4、猶予の終わり
和平交渉は決裂の危機を迎えていた。帝国皇帝ジュゼッペは、コイヌール公爵による総攻撃の命令を下そうとしていた。外交の猶予は消え、リトセラスの優雅な社交界にも戦争の影が忍び寄る。
大公国は、戦争を終結させるためには、領土の一部を犠牲にしなければならないという厳しい現実を突きつけられた。この静かな外交の動きは、リソスフェア地峡で展開される軍事的な大嵐の影で、大公国の運命が既に決定されつつあることを示唆していた。
一晩中、暖炉の火を見つめながら、プラジオクレース子爵エルベルトは自分の平和な未来の可能性をつぶす準備をした。彼は決断を迫られていた。誰かの幸せのために、誰かを傷つける覚悟を決める時が来たのだ。
雪は止む気配もなく、空は重い鉛の色をして、ホルンフェルスの華やかな喧騒を押し潰していた。
エルベルトは、リトセラス王宮の中庭の奥、人目のつかない冬枯れの東屋へとアレッサンドラを連れ出した。そこはかつて三人が、戦火の現実から逃れて笑い合った避難所だった。
「アレッサンドラ、聞いてほしい」
エルベルトの喉の奥は、凍った砂を飲み込んだようにざらついていた。 アレッサンドラは、彼が話し出すよりも先に、そのすべてを悟ったようだった。彼女は耳を塞ぎ、エルベルトの胸に顔を押し付けた。外套の柔らかな毛皮が、彼女の涙でじっとりと濡れていく。
「嫌、言わないで。わかってる、わかってるから……」
彼女の体温が、厚いコート越しに伝わってくる。それは、昼間の冷徹な外交官の顔―タフ伯爵の前で、帝国の利益のために領土を奪い、民を追い詰めると宣言したあの唇の主とは信じがたいほど、幼く、震えていた。
「アレッサンドラ……僕は、エレナを愛している。君が差し出してくれた純粋な優しさに、僕はもう応えることができない」
エルベルトの手が、彼女の肩を掴んで引き離そうとした。しかし、その腕を動かすことができなかった。彼女の身体は、まるで最期の救いを求める遭難者のように彼にしがみついていた。彼女の身体を無理やり引きはがすことは、彼にはできなかった。
「知ってた。エルベルト様がエレナに惹かれていくのを。でも私はそれを見ないようにしていた……。どうして? 私のほうが、あなたを笑わせてあげられるのに。エレナは、あなたを暗い場所に連れて行くだけ。あの人は、自分の国と一緒に滅びる道しか歩けない人なのよ!」
アレッサンドラは顔を上げ、身体を離し、彼の頬を思い切り叩いた。乾いた音が静寂の中に吸い込まれ、エルベルトの頬が熱を帯びる。
彼女の瞳は、エルベルトの愛を勝ち取ることのできなかった絶望で、紅く充血していた。
「……最低。……本当に、大嫌い」
彼女の声は、最後には悲鳴に似た掠れ声になった。彼女はそのまま、自分の投げ出した言葉から逃げるように走り去った。雪の上に残されたアレッサンドラの足跡は、あまりに小さく、脆かった。降り積もる新雪が、瞬く間に彼女の存在した証を埋めていく。
エルベルトは、叩かれた頬の痛みを噛み締めながら、独りその場に立ち尽くした。
彼は知っている。アレッサンドラの無邪気な愛は、エルベルトを安全なリトセラスに留め、エレナを孤独な死へと追いやる甘い毒だった。
彼は振り返ることなく、エレナの屋敷へと足を向けた。アレッサンドラとの決別は、平和な日常との決別だった。一人の少女の心を完膚なきまでに砕いた感触が、エルベルトの魂に消えない痣を残す。
エレナの屋敷に着いた頃には、彼の外套は雪で白く染まっていた。扉を開けると、そこには冬の極夜のような静寂が待っていた。窓際に立つエレナの影が、暖炉の残り火に照らされて揺れている。彼女は、エルベルトが何をしてきたのかを、その表情だけで見抜いたようだった。
「終わったのね、あの子との時間は」
エレナの言葉は、氷の楔のように鋭く、そして慈愛に満ちていた。エルベルトは何も答えず、彼女を強く抱き寄せた。
ドレス越しに伝わるエレナの体温は、驚くほど低かった。アレッサンドラの燃えるような熱に比べれば、それは死者の温度に近い。だが、エルベルトはその冷たさにこそ、自分が共に歩むべき地獄を見出した。
エレナの心臓の音が、厚い布地を通して、急かすように打たれていた。それは戦場へ向かうドラムのようでもあり、三人で過ごした、戦争を忘れたような甘い時間の終焉を告げる、弔鐘のようでもあった。




