猫課長の憂鬱
猫課長と呼ばれている猫がいる。
市街地のオフィスビル群を縄張りとして主張する一匹の虎猫である。恐らくは野良猫の類であろう。
しかしながら、やや太り気味ながらもしなやかな肢体を覆う縞模様の体毛には、野良猫にあるはずの塵や埃などによる汚れは少しもなく、清潔に保たれているように見えた。誰かに飼われている風もない。
猫課長の七不思議のひとつだ、とだれもが囁く。
ほかに六つも不思議があるのか? と聞かれればだれもが首を横に振るだろう。無いに決まっている。
黄金の瞳を湛えた大きな眼に、ぴくぴく動く愛らしい耳を持ち、長い髭は美しいとさえいえた。しかしその不遜な面構えは、猫の持つ愛嬌のすべてを帳消しにしてしまうように見えた。まるでこの世のすべてを見下ろしているような、そんな趣がある。
だが、そのように傲岸な態度を取っていても、「可愛い」と声を上げるのだから人間とは困ったものだ。猫だからどんな態度を取っていても可愛いとでもいうのだろうか。内心では何を考えているのかわかったものでもないというのに。人間なんぞ取るに足らぬ存在などと思っていたとしても、なんらおかしくはないのだが。
猫は可愛いものという固定観念がそうさせるのだ――ビルとビルの隙間に佇み、穏やかに目を細めた彼は、そのように結論づけていた。尾にくくりつけられた赤いリボンのことなど、無論、考慮してはいない。
正午。
威圧感に満ちた高層ビルの群れは、人間という種族の傲慢さが産み出したというわけでもない。必ずしもそういった側面がないとは言い切れないが、少なくともこの国では、狭い国土を有効的に使おうという意思が働いているのではないか。それに、数多くの人間を同じ場所で働かせるには建物を横に広げるよりも、縦に広げる方が色々と都合がいいのかもしれない。それは、この国に限った話ではないだろうが。
だからどうした、という話ではある。
ビルとビルの合間を通り抜ける風は涼やかで、その上、常に影があった。熱気を帯び始めた初夏の日差しをやり過ごすには、これほど快適な場所もあるまい。
いや、あるにはあるのだが、猫の本能なのかなんなのか、彼はこうして時折吹き抜けていく風に髭を揺らされているのが、たまらなく好きだった。風情があるというべきかもしれない。人間にはわからない趣なのだろうが。
「猫課長さん、今日もお疲れ様です」
唐突に声をかけられて、彼は心地よさのあまり細めていた目を開いた。顔を上げると、女が三人、こちらを覗きこんできていた。三人ともスーツを身に付けているところを見ると、ここら辺りの会社で働いているのだろう。
初めて見る顔だった。彼は記憶力の良いほうだ。大抵の場合、一度見たら忘れないくらいには記憶力には自信があった。猫にとって人間の顔などどれもこれも同じように見えるのが普通なのだが、長年、人間社会を闊歩していると、判別できるようになるものなのだ。
三人が三人、なにやら目を輝かせているのは、彼の反応を期待しているからに違いなかった。
やれやれ。
猫課長と呼ばれた彼は仕方なしに一声鳴くと、鷹揚に頷いて見せた。歓声があがる。どこかで聞いた話をそのまま試したのだろうが、それに乗ってやる彼も彼だ。内面ももちろんのこと、外面の良さも気にするのが男というものだろう。
そのあと、三人が口々に言ってきた言葉を一々聞いてあげる彼は、存外に優しい。
三人の女性会社員が立ち去ると、彼は、大きく溜め息をついた。どうしてこんなことになったのか。頭を抱えたくなるものの、猫の手では難しい。ならば一声鳴くべきか。いや、その理屈はおかしい。頭を抱えたくなるようなことを、鳴くことでどう処理することができるというのか。
などと考えていた時だった。
「おや、猫課長。溜め息なんてついて。どうされました? なにか悩み事ですか?」
不意に飛び込んできた声は非常に軽く、極めて聞きやすくはあったのだが。
彼は、声の主を見遣ると、静かに睨み付けた。その鋭い視線は、暗に「おまえのせいだ」と言っている。
猫課長の視線の先には、真っ青なスーツを着込んだ男が立っていた。昼食でも買ってきたのか、コンビニの袋を手に下げている。年の頃は三十代半ばだろうか。長身痩躯、痩せすぎたモデル体型というべきか。
「いいじゃないですか、人気者になれたんですから」
猫課長の意を汲んだのか、男が、おどけたように言った。しかしながら、彼の目は笑ってもいない。褐色の虹彩は、いつだって感情を見せない。
猫課長はぷいっと顔を背けると、男のことなどはや忘れたように鼻をひくつかせた。なにか香ばしい匂いが漂ってきている。彼の好物の匂いだ。
「猫課長、怒らないでくださいよ。ぼくはですね、課長に人々と触れあってもらうことで――」
男――御谷住人の話を聞き流すのは、彼のせいで猫課長などという呼称が広まってしまったからにほかならない。御谷が悪い人間ではないことは百も承知だが、だからといってこの仕打ちはないだろう。
確かに御谷は嘘をついてはいないが、真実だからといって、言って良いことと悪いことがあるのだ。それくらいわかって欲しいというのは、我儘ではあるまい。人間社会で生きていく上では当たり前に必要とされる常識であり、ありふれた考え方なのだ。
もっとも、善悪の彼岸に魂を置く男にそんな常識的な考え方を求めたところで、徒労に終わるのはわかりきっている。
だからこそ、彼は、どこからともなく漂うに匂いに浸ることで、御谷の存在を忘れようとした。
「そんな顔をしないで、ひとつ、これでも如何です?」
などといいながら、御谷がコンビニのポリ袋から取り出してきたのは、猫課長の好物であるカツ丼だった。彼がご機嫌取りに買ってきたのだろう。なんという男だ。これでは餌付けに等しいではないか。
彼は、芳しい匂いだけでそれの存在を認識していたから、なんとか顔色を変えずに済んでいた。生唾を飲み込みながら、丼を模した容器から漏れる匂いに抗う。ここで屈してはいけない。ここで動物的な本能に従えば、これまで築き上げてきた地位も名誉も尊厳さえも、一瞬にして崩れ去る。
餌付けに屈するなど、彼の誇りが許さない。
再び顔を背けた彼だったが、その小さな鼻は、十分に温められた容器から流れ出るカツ丼の匂いを逃がさまいと必死に動いていた。
勝負は、とっくに決していたのである。
御谷住人は、人の悪い微笑を湛えながら、猫課長が苦悶の表情を浮かべ、次第にカツ丼の魅力に敗北していく様を見ていた。御谷には理解できない魅力ではあったが、
カツ丼は、御谷の死神としての先輩にして直属の上司であり、殺人課の長――つまり課長である彼の数少ない弱点だったのだ。滅多に隙を見せない彼がここまで隙だらけになるのも、カツ丼が大好物であるがゆえだ。
なんにせよ、猫課長とは彼の種族と役職を合わせただけであり、なんのひねりもなければ面白味も見出だせない、雑な呼称だった。彼が嫌がるのも無理はない。しかし、数多の名を持つ彼を呼び現すには、それが一番だと御谷は考えたのだろう。そしてそれはあながち間違いではない。
膨大な時を生きてきた彼の呼び名は優に数百を超え、そのどれもが、もはや彼を定義するには物足りなくなっていた。
もっとも、書類上では出雲というのが彼の名である。職場ではそのように呼ばれるべきなのだが、だれも彼のことを出雲の名で呼んでくれないから困りものだ。
それを踏まえれば、猫課長も悪くはないかもしれない。
彼は、丼を前足と口を使って器用に開けながら、そんなことを想わないでもなかった。
地位も名誉も尊厳も、さあどうぞ食べてくださいと言わんがばかりに置かれた大好物を前にすれば、三分も持たずに瓦解するものだ。
彼はひとり納得すると、まばゆいばかりの光彩を放つカツ丼へと狙いを定めたのだった。