03.閲歴
エーリッヒ・フォン・ベルンハイムの生家に当たるベルンハイム家は統一歴700年代の当時においてもそれなりの歴史を持った旧家であった。西方大陸の東部一帯に黒森と呼ばれる森林地帯に覆われたヴルデンと呼ばれる地域があり、この地にはかつてヴルデン公国と呼ばれる公王によって統治される国があって、ベルンハイム家は公国において伯爵位をいただいた大貴族であった。しかし、バルティア帝国の3代皇帝の時代、帝国が大陸統一事業に邁進する中にあって、周辺の諸国が次々に併呑されついにヴルデン公国にも帝国は牙をむいた。
この時、当時国境近くに領地を持っていたベルンハイム家は真っ先に侵攻の対象になった。彼我の兵力差は圧倒的であった。領地軍を持つことを許された伯爵家とはいえ帝国の清栄の軍団に勝ちうるには数も質も圧倒的に不足していた。そして、公王からの援軍も初動の対応に遅れたせいで期待できない状況にあった。そのような状況下にあって当時のベルンハイム家当主は一つの賭けに出た。帝国軍の侵攻に際して領地軍を降伏させ、軍事用の物資を援助する引き換えに領地と爵位の安泰を持ちかけたのだ。交渉に当たった軍司令官はこれを承諾し、この対応を見たヴルデンの他の諸侯も次々と降伏し、公国は当時の帝国軍参謀本部が予想したよりもはるかに早く滅亡した。
しかし帝国は約束を完全には履行しなかった。ベルンハイム家の先祖伝来の領地は過半が没収され、領地軍も解体させられ、爵位も男爵にまで落とされた。これは同様に降伏した他の貴族たちも同じであった。だが、だからといって反旗を翻す力はヴルデンの諸侯にはなく、この処置をほとんどが受容した。
ヴルデン地方の貴族たちが帝国の貴族に名を連ねるまでにはこのような経緯をたどったこともあり、およそ中央の大貴族たちからは彼らは常に物笑いの種であって政治的にも冷遇され軍や政府の高官になることができたのは数えるほどしかいなかった。ヴルデンに限らず属領の領主は中央の貴族には免除された王家への租税の義務があったから経済的に窮乏した家系も多く、その中で過酷な徴税を行って領民に反乱を起こされそれを理由に爵位を没収された者や、官職を得るためにと中央の貴族に妹や娘を人質同前の婚姻を迫られる者は後を絶たなかった。
その後、300年以上の歴史の中でかつてのヴルデン貴族の過半が没落する中でベルンハイム家はどうにか中央からの冷笑に耐えながらも家系を維持していた。だが、エーリッヒの祖父にあたるベルンハイム家の先代当主はいわゆるところの放蕩家であって、先々代の当主がわずかばかりに蓄えた財産を食いつぶし、娘を嫁にやった家からも借金をするなどしてすでに屋根の傾きかけていた家を倒壊させかけた。これを見かねてベルンハイムの父に当たるジークムント・フォン・ベルンハイムは父を強引に隠居させて家名を継ぎ、見るに堪えぬ惨状になっていたベルンハイム家をなんとか倒壊から食い止めたが、しかし父の残した莫大な借金を完全に返しきることはできなかった。窮乏の内に会ってジークムントは少しずつしかし確実に精神を摩耗させていった。
エーリッヒが生まれたのは統一歴687年の事である。後に歴史を動かすことになる男はジークムントの次男としてこの世に生を受けたが、しかし、父親からの誕生の祝福を受けなかった。
それは誕生と共に父の溺愛する母イレーネが息絶えたためであった。いまだ窮乏するベルンハイム家にあって次男のエーリッヒはもとより家名を継ぐどころか騎士号をいただいて分家する事すら望めぬこともあって碌に養育されることもなく放っておかれた。
この有様を見かねてベルンハイム家の使用人であったヒルパート夫妻はこの赤子を引き取り、エーリッヒの数日前に生まれた娘と共に養育に当たった。その娘、アンネ・ヒルパートを遊び相手としてエーリッヒはすくすくと成長し、その中で継げる見込みもないベルンハイム家を捨てて帝都で立身出世を図ることを決意した。
しかし、ベルンハイム家に息子を帝都に送るだけの金などあるはずもなく、ヒルパート夫妻もその日を暮していくのがやっとという生活であったから頼ることもできなかった。その中に会ってヴルデン地方を拠点とした商会を経営するマルクス・バスラ―は少年エーリッヒに対して取引を持ち掛けた。娘のヘルミーネを娶らせた上で、自分に準貴族である騎士号を授与することを条件に学費を援助するという内容であった。彼は一代で財を成したが平民の生まれに大きなコンプレックスを持っていたのだ。騎士号はともかく婚姻を条件にされることは彼を大きく悩ませた。当時アンネとは既に恋仲も同然であったからだ。これに対してアンネは彼を案じてあえて身を引くことをエーリッヒに申し出たが彼もなかなか承諾しなかった。だが、最終的に合意しマルクス氏に対して承諾の意を伝えた。
マルクス氏の援助で12歳の時、ヴルデンの幼年学校に入学したエーリッヒはアンネとの別れを振り切ることができず、鍛練と勉学にいそしむことでそれを紛らわせる毎日を過ごした。教官たちは彼を評価し、彼もまた数ある学生の中でより大きな頭角を現し、主席で幼年学校を卒業した上に士官学校への推薦状を受け取った。
帝都近郊のキンダーホーフェンに所在する士官学校への入学試験を悠々と合格したエーリッヒは一時的に帰郷しマルクス氏の娘との婚姻の儀を済ませた後に再び士官学校へと向かった。この時に友人と敵を得て次席で卒業し、少尉として任官した彼は連合との戦争の最前線であるローゲン台地北端の要塞線の一部を形成するマクレーン要塞に送られ、そこで勃発した会戦で莫大な戦功をあげて大尉に二階級特進し、パルム地方の総督府付武官として転属し、ここで勃発した貴族叛乱においても功を挙げ、士官学校卒業後わずか半年で少佐という属領の貴族の子弟としては異例の経歴を持って帝都に赴任したのであった。