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さよなら、私の愛した刻  作者: 万里小路 信房


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3、秘密の情愛

 エレナは、アレッサンドラがどれほど真剣にエルベルトを想っているかを知っていた。だからこそ、エルベルトと二人きりになると、あえて突き放すような態度を取る。


「あの子を悲しませたら、外交官としての私じゃなく、一人の女としてあなたを呪うわよ」


 だが、その声は震えていた。


 ある夜は、エレナはエルベルトが近づくと、「アレッサンドラのところへ行けば? あの子、あなたのためにリュートを練習していたわよ」と冷たく突き放した。


 劇場のロビーでは、暖炉の爆ぜる音と共に、リトセラスの貴族たちが地図を囲んでいる。そこには友人のディトモピゲ子爵ギリェルモも混じっていた。


「ほう、リソスフィアの防衛線がまた一段下がったか」


「あそこの地形は防御には向かん。帝国の重装歩兵に踏み潰されるのは時間の問題だな」


 彼らはワインを転がしながら、数千の命が消えゆく戦況を、まるで良質な劇の品評会のように語り合う。エルベルトはその輪の端で、指先に残る冷たい感触を思い出していた。


 自分もまた、安全な場所からエレナの故郷が焼かれるのを眺める観客の一人でしかない……。エルベルトはそのことにうしろめたさを感じた。気分が悪くなりそこを出る。ギリェルモと目が合った。目だけでうなずく。彼も同じ気分を感じているようだった。


 当てもなく劇場内を歩くうちに、エルベルトはエレナを見つけた。一人だった。その桟敷席で、エレナは一人、静かにで舞台を眺めていた。ホルンフェルスでも評判の喜劇で、劇場内のあちこちで笑い声が聞こえるのに、彼女の肩は微動だにしなかった。その後姿をしばらくの間眺めてから、彼は背後から彼女に近づて行った。


「……アレッサンドラが、泣いていたわ」


 エレナは振り返らずに言った。いつから気づいていたのだろうか。エルベルトは彼女の肩に手を触れようとして、途中で止めた。


「あの子、昨日、新しいドレスを作ったの。あなたに見せるんだって。……バカよね。自分の国が戦争しているって時に」


「エレナ、僕は」


「言わないで。……冷たいわね。あなたも」


 エレナは立ちながら振り返り、エルベルトの頬を両手で挟んだ。


 エレナは話をそらすように故郷の話をした。彼女が椅子の背を指でなぞった。


「リソスフェアの湖は、冬には硝子のようになるの……」


 大公国のリソスフェア地方は、大公国の根源的な美しさが宿っている。諸所に散らばる鏡面のような湖水には深い針葉樹の森が映り込み、雪解けとともに大地からは苔と土の野性的な匂いが立ち上り、スズランが咲き乱れる。


 冬の極夜がもたらす紺碧の静寂と、夏の白夜が描く淡い黄金色の地平線。この地を包む冷徹な空気は、鋭くもどこか懐かしい響きを持って人々の心に染み入り、神秘的な世界へと誘う。


 そうエレナがエルベルトに語った。


 エレナからリソスフェアの湖や森の話を聞き、その美しい声で、神秘の世界をさまよった。そして彼女の言葉が途絶えると、エルベルトは贅沢な音楽を鳴らすホルンフェルスの劇場へと引き戻された。


 途端に吐き気が戻ってくる。


 自分は暖かい部屋でワインを飲みながら、エレナの美しい記憶の地が踏み荒らされるのを眺めているだけなのかという自己嫌悪。


 このままリトセラスに居ては、自分もまた魂が凍りつき、人の死を劇のように楽しむ怪物になってしまう、そんな気がする。


 エルベルトはエレナの孤独と、彼女の祖国が滅亡の危機に瀕している現実を知り、彼女を守りたいと強く願うようになった。彼にとって彼女の愛する風景を守ることは、エレナを愛することと同じ意味を持つものになっていった。しかし、横ではアレッサンドラが彼の袖を掴み、無邪気に笑っている。


「エルベルト様、ずっと一緒にいてくれるって約束したわよね?」


 その純粋さが、二人にとって最大の心理的な制約となっていた。

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