嵐の前日 その1
その日、能登 源十郎は奇妙な物体を踏んだ。ごきり、と鈍い音がしたにもかかわらずそれはどこか陶酔した声で
「ああーっ! もっと踏みつけにしてぇ!」とか叫んでいた。
いつものクセで源十郎は教室の扉の前でのたうちまわる奇矯なそれを冷静に観察した。長く伸ばすとあちこちに飛び跳ねそうな髪は短く切りそろえられている。全体的に小さめの目鼻立ち、やや小柄で胸のないことを除いても、いささか彼の趣味とは異なるが、まぁ美人の部類に入れてよいだろう。ごきり、という最初の音は彼の靴の位置からして彼女の顎がはずれた音ではないかと思われるのだが、その人物はというと平気で叫んでいる。彼としては彼女の顔から自分の足を手早くどけたいのだが、彼女の細い腕のわりには以外にも頑強な力で自分の足首をつかまれているので、それもままならない。どうするか、とつい視線を上にあげる。と、横合いからの強い力で突き飛ばされた。
「きっさまぁーっ! 神無さんだけではあきたらずこのようないたいけな少女までその毒牙にかけおったかぁ、この人間のクズめっ! 貴様など生きている資格もないっ、今すぐにお前に引導を渡してくれるわっ!」
助かった。と思ったのもつかの間、そうわめきたてられてげんなりとする。のだがそれがあまり自分の表情にでないことを彼、能登 源十郎は知っている。|神無(通訳)がいれば、とも思うのだが、そもそも彼女が誤解の原因なのだから、彼女の説得は意味をなさないばかりか この場合火に油を注ぐ結果となりかねない。彼は目の前の男、格闘系のスポーツをやる者達に特有の雰囲気を熱烈に発散するその男をよく知っていた。柔道部部長、加納 虎次郎である。と いうよりは“神無ちゃんをあの悪魔の毒牙から救おう同好会”の会長と言った方がこの場合 源十郎とこの男との関係がわかりやすいだろう。
「きぇいやっ!」気合い一閃、目を爛々と輝かせ自分の正義に燃えさかる彼は自分より長身の源十郎の肩口をつかむと得意の背負い投げを放とうとして、くずおれた。その原因、彼の頭部を重そうなスポーツバッグで殴り倒した女を見て、加納 虎次郎は困惑の表情のままくずおれていった。




