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さよなら、私の愛した刻  作者: 万里小路 信房


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5、赤いマントの魔女

 翌朝、夜明け前の青白い光が、乱れた寝室を冷酷に照らし出した。室内には、愛欲の残り香と、急速に冷えていく汗の匂いが漂っている。エルベルトは、ベッドの端に座り、重い音を立ててブーツの紐を締めた。


「行くのね」


 背後で、エレナの声がした。彼女はシーツを胸元まで引き上げ、虚空を見つめている。その瞳は、昨夜の激情を嘘のように覆い隠し、再びタフ伯爵という冷たい硝子の色に戻っていた。


「ああ」


「そう。厩舎に馬を用意してあるわ。冬の山道に慣れた名馬よ。……軍馬は何頭いても困らないでしょう」


 彼女はベッドから起き上がろうとしなかった。立ち上がれば彼を縋り付いて止めてしまう自分を、必死に抑え込んでいるのがわかった。


 エルベルトは立ち上がり、枕元に置かれた剣帯を手に取った。革と油の匂いが、甘い残り香を上書きしていく。彼はリトセラスの貴族としての安寧を、アレッサンドラの差し出した温かな未来を、完全に捨て去った。義勇騎士として大公国の戦場へ向かう。


 そのことを告げた友人のギリェルモは一言、「うらやましいな」とだけ言ってくれた。


 エレナは黙って行かせてくれる。


「エレナ。リソスフィアのスズランが咲く頃には、必ず」


 その言葉が、残酷な嘘になるかもしれないことを、二人は知っていた。エレナはただ自分の指先をシーツに食い込ませ、短く応えた。


「……待っているわ。私の、誇り高い騎士様」


 扉が閉まる音。それが、エルベルトが聞いたエレナとの最後の日常の音だった。 階下へ降りる彼の足音は、かつて夜会で聴いたワルツのリズムを忘れ、いくさに出向く騎士の歩法へと変わっていた。


 エレナの屋敷の門の前で従士らと合流する。鎧も鎗も旗も持たせてある。


「今朝は霧が深くて、カラスさえ飛んでいませんよ」


 エルベルトは無言で馬に乗った。


 ホルンフェルスの城門は、夜明けの霧に濡れてそびえ立っていた。凍てつく空気の中、その巨大な影に寄り添うようにして、小さな人影がひとつ、白い息を吐きながら立っていた。アレッサンドラだった。


 彼女は鼻の頭を赤くし、霜が降りた外套の襟を固く握りしめていた。エルベルトが馬を止めると、彼女は力なく笑い、腕に抱えていたバスケットを差し出した。


「行かないでって言ったら……、残ってくれる?」


 その声はあまりに弱々しく、朝の冷気に溶けて消えてしまいそうだった。エルベルトは鞍の上から彼女を見下ろし、沈黙した。その沈黙こそが、彼女への最も残酷な回答だった。


「……無理だ」


「知ってる。わかっていたわ」


 アレッサンドラは、バスケットをエルベルトの手元へ押し付けた。布に包まれた籠からは、焼き立てのピロシキの微かな温もりが伝わってくる。それは、エレナの寝室で吸い込んだ死の予感とは対照的な、あまりに平凡で、あまりに温かい家庭の匂い、生の存在感だった。


 エルベルトがその熱を受け取った瞬間、アレッサンドラの手が彼の手綱を強く掴んだ。彼女の瞳から、少女の無邪気な光が完全に消え失せる。代わりに宿ったのは、帝国の血筋がもたらす、底冷えするような冷徹な色だった。


「エルベルト様。ひとつだけ、覚えておいて」


 彼女は顔を近づけ、呪文を唱えるかのような低い声で、彼に呪いを投げかけた。


「あなたが守ろうとしているエレナの美しい祖国を、春が来る前に焼き尽くすのは……他でもない、私の同胞よ」


 アレッサンドラは仕立てのいいグレイのコートに身を包んでいた。しかし、手綱を離し、一歩下がった瞬間、冬の強風がその裾を乱暴に跳ね上げる。隠されていたマントの赤が、雪原の中で毒々しく爆ぜた


「大公国に向かう路で、私が差し上げたこのピロシキを食べて、思い出して。あなたの愛した女を絶望へ突き落すのは、あなたが踏みにじった、私の愛なのだということを。さようなら、私の愛した人。戦場で、私の国の兵士たちに蹂躙されながら、私を恨みなさい」


 エルベルトは馬を走らせる。背後では、アレッサンドラが真っ赤なマントを風になびかせ、冷徹な帝国の魔女として、エルベルトの姿が見えなくなるまで、太陽で燃え上がる地平線を見つめていた。


「見て、エレナ。私にも赤が似合うようになったわよ。……あなたの愛するものを焼き尽くす炎の色が」


 大公国の方角から、重苦しい振動が地響きとなって伝わってくるように感じる。エルベルトは、冷え切った手綱を強く握り直した。


 自分は何もせずに幸せになっていい人間ではない。バスケットの重さが、胃の腑を抉るような罪悪感となって押しかかる。彼は贖罪のように、アレッサンドラの最後の愛が詰まったピロシキを口に運んだ。それは凍てつく喉元を焼くように、どこまでも熱く、苦かった。


 ホルンフェルスの城壁の塔の上、赤い帽子をかぶったエレナが身を乗り出すようにして、遠ざかる点を見つめている。 彼女の指先は、手すりの氷を無意識に削り取っていた。 爪の間が白く染まり、感覚がなくなっていくのを、彼女はただ、ぼんやりと感じていた。

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