報を入手してほしい。すべて合衆国が関与していることを知られずに事を進めたい。君の腕と信用を見込んでのことだ。手段は問わない、事後処理は我々が徹底する。奴らにはメキシコの麻薬カルテル、エル・トランザが貨物横取りに関わっているのが明らかであるという資料をねつ造して流してある。幹部であるリラ・ゴステロがよく知っているだろう、聞き出せ」

「それで十分だ」

「依頼はもうひとつ。エルピスを預かってほしい」

「わからないな、スノーデン。あんたの話を鵜呑みにするならこのガキは合衆国にとって掛け値なしのお宝のはずだが」

「彼女のクローンを作れるだけのものは既に本国に届けてある。彼女が他のアンチボディと共生した場合のデータが欲しいのだ」

 それはつまり、俺自身も今日から死ぬまでの間二十四時間体制で監視され続けるということに他ならない。この子供にどれだけの価値があるのかは知らないが、俺にとって真っ平ごめんな話であることはわかる。

「共生させたいだけなら東京のどこかにホームステイでもさせればいいだろう……わざわざ俺に預けると言う事はこいつの体質とかPK能力に関係があるのか?」

「すまないが、今はまだ詳しい事は答えられん。しかし、引き受けてくれるのならば君の寿命の問題を解決できるように我々も努力しよう」

「そんなものに興味はないな。アンタがスマートに済ませるために気を遣って言っているのはわかる。一応聞いておくが俺に選択の余地は?」

 スノーデンは沈黙した。つまり答えは決まっていたわけだ。

「なら、最初からそう言えばいい。なにもかも仕方のないことだと」

 俺を見つめるエルピスの瞳は澄みきってブルーだった。無言で彼女の手を取って連れていく。バランスを崩して前のめりになったエルピスの踵がパイプ椅子に当たって、カタンと音を立てた。

「E、君は私が今まで出会ってきた人間の中で最も本質として戦士なのかもしれない。進化して順応することが生物だとするならば、君たちは私たちよりもずっと――」

「アンチボディとなった者は大切な何かを失くす」





 スノーデンとの話を終えて倉庫を出るとやはりあのタクシーが俺を、俺たちを待っていた。酷いベトナム訛りの英語に戻っていて、自宅へと言うだけで俺の住むアパートに最短ルートで到着してみせた。すでに首輪はしっかりとはめられているようだ。

 エルピスはずっと無言で、部屋に着いてからも床に座り込んでいた。

 色素の薄い銀に近い髪とブルーの瞳、浅黒い肌。十四くらいだろうか、子供だが娼館に売られればそれなりに良い値が付きそうな玉だ。

 FARCはこの子供は武器として利用する目的だったのか。何かと特別だらけって話だから、アンチボディの繁殖も出来るかもしれない。

――――。

 やはり、何を考えても俺には関係の無い話だった。「こういう奴もいる」、俺の中ではそれだけで全てが収まってしまう。

「腹が減ったら食べるといい」

「……」

 英語で伝わるだろうか。

 冷蔵庫の中に取っておいたサンドイッチとパック牛乳を渡すと、エルピスは何かを考える様な顔をしたが、しかしすぐに食べ始めた。

「これ、美味しくないわ」

 牛乳を飲んだ彼女はそう言った。

それが初めての言葉だった。俺は牛乳を取り上げて自分で飲むことにした。代わりにペットボトルの緑茶を渡す。

「こっちの方が美味しいわ」

「お前、生まれは?」

「生まれ?」

「どこから来たかって意味だ。親は、国は、生まれた場所とかだ」

 ぽろぽろとパン屑をこぼしながらエルピスはまたも何かを考え始めた。

 そして、

「地面がね、流れたのよ。すごい速さで、光の線みたいに過ぎていったわ。そうしたら私はいたの、暗くて暑い森の中に」

「そうか」

 エルピスの腕、足に注射痕がないか探してみた。注射痕は――無い。瞳も――シャブ中の目ではない。

「口を開けてみろ」

あーん、と素直に口を開けてみせた中には咀嚼中のサンドイッチが詰まっていたが、歯も溶けていなくて健康的だ。薬をやっていると思ったがそうではないようだ。

「もういい。お前、名前は? それとFARCの連中とはどういう繋がりだ」

 また何かを考えるような顔で彼女は不思議そうに言った。

「私の名前ってエルピスじゃないの? さっきの大きい黒い人がそう言っていたわ。FARCって人達は私をお船に乗せた人のことでしょ? ぞわぞわする感じがしたからぐるぐるって曲げてみたら、それを見ていた人が優しくしてくれたからお船に乗ってあげたの」

「殺したのか」

「暗い色が気持ち悪かったの」

 PKによる念力殺害と他者の精神の視認。とんでもないイカレたガキだが強い力を持っているようだ。自分の名前も覚えていない様子だが、こいつは記憶を失ったのか?

「あなたも私と同じなんでしょ? 私、同じ人に会うの初めてよ」

「アンチボディとしては同じかもしれないが、それだけだ」

「あなたのも見せてよ」

「だめだ。人に見せるようなもんじゃない」

「そう、それってケチっていうやつでしょ。なら――」

「希望という意味だ」

 エルピスは深く考えはじめたが、しばらくして合点がいったような顔を浮かべた。

「そう、あなたは心が読めるのね」

「さあな」

 俺の興味はすでにエルピスよりもFARCに向いていた。恐らく殺すことになる連中を思い浮かべながらフローリングの床を剥がして装備を取り出し、用意をするのが何よりの証拠だった。コロンビア革命軍。ただのチンピラを相手にするわけではない。映画のようにドアをノックして飛び込んでは命が足りない。今回は事務所ごと爆破してしまうのがいいだろう。

「あなたはあの黒い人が言っていた、私と一緒の力を使えるんでしょう? なんでそんなうるさい物を使おうとするの?」

 うるさい物というのは銃の事だろうか。

「お前のPKがどれほどの物かは知らないが、聞いた様子では強力らしいな。生憎、俺のは銃弾をどうにかできるほど出来ちゃいないんだ」

「へえ、こんな小さい粒なんて寝ていても当たらないのに」

「その小さな粒が当たれば人は死ぬ。お前も、俺も」

「私たち、人間じゃないわ」





 もしもの為にエルピスにも拳銃を二丁持たせておいた。二十二口径の女子供でも使いやすい物だ。もしもの為というのは、アンチボディには稀だが一時的にPKが使えなくなる現象がある。原因は不明だが全国的に確認されていて、そのタイミングはなんの前兆もなく訪れる。俺も以前にそのせいで危うく死にかけることになった経験があるが、普段から主に身体と銃器に頼っていたおかげで運よく助かった。あいつがスペシャルだということは聞いているがアンチボディである以上、この現象はいつか訪れるだろう。それが今日かもしれない。

 家に置いてくることも考えたが、あんなのでも能力者だ。下手な鉄砲玉や兵士よりは役に立つし、身を守らせるにも手が掛らない。それにCIAが欲しがっているのは血生臭いデータも、ということだ。俺やあいつが死んだ場合の保険も当然用意しているのだろう。

時刻は午前一時五十八分になった。

「眠いわ」

「早く終わらせればすぐに帰れる。作戦に変更はない、話した通りだ」

 二時間前からずっとエルピスはあくびをして眠たそうにしていた。どこまでも不安は残るがこいつが死んだ場合に備えて、遠くへ身を隠す準備はしてある。

「行くぞ、着いてこい」

 プリペイド携帯電話をダイヤルして数秒後、二百メートル先の雑居ビルは凄まじい轟音を立てて砂埃を巻きあげた。倒壊には至らないが、建物直下の下水道に仕掛けたプラスティック爆薬は屋内に甚大な被害を与えただろう。ここからでも地響きが伝わってくる。

 先導して一直線に走る俺の後ろをエルピスが着いてくる。

 標的の幹部リラは三階の事務室を居室兼寝室としても利用している。爆破による奇襲で一階と外の警備は十分削られたはずだ。

 砂煙が立つビルの前に辿りつくと崩壊した壁の向こうに底が抜けたエントランスが見える。地面には瓦礫に埋もれたり、ガラスの破片が身体中に突き刺さって呻き声をあげるコロンビア人が多く倒れていた。

 傷の浅く立っていられる者もいたが、武装していても混乱の中にいる相手を始末するのは容易かった。左胸にナイフを突き刺して一階の安全を確保する。

「エルピス、お前はここにいろ。俺は二階へ行く。動けそうな奴がいて、刃物や銃を向けてきそうなら対処しろ」

「対処?」

「殺せばいい」

「わかった」

 二階へ続く階段へ走り、先を確認しながら慎重に上がって行く。まだ見張りがいるのなら被害が届いていない二階へ飛び込むには危険すぎる。出会い頭ということになれば一瞬でも早く、多く弾丸を撃ち込みたい。

「――!」

「――――!」

 敵の声が聞こえてくる。すでに奇襲に対応する用意は出来ているようだ。FARCはイスラムの聖戦士たちとは違い、軍事的な訓練を受け、統率も取れている。この階段は二階までで三階に行くには一直線の通路の先の階段を上がらなくてはならない。こんな場所だ、銃弾に耐えられるだけの遮蔽物があるとも思えない。

三人……。

 手鏡で通路の様子を確認すると三人の軍服を着た男達がアサルトライフルを構えて隊列を組んでこちらの様子を窺っている。

「っ!」

 手鏡を引っ込めるのと同じタイミングで兵士の放った銃弾がコンクリートの床と壁を砕き、弾痕が走った。出ていけば一秒かからずに蜂の巣というわけだ。

 胸に吊るした閃光手榴弾を使うことにする。ピンを抜いて二秒後に起爆するこの手榴弾は人間の視覚と聴覚が耐えられるレベルを大きく超える光量と音量を炸裂させる。光はたとえ瞼を閉じていても一時的な失明に至り、音は鼓膜を突きぬけて脳を揺さぶり聴覚と平衡感覚を麻痺させる。専用の防護装備無しには使い辛いが、この場合では仕方がない。こちらは壁で遮って光を直接見ない分失明には至らないが、聴覚は指に耳を突っ込んだとしても鈍るだろう。

 ピンを抜いて、射線に腕が出ないように壁の向こうに放り投げる。敵兵士の叫び声が聞こえると同時に両指を耳に入れ、しゃがみこんで目元を膝に付ける。すぐに凄まじい爆音が鳴り響いた。キンとした耳鳴りを感じながら、動くのに支障が無い事を確認して通路の様子を窺う。地面には三人の兵士が溺れるように転げまわっている。

 走り込んでそれぞれの胸にナイフを突き立てる。背後と正面を確認し、壁沿いの部屋を確認して三階へ続く階段をゆっくりと踏んでいく。

「全員くたばっちまったのか! おい!」

三階から男の叫び音が聞こえた。駆け上がって様子を窺うと綺麗な白のスーツに身を包んだリラが拳銃を握り締めて顔を強張らせていた。

「リラ!」

 飛び出して銃を持った右腕に向けて発砲する。二発の内、一発は右前腕に命中した。リラは避難梯子で逃げようとしていたところだった。奴の怯えた瞳と視線がぶつかる。今度は足に狙いを定めて、引き金を絞る。

「――!」

 何かがこちらに向かって迫ってくる感覚に腕を引いて、僅かに後ずさる。

 何の感覚だ。足音、風、なによりも刺々しいこの何かが接近してきた気配!

 咄嗟に腕を引くと金属らしい物体が銃にぶつかり音を立てた。見えない何かに振り払われて銃を落としてしまったが、見えなくともあの衝撃と金属音には覚えがある。ナイフだ、腕を引かなければ切られていた。

 大きく後退しながらコンバットナイフを抜いてリラと俺しかいないはずの通路の気配を探る。そして、迫りくる、足音!

 もう一度大きく後退し、空いている左手で腰に備えたスローイングナイフを正面に抜き放つ。投擲したナイフは空中で見えない空気の壁に突き刺さった。そのすぐ向こうには腕を抱えてしゃがみこむリラが見える。

 すう、と空気の壁に突き刺さったナイフを赤い鮮血が伝う。

「日本人……アンチボディか」

 ナイフと血液が目印となって、ようやく正体が掴めた。空気の壁にノイズのような像が走ると、すぐに人型のラインが浮かび、壁はやがて完全に姿を現した。

「女か――」

 空気の壁の正体は日本人、アンチボディの女だった。察するに能力は身体の透明化。だが、それは応用的なもので本質は光自体を操るものだろうか。

「高い金払った甲斐があったぜ! 腰ぬけ中国人共はメキシコ野郎から逃げ出すばかりで鉄砲玉の役にも立たなかったが、日本人ってのは真面目でいいぜ」

「黙って逃げなさい。相手もアンチボディ、まだ力を見せていないだけ私の方が勝算は低いかもしれない」

「あ、ああ、張り切れよ!」

 避難梯子を降ろして逃げていくリラを目の前に、こちらは身動きが取れない。

 この女を始末しなければ――。

「女、お前も俺も日本人でアンチボディだ。奴はどの道死ぬぞ」

「退けって言うの? そしたら私は貴方に殺されるわ」

「なぜ、そう考える」

「私と貴方は同じだから。ただでさえ短い命をこうして泥水の中で散らす事になっても厭わないと考えている……失った何かを取り戻せると信じて戦っている」

「俺はお前とは違う。その気がないのなら、殺す」

 逆手にナイフを持ち変えて間合いを測る。相手の装備は戦闘には不向きなタイプの小型ナイフ、能力を破られたこの状況でもまだ抜かない、恐らく素人。しかし、銃すら持っていないのは能力への自信の表れか――。

「せっかく出会えたのに、見たかったわ。貴方の力も」

 女の右手が光りはじめた。さっきとは違う能力の行使。右手に左手を合わせると眩しく輝く光の帯が引き出されていく。抜刀のように振り放たれた光の線は鞭のようにしなり、咄嗟に伏せた頭上を通り過ぎていく。光が撫でた壁のラインは赤色に溶解して煙を噴き出していた。

「くっ」

 光の帯の軌道は複雑で、スピードこそ鞭よりも遅いが避け続けるのには限界がある。この熱量は当たるどころか掠っただけでも重傷になる。

 逃げるか――いいや、後退するにもそんな余裕はない。

「くそっ!」

 床の拳銃を拾い上げて弾丸の続く限り引き金を引く。しかし、光の帯が網の様に広がり弾丸は全て溶け消え去ってしまう。

「結構良い運動神経しているみたいだけど――」

 女は両手を胸の前に構えて、微笑みを浮かべた。

「私の方が強かったってこと、かしらね」

 両手の空洞に光が集まって行く。想像が着くのは何かとんでもないものが俺を襲うということだ。光はどんどん膨らんでいく。

 どうする、走るか、背を向けて。

 光。

 熱。

 焼ける。

 溶ける

 遮蔽物。

 貫通。

 燃える。

 女と視線が混じり合う。

 死ぬ。

「は、あ――――」

 視界は真っ白な光に包まれた。何も見えない。死んだのか? いや、死にゆく途中だろうか。もはや熱さも感じない。血の気が引いたのか、寒さすら感じる。この死はいつから決まっていたのだろう。トライバルウイルスを発症し、アンチボディと生まれてからか。東京で他の日本人のように平和に暮らしていれば死ぬことはなかっただろうか。

 いつからだ。

 そして俺はいつの間にか夢を見ていた。走馬灯と直感で分かるような。


 どこまでも広がる青い空にはぶ厚い雲が斑のように浮かんでいた。あれが頭上に来たら、この家の屋根をたくさんの雨が打つだろう。それは数分の間の出来事で、雲が通り過ぎればまた晴れ晴れとした陽射しが降り注ぐ。

「ほら、大根入れるの手伝ってくれや」

「爺ちゃん」

 真っ黒に日焼けした腕には深い皺が刻まれていて、手はぼろぼろだけど触り心地の良い暖かい手をしている。その暖かさが僕は好きだった。

「卓郎さんも和美さんも、子供たちを残して逝っちまうなんてなあ。和美は養女だったから、爺ちゃんだけが生き残っちまった」

 二つの白い桐の箱には、それぞれ父さんと母さんが寝ていた。

「爺ちゃんは海の向こうの生まれだから、病気にはならなかったわ。本当にすまねえなあ、本当に……お前たちよお」

 僕は姉の手を強く握り返すだけで、泣きつづける爺ちゃんには何も言えなかった。

「今日からは三人で一緒に生きていこうな、ずっと一緒だ。学校だって、ちゃんと面倒みてやるからなあ、ちゃんと!」

 姉ちゃんが大声で泣き出すと、僕も泣いていた。その夜はずっと泣いていた。

「ねえ。――さ……私、化け物になってしまったよ!」

 トライバルウイルスを発症し、病院のベッドで寝たきりの僕を見降ろして、姉ちゃんはトライバルの紋様を僕に見せながら言った。それでも助かって良かった。僕はそう答えたと思う。

「寿命は三十歳そこらって言うのよ! そんなの、私もう十三よ! せっかく生き残ったのに、こんなことってあんまりだわ!」

「僕も姉ちゃんと一緒になれるかな?」

「馬鹿言ってんじゃないわよ! こんな身体になって、寿命よ? 私、国の人に言われて東京に行かなきゃいけないのよ? もう――と一緒に山にお花を摘みに行くことも出来ないわ! 学校の雪子も佳苗も、――の友達の武くんも一昨日に死んじゃったわ! それでも……私は――に生きて欲しい!」

 朝が来ると、僕の手の平には姉ちゃんと似た紋様が浮かんでいた。外国人のお医者さんが言っていた。この病気で死んじゃう可能性は何十パーセントもあって、学校の算数を思い出したら十人にほんの少ししか生きられないってこと。僕と姉ちゃんが二人で生きられたのはすごい運が良いって。でも、父さんと母さんは死んでしまったよ。

 退院の日、村には大人たちの姿は見えなかった。大人はほとんど助からないって話は本当だったんだ。

 そして僕は、爺ちゃんに会って、おかしな力が勝手に動いて、爺ちゃんを――。


「同志よ。この男の顔を覚えろ。我が祖国の機密を多数持ち出し、CIAに接触を試みようとしている売国奴の顔だ」

 東京に行けなくなった僕は外国人の所へ送られて学校にも入ることになった。同じ日本だけど、僕の送られた所は日本の土地じゃなかった。

 学校を出てロシア連邦保安庁、FSBの特殊工作員になった僕は悪い人間と教えられた人達を、力を使って次々と殺していった。

 初めて飛行機や新幹線に乗ったのは、人を殺しに行くため。

「Eは家族とかっている?」

「姉がひとり。多分、東京に」

「いいなあ、私はみんな死んじゃった」

「俺だってさ、姉さんには多分死んだって伝えられているだろうから」

「いつか会いに行けるといいね」

「無理だよ。FSBの連中からは逃れられない」

「それはどうかしら」

「どういうことさ?」

 俺よりも年上の女の子だった。学校に入った頃から知ってはいたけれど、話すようになったのは任務を共にするようになってから段々と、だ。俺たちアンチボディの殺人マシーンの集団でも彼女だけはひとり逞しくて、いつも明るくて元気だった。コードネームはL。

 彼女の能力は視界内の任意の地点を燃焼させるパイロキネシス。自らの炎に対して本能的に自衛の能力も発達していたようで、念力も扱えた。それで炎を制御したり、銃弾や爆発、衝撃から完璧に身を守る事ができるほどの強力な力を持っていた。

 彼女は間違いなくFSBのアンチボディのなかでは最強だった。任務では何度も命を助けられ、彼女は俺の憧れでもあり、初恋だった。

「あなたの誕生日はいつ?」

「誕生日……三か月後の二十日」

「じゃあ、その日に一緒に行きましょう」

「行くってどこへ――」

「東京へ」

 彼女はどこまでも変わらず、当然のことのようにそう言った。

 それを意味する事。

 そして三か月後の二十日、俺とLは――。





「あなたは死んでいないわ」

 眩い光の世界で、俺はその声に連れ戻されるように夢から覚めた。

「お前――」

「かなしい夢」

 全てを溶解させるだけの熱量を放つこの光の奔流を、エルピスはたった一人で受け止めていた。光にのまれ死を悟ったあの一瞬、エルピスはここにいなかったはずだ。

「テレポートを?」

 やがて光は拡散し消え去る。視界にはエルピスから後ろに放射状に溶解した通路があった。窓側の壁は完全に消え去り、外の景色が見えている。

「馬鹿な、子供? いや、そうか、ここの奴らが探しまわっていた子供じゃないか」

 FARCに雇われたアンチボディの女は理解を越えた状況に驚きを顕わにしている。本人にとっても必勝の手を打ったのだろうが、こうして俺たちが無傷で生きている事もショックを与えているのだろう。それも当然だ、これだけの力を無傷で防ぎきれるアンチボディなど見た事も聞いたこともない。

「黒い人には、たしかEと、そう呼ばれていたわね。E、彼女を撃って」

「お前に言われるまでもない」

 既に銃に弾は装填してある。銃口を女に向け、胴を狙う。

「そんなものは効かない!」

 エルピスの力を盾として利用すれば、発砲しながら後退するのも上手くいきそうだ。空いている左腕でエルピスの肩を抱いて引き寄せる。その行為に抵抗することもなく素直に身体を預けてくれたが、彼女はなぜかその小さな両手を、銃を構えている俺の右手に重ねた。

 その行為にどんな意味があったのかは分からない。しかし、何かがどうにかなるのではないか、そんな予感を感じさせた。

 俺は、引き金を引いた。

 「うっ、あ、え――?」

 あれだけ弾かれたはずの弾丸は、PKの光の壁を撃ち抜いて女の左胸に到達した。血を噴き出しながら膝から崩れ落ちる女。あっさりと心臓を破り、即死だった。

「これは……どうなっている」

「小さな粒が当たれば死ぬ。本当ね」

 眠たそうな顔でエルピスは言った。銃弾にこいつの何らかの力が作用したのは間違いない。昼間の話では人体を捻じ曲げ、銃弾を粒と言って受け止めるほどの能力があることは分かっていた。しかし、この狭い通路へ正確にテレポートしたり、あれだけの熱量の光線を軽々と受け止めて消滅させるなんて。弾丸もだ。

 こいつは一体何者なんだ? 女は光の操作を本質とした応用で俺を襲った。こいつは本質すら予想がつかないどころか、応用とも思えないほどにバラバラで出鱈目に能力を使っている。

 アンチボディの扱える本質は精々一つ、多くて二つだ。念力なら念力、精神干渉なら精神干渉。誰もが女のように、その本質を応用で派生させているに過ぎない。なのに、こいつは?

「東に百メートル、西に二百メートル。水の音……上には車の走る音。橋の下」

「なに?」

「あの男の場所よ」

 今度は透視か。それも正確な物言いだ。

 スノーデンの言う通り、どうやらこいつは……エルピスは本物のスペシャルだ。

「とりあえずは礼を言う。お前に命を助けられた」

 エルピスは昼間のように何かを考え込む顔をして、思いついたように。

「その礼を言うって言い方、好きじゃないわ。この国にはありがとうって言葉があるんでしょう」

 英語ではなく、ありがとう、と日本語で彼女は言った。片言ではなく、自然な発音の日本語だった。

「ああ――ありがとう。命を助けられた」

「ええ、どういたしまして」

 日本語で返す俺に、彼女もまた日本語で話した。


 ビルから出る頃には遠くにサイレンの音が聞こえていた。警察の出動に時間が掛るようにスノーデンはしっかりと手配してくれたようだ。大方、この街の馬鹿どもの情報を操作したのだろう。ここでの出来事は同時多発的に起きた抗争のひとつ、というわけだ。

 俺はエルピスの示す方向へバイクを走らせた。同中、何発かの銃弾が飛んできたが俺たちを狙って放たれたものかはわからない。貧民街のホームレスたちに砂埃を浴びせながらしばらく走ると、薄汚いドブ川に掛る橋の下に月の光を反射して光沢を出すスーツの男を発見した。

「リラ!」

「てめえら……」

 バイクを乗り捨てて、銃を構える。立ち上がったリラの全身は泥で汚れていた。

「化け物風情が調子に乗ってんじゃねえ、調子に乗ってんじゃねえ。ああ、クソ野郎」

「お前には話してもらうことがある」

 俺の背に隠れていたエルピスが隣に並ぶと、リラの表情はやはり驚きを表した。

「なんでてめえがここに……ポっと出のメキシコ野郎が俺らの船を狙うなんておかしな話だと思ってたぜ。薬のやりすぎで頭がおかしくなったと思ってもみたが……てめえらどこの手先だ!」

「この子供について知っていることを話せ」

「うるせえ!」

 発砲音が鳴り響いた。

 弾が続く限り引き金を引いたリラの拳銃は真っ白な硝煙を噴き出している。

「ぐ――」

「くたばりやがれ、化け物! くたばりやがれ!」

 リラの銃弾は俺の胸に三発命中し、もはや立っている事も適わなかった。夜の血の色は真っ黒な絵具のように、どろどろと流れつづけた。

「ぐっ、あ――」

「へっ、ざまあみやがれ日本人」

 もはや動くことすら出来ないEの頭をリラは蹴り続ける。

「このガキは俺たち革命軍の切り札だ。こいつがいれば現政権なんて目じゃねえし、上手く使えば世界一の豊かな国にだってなれる! こいつを利用して数を増やし、アンチボディの兵隊を作れば、俺たち革命軍を止めようと思う馬鹿も消える。お前ら日本人と違って欠陥のないアンチボディだ、研究機関に言い値で迫れる。ケチな麻薬畑を畳んで、真の国家、俺たちが夢見た国家が出来上がる!」

 リラはエルピスの腕を掴んで引き寄せた。色素の薄い銀色の髪に顔を寄せ、囁く。

「俺にとっちゃ隕石を飛び出したトライバルウイルスの解明なんてどうだっていい。こいつを使って同志と夢見た世界を作るのさ、この日本だって全部俺たちコロンビアのものにしてやる。そうすりゃ俺の子供だって、一等高い学校に行かせてやれる! こいつを国に持ち帰って大佐に引き渡せば上手く使ってくれる。俺は掴むのさ、国も生活も!」

 雄叫びのような笑い声をあげて、リラはとっくに弾丸の切れた銃の引き金をEの死体に向かって何度も引いた。

「どうやら、肝心な事はなにも知らないらしいな」

「なに、てめえ、なぜ――」

 足元には死体があるというのに背後から聞こえてくる、殺したはずの男の声。

 振り返るとEはいた。五体満足で傷もなく、すぐそこに立っているではないか。

「な、はっ、あのガキは!?」

 しっかりと掴んでいたはずの左手、エルピスの姿はない。

「なにがどうなっていやがる! 俺に何をしやがった!」

「お前が見たのは幻だ」

「お、おおおお、俺の体から、ちぃ、血がぁ!」

 自分の胸に空いた風穴を見てパニックになるリラ。どれだけ押さえても真っ黒な血は手の隙間から流れつづける。

「うおおおお、てめええええ――がっ」

 乾いた発砲音、リラの額には真っ黒な風穴が空いた。

俺の足元にはリラの持っていた銃が転がっている。リラは最初から銃など撃っていなかった。右手を自分の銃だと思いこみ、地面を蹴り続け、空気を掴んで頬ずりしていた。

「これがEの力なのね」

 最初の発砲で撃ち込んだのは俺だった。

「弾丸には、俺のPKを受信する印が刻まれている。作用すれば様々な脳内物質が溢れ出て、幻覚を見せる。痛みも恐怖も感じない、自分が死にゆくことにさえ気付かないまま、夢を見る」

 エルピスは俺の銃をずっと眺めていた。彼女の青い瞳は何を思い、見抜いているのか、俺にはわからない。

「ひとつ、聞かせてくれないか」

 エルピスは顔を上げて俺を見つめ返し、言葉を待っている。

「なぜ、俺を助ける。俺は殺した奴らとも大差ない、ただの人殺しだ」

「Eが死んだら、あの食べ物とあの飲み物が飲めないわ。それに、外で眠るのはなんだか嫌よ」

 エルピスの表情は作戦前の眠たそうな顔に戻っていた。あくびをして、ぼうっとどこかを見つめている。

「行くぞ」

 俺は橋の袂に停車していたタクシーを拾い、臭い車内と酷いベトナム訛りの英語にうんざりする。エルピスはすでに俺の腕を抱いて寝ていた。

 



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