白い結婚のはずでした。――黒い結婚を知るまでは
セヴリーヌが夫婦の寝室を訪れたのは、結婚してから初めてのことだった。
正確には、訪れるつもりなどなかった。
朝の支度を整えていたところへ、実家から連れてきた専属侍女のネラが、青ざめた顔で駆け込んできたのだ。
ネラは幼い頃からセヴリーヌに仕え、婚礼に伴ってこの伯爵家へ移ってきた唯一の使用人だった。この屋敷へ来て、まだ10日しか経っていない。
「奥様。夫婦の寝室から、血が流れています」
「血?」
「扉の下から、廊下へ」
ネラは胸元を押さえ、乱れた息を整えた。
朝の湯を取りに、セヴリーヌの居室から使用人階段へ向かう途中だったという。夫婦の寝室は、その廊下の中央にある。
「誰かが入ったのですか」
「分かりません。扉は開きません。中から鍵が掛かっているようです」
この屋敷で育った者なら、まず家令へ報告したのかもしれない。
だが、ネラが仕えているのは伯爵家ではない。昔から、セヴリーヌただ1人だった。
セヴリーヌは椅子から立ち上がった。
夫婦の寝室は、誰も使っていない。
セヴリーヌとロドルフの結婚は、初夜を迎えることなく始まった。
10日前。
婚礼を終えた夜、ロドルフはセヴリーヌを夫婦の寝室の前まで送り、扉を開けることなく告げた。
「あなたを伯爵夫人として遇する。生活に不自由もさせない。ただし、私はあなたを妻として求めない」
愛情のない政略結婚など、珍しくはない。
セヴリーヌとロドルフの婚約も、両家の利害によって1年前に決められたものだった。それでも、最初から夫婦になる意思がないと告げられるとは思っていなかった。
「理由を伺っても?」
「私の問題だ」
「わたくしには関係がないと?」
ロドルフは答えなかった。
セヴリーヌはしばらく夫を見つめたあと、頷いた。
「承知しました」
それ以上は聞かなかった。
以来、セヴリーヌは東側の部屋を、ロドルフは西側の部屋を使っている。
屋敷の中央に用意された夫婦の寝室は、婚礼の日のまま閉ざされていた。
セヴリーヌたちが夫婦の寝室へ着く頃には、家令のバルテルが扉の前に立っていた。
ネラが血を見つけた直後には、まだいなかったという。
ネラの声を聞きつけた使用人たちも、廊下の奥から様子を窺っている。
白い扉の下から、細い赤が敷物へ伸びていた。
「奥様。お部屋へお戻りください」
バルテルは、セヴリーヌが尋ねるより先に言った。
「なぜです」
「鼠か、運び込まれた肉の血でしょう。こちらで処理いたします」
「誰も使っていない夫婦の寝室へ、誰が肉を運び込んだのですか」
「それも含めて調べますので」
「でしたら、扉を開けてください」
「内側から鍵が掛かっております」
「予備の鍵は?」
「見当たりません」
答えが早すぎた。
ネラが小さく言う。
「先ほど、腰の鍵束を確かめておられました」
バルテルがネラを見る。
老家令の顔から、一瞬だけ穏やかさが消えた。
セヴリーヌは、その視線を見逃さなかった。
「鍵がないのではなく、開けたくないのですね」
「危険があるかもしれません」
「中で誰かが血を流しています。その方を放置する方が危険でしょう」
バルテルは動かなかった。
セヴリーヌは廊下に立つ使用人たちへ目を向けた。
「斧を持ってきなさい」
「奥様」
「扉を破ります」
誰も動こうとしない。
事情を知っているからではない。
誰の命令に従うべきか、決められないのだ。
ネラが踵を返した。
「わたしが取ってまいります」
その一言で、ようやく若い使用人の1人がネラを追った。
すでに騒ぎは、バルテル1人では隠せなくなっていた。
扉は斧で破られた。
錠前が外れ、白い扉が内側へ傾く。
開いた隙間から、生温かい鉄の匂いが流れてきた。
セヴリーヌは室内へ足を踏み入れた。
白い部屋だった。
壁紙も、天蓋も、敷物も白い。婚礼のために用意されたまま、誰にも使われなかった部屋。
その中央に置かれた大きな寝台だけが、赤く汚れていた。
白いシーツの上に、手のひらをいくつも重ねたほどの血痕がある。
遺体はない。
血を流した人間もいない。
セヴリーヌは寝台へ近づいた。
「これは、わたくしの血ではありません」
後ろで誰かが息を呑んだ。
セヴリーヌは長い黒髪を肩の後ろへ払い、シーツに落ちていた1本の髪を指でつまんだ。
白に近い銀色。
彼女のものではない。
ロドルフの髪は、暗い栗色だ。
この地方には、銀白色の髪を持つ者は治癒の祝福を受けているという古い伝承がある。もっとも、今では子どもへ聞かせる昔話として扱われていた。
「この屋敷に、これほど白い髪の女性はいますか」
使用人たちは互いの顔を見た。
若い者たちは、本当に知らない顔をしている。
だが古参の数人は、目を伏せた。
やがてバルテルが口を開く。
「おりません」
「本当に?」
「はい」
返答は、わずかに遅れた。
セヴリーヌは銀髪を白い布の上へ置いた。
寝台の金具には、黒い布が引っかかっている。
喪服のように艶のない、古びた黒。
指先ほどの切れ端だった。
縁には、銀糸で絡み合う蔓草が縫われている。
婚礼衣装に使われる、夫婦の結びつきを表す意匠だ。
ただし、花嫁が着るものは普通、白い。
「窓は?」
ネラが確かめる。
「すべて閉じています。留め金も内側から」
窓の外は、切り立った崖だった。地上までは3階分ある。
外壁には、足を掛けられるような出っ張りもない。
セヴリーヌは床へ目を向けた。
血は、ただ寝台へ続いているのではなかった。
壁際に、最も濃い血だまりがある。
そこから数滴が扉へ向かっている。
扉の内鍵には、赤い指跡。
鍵の下から落ちた血が床へ溜まり、その一部が扉の隙間から廊下へ流れ出していた。
そして扉から寝台へ、薄い足跡が戻っている。
「ネラ。清潔な布を」
布を受け取り、セヴリーヌは壁際の血へ触れた。
寝台の血より濃い。
ここで最初に、多くの血が落ちている。
「この方は、壁から現れたあと、まず扉へ向かったのです」
「壁から?」
ネラが白い壁を見る。
扉も窓もない。
セヴリーヌは内鍵を示した。
「血のついた指で、内側から鍵を掛けた。廊下から近づく足音を、追手だと思ったのでしょう」
それから床の足跡を追う。
「鍵を掛けたあと、寝台へ戻った。壁から離れるほど、血は薄くなっています」
セヴリーヌは白い壁へ手を触れた。
「寝台で傷つけられたのではないわ」
冷たい壁の向こうに、空洞があるような気がした。
「傷を負った者が、こちらから入ってきたのです」
壁には何もない。
それでも血は、確かに壁際から始まっている。
「ロドルフ様はどちらに?」
「書斎にいらっしゃいます」
「お呼びしてください」
バルテルは動かなかった。
セヴリーヌが見ると、老家令はようやく頭を下げた。
「かしこまりました」
ロドルフは寝室へ入るなり、足を止めた。
血痕を見たからではない。
セヴリーヌの手の上にある銀髪を見た瞬間だった。
その顔から、血の気が引いた。
「ご存じなのですね」
セヴリーヌが言うと、ロドルフは彼女ではなく、バルテルを見た。
「誰が入った」
「分かりません」
「西棟は」
「昨夜も施錠を確認しております」
西棟。
セヴリーヌは初めて聞く言葉だった。
「この屋敷には、わたくしが入れない場所があるのですか」
「古くなり、使われていない一角があるだけだ」
「そこに白い髪の女性がいるのですか」
「いない」
答えは早かった。
早すぎた。
「では、なぜ銀髪を見ただけで、そのようなお顔をなさったのです」
「似た髪の者を知っていた」
「どなたですか」
ロドルフは黙った。
セヴリーヌは黒い布を持ち上げる。
「こちらにも覚えが?」
「喪服だろう」
「婚礼衣装ではなく?」
ロドルフの視線がセヴリーヌへ戻る。
「なぜ、そう思う」
「銀糸の意匠です。喪服へ夫婦の結びつきを縫いつける理由はありません」
「考えるな」
ロドルフの声が低くなった。
「この件は私が調べる。あなたは自室へ戻れ」
「わたくしのために用意された寝室です」
「使っていない」
「使っていないから、何が起きても関係がないと?」
「危険かもしれない」
「だからこそ、説明を求めています」
セヴリーヌは夫を見つめた。
「あなたは、あの銀髪の持ち主をご存じですね」
ロドルフは答えなかった。
代わりに、部屋の外から硬い靴音が聞こえた。
マティルダが姿を現す。
先代伯爵夫人は、朝から隙のない黒いドレスを身につけていた。
銀の混じった髪を結い上げ、白い寝台に残った血を見ても眉ひとつ動かさない。
「朝から騒がしいこと」
「お義母様」
「セヴリーヌ。新しい屋敷で落ち着かないのは分かりますが、使用人を集めて探偵ごっこをするのはおやめなさい」
「人が血を流しています」
「誰もいないのでしょう?」
「いなくなったから問題なのです」
マティルダは寝台を一瞥した。
「鶏か何かの血ではなくて?」
「鶏は銀髪も、黒い婚礼衣装も残しません」
セヴリーヌが黒い布を見せると、マティルダの目が細くなった。
ほんの一瞬だった。
「古いカーテンの切れ端でしょう」
「こちらの屋敷では、黒いカーテンに婚礼の刺繍を施すのですか」
「布の用途など、あなたに分かるはずがありません」
「お義母様には分かるのですね」
室内が静まり返った。
マティルダの口元には、かすかな微笑が浮かんでいる。
「この家には、この家の事情があります」
「わたくしも今は、この家の者です」
「嫁いで10日の娘が、すべてを知る必要はありません」
「血を流した方がいることも?」
「その血が人間のものだと、決まったわけではないでしょう」
マティルダは踵を返した。
「血は片づけさせなさい。髪も布も燃やすように」
「残します」
セヴリーヌが言うと、マティルダは足を止めた。
「これは、誰かがここにいた証拠です」
「先代伯爵夫人として命じます。燃やしなさい」
「現在の伯爵夫人は、わたくしです」
セヴリーヌは黒い布を握った。
「お義母様ではありません」
マティルダの微笑が消えた。
ロドルフは何も言わなかった。
それが、セヴリーヌには一番よく分かった。
夫は母を止めない。
彼は初めから、そういう人間だった。
血痕の残る寝室は封鎖された。
セヴリーヌは銀髪と黒い布を自室へ持ち帰った。
ネラは扉へ鍵を掛けると、ようやく大きく息を吐く。
「怖かったです」
「お義母様が?」
「全部です。血も、髪も、先代奥様も」
「正直ね」
「旦那様も少し」
セヴリーヌは黒い布を机へ広げた。
銀糸で縫われた蔓草は、途中で裂けている。
「ネラ。使用人たちに、銀髪の女について聞いて」
「聞いても答えてくれるでしょうか」
「直接は答えないでしょうね」
「では、どうやって?」
「幽霊を見たことがあるかと聞けばいいわ」
ネラが目を丸くした。
「幽霊ですか」
「生きている女を隠している者は、その存在を否定する。けれど幽霊なら、見たと話しても秘密を漏らしたことにはならない」
ネラは納得したような、したくないような顔をした。
「奥様は?」
「帳簿を見ます」
「帳簿?」
「人間は、隠されても食事をします。傷つけば薬を使い、汚れた物は洗わなければならない」
セヴリーヌは伯爵夫人として、屋敷の家政を確認する権限がある。
少なくとも名目上は。
家政室で帳簿を求めると、担当の使用人は明らかに困惑した。
「先代奥様の許可が必要です」
「必要ありません。今の伯爵夫人はわたくしです」
「ですが」
「帳簿を見せなさい」
強く告げると、使用人はようやく鍵を取り出した。
食料。
薪。
蝋燭。
布。
薬。
セヴリーヌは過去8か月分を机へ並べた。
屋敷に暮らす人数に対して、食料がわずかに多い。
毎日1人分。
柔らかいパン。
赤身肉。
肝を使った煮込み。
濃い肉の汁。
病人へ与える滋養食に見える。
だが、数日おきに量が増えていた。
薬草も定期的に購入されている。
止血。
傷口の化膿を防ぐもの。
血を失った者へ用いる薬。
届け先は空欄。
受け取りの署名は、すべてバルテルだった。
さらに別の帳簿を開く。
ロドルフの薬の調合記録。
8か月前、彼は重い病に倒れていた。
高熱と内出血を繰り返し、一時は神官まで呼ばれたという。
だが、ある日を境に薬の処方が変わっている。
黒い瓶に詰められた薬が、5日ごとに調合されていた。
その日付を、食料と薬草の帳簿へ重ねる。
すべて一致していた。
ロドルフの薬が作られる日。
止血薬と新しい包帯が西棟へ運ばれる日。
赤身肉と肝の量が増える日。
偶然ではない。
セヴリーヌは、白い布の上へ置いた銀髪を思い出した。
銀髪は、治癒の祝福の徴。
子ども向けの昔話。
だが、昔話のすべてが、初めから作り話だったとは限らない。
西棟にいる者は、ただの病人ではない。
何かを奪われている。
夕刻、ネラが戻ってきた。
頬を紅潮させ、声を潜める。
「いました」
「銀髪の女が?」
「幽霊を見た方が、4人」
若い下働きの娘は、夜中に西棟の窓へ白い顔が浮かぶのを見た。
庭師は、冬の朝、黒い服の女が格子の向こうに立っているのを見た。
水を運ぶ少年は、西棟の扉の内側から女の声を聞いた。
年配の洗濯女は、この8か月、銀色の長い髪が絡んだ寝具と、血のついた布を洗わされている。
「その方たちは、何を知っているの?」
「料理人は、重い病の御親族が療養していると聞かされていました。下働きの者は、扉の前へ水や薪を置くだけです」
「洗濯女は?」
「何かおかしいとは思っていたそうです。けれど、尋ねるなとバルテルさんから」
全員が真相を知っているわけではない。
ただ、それぞれが自分の仕事だけをしていた。
料理人は食事を作る。
下働きは水と薪を運ぶ。
洗濯女は血のついた布を洗う。
扉の向こうに誰がいるのか、誰も確かめなかった。
「名前は?」
「クラリモンド様です」
ネラは小さな布片を差し出した。
寝具の端から切り取られたものだった。
黒い糸で、クラリモンドと刺繍されている。
「どなたです」
「旦那様の遠縁にあたる方だそうです。幼い頃に御両親を亡くして、こちらの屋敷で育てられたと」
「銀髪?」
「はい。雪のように白い髪だったそうです」
「今は?」
「8か月前、遠方の修道院へ療養に出たことになっています」
8か月前。
ロドルフが病に倒れ、薬が変わった時期。
クラリモンドが屋敷から消えた時期。
すべて同じだった。
「その修道院の名は?」
「誰も知りません」
セヴリーヌは布片を握った。
白い髪。
黒い衣装。
8か月前に姿を消した女。
「西棟が見える場所へ案内して」
閉鎖された西棟は、屋敷の北側にあった。
古い石造りの建物。
窓には格子がはめられている。
外から見れば、何年も使われていないように見えた。
だが煙突からは、細い煙が上がっている。
ネラが最上階の窓を指さした。
「奥様。あそこ」
格子の向こうに、灯りがともった。
白いものが窓の前を横切る。
人の顔。
いや、髪。
銀白色の長い髪が、暗い部屋の中で揺れた。
次の瞬間、灯りが消えた。
ネラがセヴリーヌの腕へしがみつく。
「見ましたよね」
「ええ」
「幽霊では」
「幽霊は暖炉を使い、赤身肉を食べ、止血薬を必要とするのかしら」
セヴリーヌは暗くなった窓を見つめた。
「あれは生きている人間よ」
バルテルを呼び出したのは、日が落ちてからだった。
老家令はセヴリーヌの私室へ入ると、机に並べられたものを見た。
銀髪。
黒い布。
クラリモンドの名。
食料と薬の帳簿。
そして、ロドルフの薬の調合記録。
彼の肩がわずかに落ちた。
「クラリモンド様は西棟にいますね」
バルテルは答えない。
「あなたが食事を運び、薬を届けている」
「奥様」
「ロドルフ様の薬が作られる日と、クラリモンド様へ包帯や滋養食が運ばれる日は一致しています」
老家令の瞼が震えた。
「西棟にいる方は、病人ではありません」
セヴリーヌは帳簿へ指を置いた。
「誰かの薬にするため、血を抜かれているのですね」
「それ以上は」
「今朝、クラリモンド様は夫婦の寝室へ逃げました」
バルテルの顔が上がる。
「壁の中から現れ、扉へ内鍵を掛けた。それから寝台へ向かった。廊下から近づく足音を、追手だと思ったのでしょう」
「お忘れください」
「忘れられると思いますか」
「奥様には関係のないことです」
「夫の薬に、女の血が使われています」
「旦那様の御命に関わることです」
「だから何をしても許されると?」
バルテルは唇を結んだ。
「黒い婚礼衣装は何です」
老家令の目が揺れる。
「答えなさい」
「黒い結婚です」
低い声だった。
「この家では、病を持つ当主へ、銀髪の娘を黒い花嫁として迎えます」
「法的な婚姻ですか」
「いいえ。家の中だけで行われる儀式です」
「何のために?」
「黒い花嫁の血を、旦那様の命へ結びつけるために」
バルテルは俯いた。
「銀髪の娘の血には、傷や病を癒す力があると伝えられております。ただ血を採るだけでは効かない。黒い衣装をまとわせ、夜の礼拝堂で杯を交わし、夫婦として結ばなければならないと」
「8か月前に婚礼をしたのなら、なぜ今朝も黒い衣装を着ていたのです」
バルテルの顔が強張った。
「黒い婚礼は、1度行えば終わるものではありません」
「どういう意味です」
「血を採るたび、花嫁へ黒い婚礼衣装を着せます。旦那様の名を唱えさせた状態で採らなければ、血は効力を持たないと伝えられております」
「本人が望んでいなくても?」
バルテルはしばらく黙った。
「儀式が求めるのは、花嫁の意思ではありません」
絞り出すような声だった。
「黒い婚礼によって、妻と定められた身体です」
セヴリーヌは黒い布を見た。
クラリモンドは8か月間、血を採られるたびに花嫁へ戻されていた。
黒い衣装を着せられ。
夫の名を唱えさせられ。
本人が何を望んでいるかなど、一度も問われないまま。
「クラリモンド様は、進んで黒い花嫁になったのですか」
バルテルは答えなかった。
その沈黙が答えだった。
「今朝、どのように逃げたのです」
「採血室から部屋へ戻す途中でした」
バルテルは目を伏せる。
「西棟と礼拝堂、採血室、中央棟は、使用人の目を避けて黒い花嫁を移動させるため、裏通路でつながっております」
「夫婦の寝室も?」
「通路の枝の1つが、寝室の壁裏を通っています」
「クラリモンド様は通路を知っていた?」
「採血のたびに通らされていました。行き先までは知らなかったでしょうが」
「今朝は?」
「採血を終え、部屋へ戻すところでした。屋敷付き医師が薬を調合するため先に採血室を出て、私が器具を片づけている間に……」
バルテルの声が掠れた。
「通路の扉へ差したままの鍵を取られました」
「それで夫婦の寝室へ?」
「婚礼の鐘を聞いておられました。使用人たちが、新しい伯爵夫人について話す声も」
自分と同じ屋敷へ嫁いだ女。
夫でも、使用人でもない。
同じく花嫁となった女なら、気づいてくれるかもしれない。
「あなたが裏通路から追ったのですね」
「はい」
「医師は?」
「クラリモンド様が逃げたと知ると、廊下側から夫婦の寝室へ回りました」
「クラリモンド様は、その足音を聞いた?」
「おそらく」
バルテルは目を伏せた。
「廊下にも先回りされたと思い、扉へ内鍵を掛けたのでしょう。そのあと寝台へ戻りましたが、血を失いすぎて動けなくなっておられました」
「内鍵が掛かっていたのに、あなたはどうやって部屋へ?」
「裏通路からです」
「そして連れ戻した」
「私が戻さなければ、医師が扉を破ってでも連れ戻しました」
「寝室へ残った血や髪を、なぜ片づけなかったのです」
バルテルは顔を伏せた。
「クラリモンド様を西棟へ戻したあと、寝室へ戻るつもりでした。血も髪も、黒い布も、すべて始末するつもりでした」
「けれど?」
「通路を戻る前に、廊下でネラ様が血を見つける声を聞きました」
だからバルテルは、裏通路から寝室へ戻るのをやめた。
秘密の入口を開けば、物音がする。
廊下へ出て、騒ぎそのものを抑えるしかなかった。
セヴリーヌたちが到着したとき、彼がすでに扉の前に立っていた理由だった。
「それを助けたとは言いません」
「私が世話をしなければ、あの方はもっと早く亡くなっています」
「生かしておくことと、助けることは違います」
バルテルは目を閉じた。
その顔には罪悪感があった。
だが罪悪感は、クラリモンドの扉を開けなかった。
「明日の朝、クラリモンド様をここへお連れしてください」
「できません」
「では、わたくしが西棟へ行きます」
「お待ちください」
「8か月待った方に、これ以上待てと言うつもりですか」
バルテルは長く黙った。
やがて深く頭を下げる。
「明日の朝まで、お待ちください」
「信じろと?」
「私にできる、最後のことです」
「今までしなかったことを、なぜ今さら」
バルテルは黒い布を見つめた。
「クラリモンド様が、御自分で部屋を出られたからです」
老家令の目には、恐怖と安堵が入り混じっていた。
「あの方は、まだ諦めておられなかった」
セヴリーヌは答えなかった。
バルテルが部屋を出るまで、ただ彼を見ていた。
翌朝、バルテルが消えた。
家令室は荒らされていない。
荷物も、財布も、外套も残されている。
セヴリーヌは朝食を断り、ネラとともに屋敷を捜した。
家令室。
使用人棟。
礼拝堂。
馬車小屋。
庭の物置や、使われていない客室まで確かめた。
誰もバルテルを見ていなかった。
ただし、西棟だけは確かめられなかった。
西棟へ続く扉の前には、マティルダの命令を受けた使用人が立っていた。鍵は先代伯爵夫人が預かっている。
彼らはそれだけを繰り返し、セヴリーヌが近づくことさえ許さなかった。
昼近くになって、マティルダは老家令が金を盗んで逃げたのだと説明した。
「あり得ません」
食堂には、マティルダとロドルフがいた。
セヴリーヌは帳簿を抱えたまま、2人の前へ立った。
「あなたはあの男を何年知っているのです」
「金を盗んだ者が、財布も外套も置いていきますか」
「追及されて慌てたのでしょう」
「昨夜、何をお命じになりました?」
「無礼ですよ、セヴリーヌ」
「黒い結婚について、お聞きしています」
ロドルフが椅子から立ち上がった。
「どこで、その言葉を聞いた」
「あなたは知っているのですね」
「答えろ」
「先にあなたが」
セヴリーヌは夫を見る。
「クラリモンドとは、誰ですか」
ロドルフの顔が硬直した。
マティルダは静かに茶器を置いた。
「遠方で療養している親族です」
「西棟に監禁され、血を抜かれている女性です」
「何を馬鹿な」
「旦那様の薬が調合された日と、西棟へ止血薬、包帯、滋養食が運ばれた日は、すべて一致しています」
セヴリーヌは帳簿を卓上へ置いた。
「旦那様の病が回復したのは8か月前。クラリモンド様が修道院へ移ったとされたのも8か月前です」
ロドルフは帳簿を見下ろした。
顔色が悪い。
「薬の中身を、本当に御存じなかったのですか」
「私は知らない」
「薬の味が変わったことも?」
ロドルフの唇が動く。
「色は?」
「知らない」
「黒い瓶へ変わった日を覚えていないと?」
「やめなさい」
マティルダの声が響いた。
「クラリモンド1人の血で、ロドルフは助かったのです。それの何が問題なのです」
沈黙が落ちる。
ロドルフが母を見る。
「母上」
「お前は死にかけていた」
マティルダは息子を真っすぐ見た。
「高熱は下がらず、皮膚の下で血が広がり、医師も神官も匙を投げた。この家の当主が、婚礼を控えたまま死のうとしていたのです」
「クラリモンドに何をした」
「黒い結婚を行いました」
マティルダは平然と答える。
「あの娘の血を、お前の命へ結びつけたのです」
「私は知らなかった」
「本当に?」
セヴリーヌが尋ねた。
「熱に浮かされながら、黒いヴェールを見ませんでしたか。銀色の髪も。クラリモンド様と杯を交わしたことも」
ロドルフの顔が歪む。
彼は覚えている。
完全ではなくとも。
夢だと思おうとした記憶がある。
「薬を飲み始めた直後、クラリモンド様が屋敷から消えた」
「修道院へ移ったと聞いた」
「どこの修道院か、尋ねましたか」
ロドルフは答えない。
「夜の西棟に灯りがともっていることは?」
「見たことはある」
「バルテルが血のついた布を運ぶ姿は?」
「……ある」
「それでも確かめなかった」
「私は知らなかった」
「あなたは知らなかったのではありません」
セヴリーヌは言った。
「知れば、その薬を飲めなくなるから、知ろうとしなかったのでしょう」
ロドルフは何も答えられなかった。
「黒い結婚は、この家を守るために必要なものです」
マティルダが言う。
「ロドルフ1人の命の話ではありません。跡継ぎを残さぬまま当主が死ねば、傍系同士の相続争いが始まる。統治は止まり、家臣も使用人も職を失い、領民の暮らしも乱れる」
「だから、クラリモンド様を使った?」
「1人の血で済むのなら、迷う理由がどこにあります」
「本人が拒んでも?」
「家に育てられた娘です。恩を返すのは当然でしょう」
「妻が夫の命を支えるのは当然だと?」
「そのための黒い結婚です」
マティルダは、何ひとつ間違っていないという顔をしていた。
「家の娘に、家のため以外の意思など必要ありません」
セヴリーヌは息を吐いた。
「ネラ。町の役人と神官を呼んで」
「誰にも屋敷を出させてはなりません」
マティルダが命じると、扉の前へ使用人たちが並んだ。
セヴリーヌは彼らの顔を見る。
全容を知る者は、ほとんどいない。
だが、何か異常だと気づいていた者はいる。
血のついた布を洗った者。
誰もいないはずの西棟へ食事を作った者。
女の声を聞きながら、水を置いて帰った者。
誰も目を合わせない。
それでも退こうとはしなかった。
ネラがセヴリーヌの前へ出る。
伯爵家の使用人たちとは違い、ネラだけはマティルダの命令を受ける立場ではない。
「奥様には触れさせません」
「退きなさい、ネラ」
「ですが」
「この方たちは、わたくしを傷つけたいのではないわ」
セヴリーヌは使用人たちを見る。
「自分で選ぶことを、恐れているだけです」
マティルダの眉が動いた。
「捕らえなさい」
だが、使用人たちは動かなかった。
そのときだった。
ごん。
厚い壁の向こうで、重いものがぶつかった。
全員の視線が、同時に音の方へ向く。
続いて、かすかな声がした。
「……奥様」
扉を塞いでいた使用人の1人が、青ざめて一歩退いた。
「今のは……バルテル様では」
「何も聞こえません」
マティルダだけが即座に言った。
その否定が、かえって全員に聞こえたものを確かなものにした。
ごん。
もう一度。
「奥様。あちらです」
ネラが壁を指さした。
セヴリーヌは音のした壁へ近づき、今朝から見てきた屋敷の構造を頭の中で重ねた。
ここは夫婦の寝室の真下であり、白い寝台へ続いていた血痕が始まった壁とも、西棟へ延びる廊下とも、一直線につながっている。
「隠し通路」
セヴリーヌは壁を叩く。
場所によって音が違う。
中央の飾り柱だけが、内側に空洞を持っていた。
「止めなさい!」
マティルダが叫ぶ。
その声が答えだった。
セヴリーヌは燭台を持ち上げ、飾り柱へ打ちつけた。
木の装飾が割れる。
中から鉄の取っ手が現れた。
ロドルフが駆け寄り、取っ手を引く。
壁の一部が軋みながら開いた。
冷たい空気が流れ込む。
細い通路。
石の階段。
その数段下に、バルテルが倒れていた。
「バルテル!」
ロドルフが駆け下りる。
老家令の額には血が滲んでいた。
息はある。
彼の手は、誰かの手を握っていた。
暗闇の奥に、白い髪が見える。
黒い衣装。
裸足。
痩せた女が、壁へ背を預けて座り込んでいた。
両腕には、何重にも包帯が巻かれている。
左腕の包帯は赤く染まり、指先から血が落ちていた。
女は顔を上げた。
淡い灰色の瞳が、ロドルフではなくセヴリーヌを見る。
「黒い、髪」
掠れた声だった。
「あなたが、新しい花嫁?」
セヴリーヌは階段を下りた。
「セヴリーヌです」
「私は」
女は言葉を探すように唇を動かした。
「クラリモンド」
「存じています」
クラリモンドは笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「外から、来た人」
「ええ」
「ここを、知らない人」
「ええ」
「だから」
クラリモンドの指が、セヴリーヌの袖を掴んだ。
「助けてくれると思った」
弱い力だった。
それでも離さない。
ロドルフが膝をつく。
「クラリモンド」
彼女はロドルフを見た。
灰色の目に喜びはなかった。
憎しみさえ、もう疲れ果てているように見えた。
「薬は」
クラリモンドが尋ねる。
「よく効いた?」
ロドルフは答えられなかった。
マティルダが通路の入口に立っていた。
「その女を戻しなさい」
セヴリーヌは振り返る。
「どこへ?」
「西棟へ」
「監禁していた部屋ですね」
「療養させていたのです」
「血を抜きながら?」
「必要な量だけです」
マティルダは階段を下りてくる。
「死なせては意味がありません。長く生かし、必要なときに血を分けてもらう。それが黒い花嫁の役目です」
「血を採るたび、婚礼衣装を着せ、夫の名を唱えさせることも?」
「妻が夫へ血を捧げるのは当然でしょう」
「本人が望んでいなくても?」
「妻の役目に、本人の気持ちが何の関係を持つのです」
バルテルが呻いた。
「私が……お連れしようとしました」
老家令はロドルフに支えられ、身体を起こす。
「昨夜、奥様との約束どおり、クラリモンド様を通路へお連れしました。ですが、先代奥様と医師に見つかり……」
「裏切り者が勝手に転んだだけです」
マティルダが言った。
「屋敷付き医師はどこです」
セヴリーヌが尋ねる。
マティルダは答えない。
「採血を行い、薬を調合していた方です」
「医師は医師の務めを果たしただけです」
「では、その方にも役人の前で同じことを話していただきましょう」
「必要ありません」
「必要かどうかを決めるのは、あなたではありません」
クラリモンドの指が震えた。
セヴリーヌはその手を握る。
「ロドルフ様」
夫を呼んだ。
「あなたが決めてください」
「何を」
「これからも、クラリモンド様の血を飲んで生きるのか」
ロドルフはクラリモンドを見る。
黒い婚礼衣装をまとった、銀髪の女。
自分の薬となるため、8か月間血を奪われてきた女。
次にセヴリーヌを見る。
白い婚礼衣装で迎えながら、妻として求めなかった黒髪の女。
「母上」
ロドルフは立ち上がった。
「もう終わりです」
その声は決然としていた。
だがセヴリーヌには、勇気よりも安堵が強く聞こえた。
自分で真実を探し出すことはできなかった男が、ようやく他人の暴いた真実に従う理由を得たのだ。
マティルダの顔から、初めて余裕が消えた。
組んでいた指が、白くなるほど強く食い込んでいる。
「薬をやめれば、また発作が起きるのよ」
「それでもです」
「死ぬかもしれない」
「だからといって、この人の血を奪う理由にはならない」
「お前だけの命ではないのです!」
「クラリモンドの命も、母上のものではない!」
「お前を生かすためにしたのです!」
「私のためなら、なぜ何も知らせなかった!」
「知らせれば、お前は拒んだでしょう!」
「当然だ!」
「だから、お前には決められなかったのよ!」
マティルダの声が通路へ響く。
「家を守るために必要なことを、お前は何ひとつ選べない。黒い花嫁を迎えることも、新しい妻との間に跡継ぎを作ることも、すべて私が決めなければならない!」
セヴリーヌは顔を上げた。
「跡継ぎ?」
「当然でしょう。ロドルフが生きているうちに、次の当主を残さなければならない」
マティルダはセヴリーヌを見る。
「あなたはそのために迎えたのです」
「白い結婚だと御存じではなかったのですね」
マティルダの表情が止まった。
「何ですって?」
「ロドルフ様は、わたくしを妻として求めないと仰いました」
「ロドルフ」
「私は、この病を子へ継がせたくなかった」
「では、この家を誰に継がせるつもりだったの!」
「何も決めていなかったのでしょう」
セヴリーヌが言う。
「母親へ逆らって婚礼を取りやめることもできない。けれど妻を抱くこともできない。クラリモンド様の血を飲むこともやめられない。すべてを曖昧にしたまま、誰かが決めてくれるのを待っていた」
ロドルフは俯いた。
否定できなかった。
セヴリーヌはクラリモンドへ手を差し出す。
「出ましょう」
クラリモンドは、その手を取った。
黒い結婚の花嫁は、白い髪をしていた。
白い結婚の花嫁は、黒い髪をしていた。
2人が並んで通路を出ると、床に残った血だけが、鮮やかな赤だった。
ロドルフは食堂へ戻ると、使用人たちへ門を開けるよう命じた。
「ネラ。町の役人と神官を呼んでくれ」
「はい」
今度は誰も、ネラの前を塞がなかった。
むしろ、扉の前に立っていた若い使用人の1人が、自分も馬を出すと申し出た。
屋敷付き医師は、裏門から逃げようとしたところを、薪を運んでいた下働きたちに取り押さえられた。
これまで命じられた作業だけをしてきた者たちが、初めて自分で選んだ。
その日のうちに、町の役人と神官が屋敷へ入った。
数日後には、王都から派遣された医師も到着した。
西棟の扉は開かれた。
クラリモンドが閉じ込められていた部屋には、寝台と椅子、小さな机しかなかった。
窓には格子。
扉には外側から鍵。
隣室には、採血に使われた器具と、黒い瓶が並んでいた。
壁には、日付と量が記録されている。
5日ごと。
ときには3日しか空いていない。
ロドルフの発作が悪化した日は、通常の倍の血が採られていた。
採血を行っていた屋敷付き医師は、マティルダとともに拘束された。
バルテルも共犯者として証言を求められた。
料理人や下働きの者たちは、自分が何へ加担していたのかを知り、口々に知らなかったと繰り返した。
実際、全容を知っていた者は少ない。
それでも料理人は滋養食を作った。
洗濯女は血のついた布を洗った。
下働きは格子のある部屋へ水と薪を運んだ。
女の声を聞いた者もいた。
銀髪を見た者もいた。
誰も、扉の向こうにいる人間の名を尋ねなかった。
クラリモンドには、王都の療養院、神殿が管理する修道院、そしてセヴリーヌの実家が所有する別邸が療養先として提示された。
誰かが決めるのではなく、本人へ選ばせた。
クラリモンドは長く考えたあと、セヴリーヌの実家が管理する別邸を選んだ。
「鍵を、外から掛けないところなら」
そう言ったあと、少しだけ迷い、
「でも、知っている人がいるところがいい」
と付け加えた。
ネラは別邸へ同行し、セヴリーヌの実家から信頼できる侍女が到着するまで付き添うことになった。
ロドルフは、黒い瓶の薬をすべて処分させた。
その2日後には、熱が出始めた。
まだ軽い。
だが、いずれ以前の発作が戻る可能性は高いという。
「申し訳ない」
ロドルフは言った。
セヴリーヌが屋敷を出る前夜だった。
この部屋には、2人しかいない。
「誰に謝っているのです」
「あなたに」
「クラリモンド様には?」
「もちろん、彼女にも」
「同じ謝罪で済ませるのですか」
ロドルフは言葉を失った。
「わたくしは、愛されなかっただけです」
セヴリーヌは窓の外を見る。
「クラリモンド様は、身体を使われた。あなたが謝るべき相手は、まずあの方です」
「分かっている」
「いいえ」
セヴリーヌは夫を見る。
「あなたは今も、自分が知らなかったことを許してほしいだけです」
「私は本当に、何をしていたのかまでは」
「知らなかったのではありません」
セヴリーヌは同じ言葉を繰り返す。
「知れば薬を飲めなくなるから、知りたくなかったのでしょう」
ロドルフは俯いた。
「薬はもう飲まない」
「それは、これからの話です」
8か月飲み続けたことは消えない。
クラリモンドの腕に残った傷も。
黒い衣装も。
白い寝台に残された血も。
「ここに残ってほしい」
ロドルフが言う。
「あなたが望むなら、今度こそ」
「望みません」
セヴリーヌは即座に答えた。
「なぜ」
「白い結婚でよかったと思っております」
ロドルフが顔を上げる。
「この家では、妻になれば、身体のどこまでを差し出すのが当然とされるのか分かりませんから」
セヴリーヌは指から結婚指輪を外した。
白い石のついた指輪を机へ置く。
「婚姻の解消を申し立てます」
「セヴリーヌ」
「クラリモンド様を自由にしてください」
「もちろんだ」
「あの方自身の望みを聞いて」
ロドルフは何も答えなかった。
セヴリーヌはそれ以上、彼へ教えなかった。
屋敷を出る前日。
クラリモンドが閉じ込められていた部屋を調べたいと、役人から頼まれた。
黒い結婚に関する記録が、ほかにも残されている可能性があるという。
セヴリーヌは、別邸から戻ったネラとともに西棟へ入った。
部屋は狭かった。
寝台と机。
格子のついた窓。
壁には、日付を数えた無数の傷。
8か月分。
机の引き出しから、黒い布の切れ端と銀糸が見つかった。
クラリモンドは、採血の日に着せられる婚礼衣装を少しずつ裂いていたらしい。
いつか誰かへ、自分が黒い花嫁であることを伝えるために。
「奥様」
ネラが壁際で呼んだ。
「こちら、風が入っています」
石壁の隙間から、冷たい空気が流れている。
押しても動かない。
だが床には、わずかな擦れ跡があった。
セヴリーヌと役人が力を合わせると、壁の一部が奥へ開いた。
隠し扉。
クラリモンドさえ知らなかった、さらに古い部屋。
中は暗かった。
灯りを差し入れる。
壁際に、椅子が並んでいた。
その上に、人が座っている。
黒い婚礼衣装。
朽ちた黒いヴェール。
白く乾いた骨。
1人ではない。
2人。
3人。
奥にもいる。
どの白骨も、花嫁の衣装をまとっていた。
ネラが口元を押さえる。
役人の持つ灯りが震えた。
壁際には、古い帳面が積まれている。
黒い花嫁の名前。
血を採った日。
採った量。
当主の容体。
そして、花嫁が死亡した日。
それだけが、几帳面に記されていた。
数か月で死んだ者。
1年以上耐えた者。
血が薄くなったと記されたあと、記録が途切れている者。
死んだ花嫁は、最後にもう一度黒い婚礼衣装を着せられ、この部屋へ座らされていた。
夫へ血を捧げ終えた妻として。
古い帳面の最後には、8か月前の日付と、クラリモンドの名が記されていた。
それ以前の記録とは、筆跡が違う。
セヴリーヌには見覚えがあった。
家政室に残された指示書と同じ、細く硬い文字。
マティルダの筆跡だった。
その下には、採血の日付、量、ロドルフの容体が、それまでの黒い花嫁たちと同じ形式で並んでいる。
マティルダが黒い結婚を始めたのではなかった。
彼女はこの部屋に残された手順を読み、その続きを書いたのだ。
クラリモンドは、最初の黒い花嫁ではない。
初めて生きたまま、外へ出られた花嫁だった。
セヴリーヌは、黒いヴェールの向こうに並ぶ白い顔を見た。
白い結婚は、セヴリーヌの1度きりだった。
黒い結婚は、この家で何度も繰り返されていた。
そして、そのすべてに。
赤い血痕が残っていた。
白い結婚について考えていたら、
「なら、反対は黒い結婚?」
となりまして。
「黒い結婚ってなんぞ?」
と考えていたはずなのですが、気づけば白い寝台に赤い血痕が残り、銀髪の花嫁が屋敷の奥へ閉じ込められていました。
どうして?
たぶん、白と黒を並べた時点で、赤も欲しくなったんでしょうね。
というわけで、白い結婚から生まれた推理ホラーでした。




