第1話 プリンセス様、出前をおとりになる
その屋敷のことは、以前から知っていた。
俺は毎週読んでいるマンガ雑誌を家の近くのコンビニで購入している。だがたまに売り切れていることがあるため、そのときは少し離れた本屋に行く。自転車で約十分。その道の途中に、例の屋敷があるからだ。
見るからに豪邸といった感じのそれは、塀の長さが何百メートルもあり、入り口の門は俺が通っている高校の校門よりずっとデカい。きっとこの辺りでも――ひょっとしたら全国でも有数の金持ちが住んでいるんじゃないかと思わせるくらいの、大きな邸宅だ。さえない中華料理屋の手伝いを毎日やらされている、さえない高校生の俺なんかには一生縁の無いところだ。そう思っていた。
だがある日、学校から帰ってくるとすぐにオヤジから「このラーメン、出前頼むわ」といつものように渡されて行ってみると、そのラーメンの届け先がこの屋敷だったのだ。
まさかこんな形で屋敷に入れるなんて思っていなかった俺は、門の前に着くと自転車を降りて、しばらくのあいだぼうぜんと長い塀をながめた。曲線と直線の模様が刻まれた、西洋風の真っ白な壁。鉄製の門の向こうにはきれいに整えられた芝生の中に、白い小石詰めの道が走る風景。その奥には、落ち着いたクリーム色の外壁の館。
(……すげえ)
何度見ても大きな家だ。大きな家としか云えない。思わずため息が出る。
(俺もこんな家に生まれてりゃ、好きなゲームがやりたい放題だったろうな……)
家ではマンガを読むかテレビゲームをするかしかない帰宅部の俺には、そんな発想しか浮かばない。まあ、こんな家に生まれた日には、一流大学に入るために毎日勉強づけにされるのかもしれないが。
でも一体、どんな人が住んでいるのか。というかそもそも、なんでこんな立派な家の住人がうちのラーメンなんか出前をとったんだ? 疑問に思いながらも、とりあえずラーメンの入ったおかもちを手に門の横まで行ってみる。
表札は無い。近くにインターホンがあったので、押してみる。
(すげえ怖いオッサンが出てきたらどうすっかな……いや、これだけ大きな屋敷なら、執事が出てくるのか?)
いろいろ考えながら、返事を待つ。
少しして、インターホンから声が聞こえてきた。
「……はい、どちら様でしょう」
意外にも女性の声だ。もしかして、メイド?
俺はモノホンのメイドに会えることに興奮を抑えきれずもとい失礼の無いように丁寧な言葉づかいで答えた。
「『来陽亭』です。ご注文のラーメンをお持ちしました」
「あら、ありがとう。すぐそちらまで行きますわ」
そう云ってインターホンが切られる。意外に普通の対応だ。ちょっとほっとした。
すぐに、とはいっても屋敷自体が大きく、建物の入り口からこの門までもそうとう離れているから、少し時間はかかるだろう。そうタカをくくって、俺は今から現れるメイドがかわいくて清楚な娘でありますようにと祈りながらもといこの間にラーメンが冷めないかと心配しながら、直立不動のままで待った。興奮してるな、俺。
――と、そのとき。
とつぜん俺の頭の上で、ブンッ! という鈍い音がした。
その直後。
どんがらがっしゃん!
と、なにかが数メートル先に大きな音をたてて落ちる光景が目に映った。
「な、なんだ!?」
一瞬たじろぐ俺。
見るとそこには――
中世の貴族が着るようなすその長い白黒のドレスに身を包んだ細身の女性が、うつぶせになってばったりと倒れていた。
「???」
突然のことであっけにとられて声が出ない。そんな俺の前で、彼女はむっくりと顔を上げると、わりと高いところから落ちたはずなのに平然とした様子でぱっと起き上がった。そして服のすそをパンパンと払いながら、ひとりごとのように云う。
「(ピピッ?)……やはりテレポートでお出迎えするのはまだ難しいようね。着地もままならないなんて……あら、あなたがラーメンを持ってきてくださった方?」
「は、はあ……」
いったいどうやって屋敷から出てきたんだ……。
ってか、この女だれだ?
着ている服は(期待していた)メイド服じゃない。歴史の教科書に載っているような、どこかの西欧貴族のドレス風の服だ。美術館にでも行って「ああ、この時代はそんな服着てたんだ。すごいなあ」と適当に感心して終わるような時代錯誤な格好。映画の撮影ですか? と云いたくなるような衣装を、目の前の女は普通に着ている。
顔つきを見ると、歳は俺と同じくらいに見える。十六、七くらい。もしかして、ここの主の娘とか? にしても、普段からこんな服を着てるって、なんてコスプレの激しさだ。
なんとなく嫌な予感がして顔が引きつっている俺にかまわず、彼女は上品な言葉づかいで話しかけてきた。
「わざわざここまでおいで下さって、感謝いたしますわ。お願いしていた『ちゃあしゅうめん』はそちらの中? 少し見せていただけるかしら?」
「はあ……」
わざわざ見せるほどのものでもないんだが。
といって断る理由も無いので、俺はおかもちからラーメンを取り出す。どこの中華料理屋にもある、いたって普通のラーメンだ。
だが彼女はどこか興奮した様子でそれをみつめる。
「まあ、これが『ちゃあしゅうめん』? 手にとってもよいかしら?」
はあ、まあ、どうぞ、熱いので気をつけて下さいと俺が云うと、彼女は両手で器を持ち上げた。そしてラーメンの表面をこれでもかというほど凝視する。
(実はラーメンを見るのは生まれて初めてとか? ……まさかな)
そんな俺の耳に、なにやら電子音や機械音のようなものが聞こえてくる。
「ゴゴ……ピピ……ガ……ピピピ……」
(……なんの音だ?)
「……成分……豚の肉……小麦粉……ネギ……水……醤油……豚の脂……魚介類原料不明……」
「……?」
すると彼女は、器にかぶせてあったラップをおもむろにはぎとると、いきなり指をラーメンの中に突っ込んだ。
「あっ、熱いですよ!」
思わずさけんだ俺にかまわず、彼女はなにやらつぶやいている。
「…………水面温度39℃……水中温度58℃…………放出成分……」
(熱くないのか……?)
そうしてしばらく指をスープの中につけたままひとりごとを続けている彼女が、ふと視線をラーメンからはずして云った。
「あら、おかしいわ」
「えっ?」
「お茶の成分が検出されないわ。色が赤いからてっきり紅茶だと思ったのだけど……こちらの食べ物、何茶をお使い?」
「いや、お茶なんて入ってないですけど……」
「うそ。これ、茶臭麺じゃありませんの?」
「茶臭……」
茶臭……ちゃしゅう……ちゃーしゅう……チャーシュー……あ、なるほど。
「って、どんなラーメンだよそれ!」
「ダージリンの香ばしい香りのする、欧風ラーメンだとお母様から聞きました」
「あるわけないだろそんなラーメン!!」
思わずタメ口でつっこんじまった。
「チャーシューっていうのは、ここにのってる豚肉のことで……」
「まあ、レモンスライスやミルクを入れるんじゃありませんの?」
「入れるか!」
俺が云うと、彼女はがく然とした顔になって、力なく器をおかもちの上に置いた。
「なんてこと……わたくしの研究不足でしたわ……」
研究不足も何も、常識で分かると思うんだが……。
俺の嫌な予感が、最大限にふくらもうとしていた。
格好を見たときに感じたが、やっぱりそうだ。こいつ、なにかが絶対大きくズレてる。
金持ちのお嬢様だからなのか、なんなのか。まさかチャーシューメンを知らないとは。俺の方こそがく然としたい。
だが客の前でそうするわけにもいかず、俺は元のですます調に戻って云った。
「ええと……で、このラーメンどうしますか」
「せっかくだから、頂きますわ」そう云うと彼女はなぜかけろっと元の表情に戻り、またラーメンの器をもちあげた。
……なんでもいいや。とりあえず代金をもらってもう帰ろう。
「そうですか。ではお代を――」と俺が云い終わらないうちに、彼女が云った。
「ここまで来て頂いたお礼をしなくてはいけないわ。なにもない家ですが、どうぞおあがりになって」
おあがりに……
ってこの屋敷に?
「いや、出前に来ただけなんで、そこまでしてもらわなくても……」
首を振って断る俺。正直、家が豪華すぎて、俺みたいな人間が入っていいのかとビビッてしまう。それに早く帰らないと、いつものように「どこで油売ってたんだ!」ってオヤジが怒るだろうし。
だけどもしかしたら、俺のくだらない一生のうちでこんな立派な屋敷に招かれるという機会はもう無いかもしれない――というか絶対無い。100%無い。
こんな家の住人に会っていること自体がすでに一生分の奇跡、喜ぶべきことだ(たとえその住人がどれだけズレていたとしても)。やっぱりここは――いや、でもやっぱり――。
そんな俺の心境など知る由もなく、彼女はお礼に誘ってくる。
「どうぞおあがりになって」
「いや、でもほんとに……」
「どうぞおあがりになって」
「でも……」
「どうぞおあがりになって」
「うーん……」
「どうぞおあがりになって」
「いや、やっぱり……」
「どうぞおあがりになって」
「ええと……」
「どうぞおあがりになって」
「…………」
「どうぞおあがりになって」
「…………」
「どうぞおあがりになって」
「……じゃあちょっとだけ」
「どうぞおあがりになって」
「はい……」
「どうぞおあがりになって」
「…………」
「どうぞおあがりになって」
「…………」
「どうぞおあがりになって」
「…………」
「どうぞおあがりになって」
「分かってますって!」
「どうぞおあがりに……こちらへどうぞ」
なんてしつこさだ……。