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誰も知らない僕の本当の名前  作者: ユタカ
誰も知らない僕の本当の名前

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15/26

名前を奪われた法廷と、131番の男

『――これより、開廷します』

裁判長の重々しい声が響き渡り、東京地方裁判所104号法廷の空気がピンと張り詰めた。

傍聴席を埋め尽くす人々の、刺すような敵意と殺気。フラッシュを焚くことは許されていないが、報道陣の鋭いペン先が、僕の一挙手一投足を逃すまいと構えられているのが肌で分かった。

「被告人は、証言台の前に進み出てください」

促されるまま、僕は重く軋む老体を引きずって、法廷の中央に用意された証言台の前に立った。

これから始まるのは「人定質問じんていしつもん」。裁判の冒頭で、目の前にいる被告人が起訴状に書かれている人物と同一であるかを確認する、通常なら「名前はなんですか?」と聞かれるだけの手続きだ。

しかし、裁判長が手元の書面から顔を上げ、僕に向けた言葉は、予想していたものとは全く違っていた。

「……起訴状の公訴事実を確認する前に、被告人の人定を行います」

裁判長は、無機質な、一切の感情を排した声で読み上げた。

「新宿署留置管理課留置番号131番、別添写真の男。……被告人は、この写真の男に相違ないか?」

法廷の空気が、さらに一段階冷え込んだ。

名前も、年齢も、本籍地も呼ばれない。ただ「131番」という記号と、「写真の男」という物質としての確認。

僕がどれだけ「僕は竹原聖だ」と主張し、DNA鑑定でそれが99.999%証明されようと、日本の司法は僕を「竹原聖」とは一ミリも認めていなかった。僕は法廷という神聖な場においてすら、名前を持つことすら許されない「正体不明の化け物」のままだったのだ。

「……っ」

胸の奥が、ギリギリと締め付けられた。

「僕は、竹原聖です」と叫びたかった。でも、声が出なかった。僕がそう口にした瞬間、傍聴席からどのような怒号が飛び、目の前の木戸検事がどれほど氷のように冷酷な視線を向けてくるか、痛いほど分かっていたからだ。

僕がシワだらけの唇を震わせ、沈黙していると、隣からそっと肩を叩かれた。

中田弁護士だった。彼は僕の目を見て、わずかに、けれど力強く頷いた。

『今は堪えろ。ここで騒いでも心証を悪くするだけだ』

彼の目が、そう語りかけていた。この法廷で唯一、僕が竹原聖であるという真実を知ってくれている大人が、僕と一緒にこの理不尽な屈辱に耐えようとしてくれている。

僕は俯き、抜け落ちた奥歯の隙間から、掠れた声を絞り出した。

「……はい。間違い、ありません……」

「よろしい。被告人は席に戻りなさい」

裁判長は淡々と告げ、書類に目を落とした。

僕がよろめくようにして被告人席に戻ると、すかさず検察側の席で木戸検事が立ち上がった。彼の眼鏡の奥の瞳は、微塵の隙もない自信と、僕に対する絶対的な軽蔑に満ちていた。

「それでは、起訴状を朗読します」

木戸検事の冷徹でよく響く声が、法廷全体に響き渡る。

「被告人は、氏名・年齢・職業不詳の者である。被告人は去る〇月〇日未明、東京都新宿区の竹原邸に侵入。金品を強取する目的で、家主である竹原夫婦の腹部および背部を所持していた刃渡り十五センチのサバイバルナイフで複数回にわたり刺し、重傷を負わせた。その後、現金十数万円が入った募金箱を奪って逃走したものである。よって、強盗殺人未遂の罪に問う」

一切の淀みなく読み上げられたその事実は、完璧なストーリーとして構築されていた。

そこに僕が「両親を助けようとした」という真実は一欠片も存在しない。世間が望み、警察が作り上げ、検察が補強した、「極悪非道な老人の強盗犯」という揺るぎない物語。

「……以上が公訴事実です。被告人、および弁護人。今の起訴状の事実に、間違いはありますか」

裁判長が問いかける。

ここからが、本当の戦いの始まりだった。

中田弁護士が、ゆっくりと席を立った。

世間から「詐欺師」と罵られ、事務所を潰されかけながらも、真実を知ってしまった大人の背中。彼は法廷全体、ひいては日本中の憎悪を一身に引き受けるように、深く息を吸い込み、そして力強く宣言した。

「起訴状の事実は、すべて否認します。被告人は強盗犯ではありません。また、両親……被害者夫婦を刺した事実も断じてありません。被告人は、無罪です」

その瞬間。

傍聴席から「ふざけるな!」「この悪徳弁護士が!」「死刑にしろ!」という凄まじい怒号と野次が爆発した。

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