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さよなら、私の愛した刻  作者: 万里小路 信房


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2、迷い込んだ帝国の令嬢

 数日後の路地裏は、腐った生ゴミと鉄錆の匂いが混ざり合っていた。エルベルトは、抜いたばかりの剣の切っ先についた脂を、無造作に足元の倒れた者のマントで拭った。 目の前で座り込んでいる娘は、ひどく震えていた。灰色のコートから、ドレスのオレンジ色がこぼれている。その色と彼女の香水の甘い香りが、場末の路地の中で、異様に浮いている。


「お怪我は?」


「あ、……う、ううん。助けて、くれたの?」


 彼女は立ち上がろうとして、ぬかるみに足を取られた。エルベルトはその腕を掴み、引き上げる。手首は驚くほど細く、熱かった。


「帰りなさい。ここは、お嬢様が来る場所じゃない」


「待って。あなた、名前は?」


 彼女は、泥のついたドレスも気にせず、エルベルトの顔を覗き込んだ。その瞳には、恐怖を塗りつぶすような、幼い熱が灯っていた。助けを呼んでいた侍女が戻ってくる。エルベルトはその令嬢を侍女に引き渡し、名前も告げずに去っていった。


 後日、夜会の喧騒の中で、その時のお嬢様、イネサイト子爵令嬢アレッサンドラはエルベルトを見つけた。彼女は彼の腕にしがみついていた。


「あの時はありがとう! 私の名はアレッサンドラよ。今度こそ名前を聞かせてちょうだい」


 アレッサンドラはエルベルトの返事を待たず、彼を引っ張っていった。


「エレナ! 見て、この人よ。例の、私の騎士様!」


 アレッサンドラが女性にエルベルトを紹介する。それは彼が城壁で出会った赤い帽子の女性だった。彼女の顔から、血の気が引くのをエルベルトは見逃さなかった。彼女の手は、微かに震えてグラスを探している。


「そう。……奇遇ね」


 彼女の声は平坦だった。


「プラジオクレース子爵、改めまして、初めまして。大公国のタフ伯爵エレナです。以後よろしく。そしてあなたの腕にしがみついているのは、帝国のイネサイト子爵令嬢アレッサンドラです。こちらもよろしく」


 感情のこもらない声でエレナが自己紹介する。


「僕はプラジオクレース子爵エルベルト……。なんで僕のことを知っているんですか?」


 エレナはそれには答えず、言葉をつづけた。


「エルベルト様。アレッサンドラは、一度言い出すと聞かないわ。あなたを困らせてしまって、ごめんなさい」


 無邪気にエルベルトの腕を取るアレッサンドラ。タフ伯爵エレナとイネサイト子爵令嬢エレナは、かつて帝国首都ワプティアで姉妹のように育った仲だった。エレナにとって、アレッサンドラは自分の真似をして背伸びをしたがる、愛すべき妹のような存在だった。


 アレッサンドラは得意げにエルベルトの腕を胸に寄せる。彼女の髪が頬に触れる。柔らかくて、ひどく軽い。エルベルトは、エレナの視線が自分の手元に落ち、すぐに逸らされるのを見た。


「あの、今日の肉料理、少し塩辛くないですか?」


 エルベルトは、場違いな言葉を口にした。 エレナは答えず、一口、ワインを飲み込んだ。


 三人はすぐに親しくなった。アレッサンドラはいつもエレナと一緒にいて、アレッサンドラがエルベルトを気晴らしの遊びに誘うのだ。


 三人が親しくなったある冬の日、ホルンフェルス近郊のエルベルトの別荘へ馬車で出かけた。アレッサンドラが早起きして作ったバスケットには、帝国の家庭料理である肉とキャベツなどの具材を生地で包んでオーブンで焼いたピロシキや林檎を砂糖で漬けたヴァレニエなどが詰まっていた。


「エルベルト様、あーんして!」


 はしゃぐアレッサンドラを、エレナは少し離れた場所で苦笑しながら見守っている。


 風が吹き、エレナの赤い帽子が少し傾く。アレッサンドラはそれを直してあげるふりをして、自分の頭に少しだけ載せてふざける。


「ねえエレナ。この色、私にもいつか似合うようになるかしら?」


 エレナは笑いながら言った。


「もう少し成長したら、アレッサンドラに赤が似合うようになるわよ」


「そうかな。楽しみ」


 そう言ってアレッサンドラは明るく笑った。


 帝国と大公国の戦争はすぐに決着がつくと誰もが思っていた。しかし長期化する戦争は帝国の軍事的な弱さを国際的に露呈し、威信を大きく傷つけていた。


 帝国皇帝ジュゼッペは早期の和平の可能性を模索を、ホルンフェルスに滞在するイネサイト子爵令嬢アレッサンドラに命じた。


 一方、大公国政府、特に外務卿ノジュール子爵らは、この接触を極めて慎重に受け止めた。軍事状況はリソスフェア地峡での防御線の崩壊が時間の問題であることを示しており、西の連合からの大規模な支援も絶望的になっていた。和平の道を探ることは、主権を守るための最後の手段となりつつあった。


 しかし、国民の士気は依然として高く、「一寸たりとも領土を譲るな」という声も強かったため、政府は秘密裏にこの交渉を進めざるを得なかった。大公国政府は、この帝国の提示を一旦受け、帝国側の真の意図と譲歩の余地を探ることを試みた。その任を託されたのがタフ伯爵エレナである。


 昼のエレナの屋敷の執務室は、書類の埃と、インクの匂いが充満している。 エレナとアレッサンドラは、机の上の地図を挟んで向かい合っていた。


「皇帝陛下は、リソスフェア地峡の広範な領土割譲と、コランダム半島に帝国の要塞を築くことを求めているわ。これは譲れない条件よ。私はあなたの国を救うために、この条件を提示しているのよ、エレナ」


 アレッサンドラは、茶菓子として用意された乾燥イチジクを、爪で小さく削り取った。彼女の声に、三人でいるときのような無邪気さはない。


 だが心の中ではこんな残酷な要求をする私を、エルベルトが知ったらどう思うだろうという恐怖が渦巻いている。冷徹な外交官を演じるほど、彼女の心は彼から遠ざかる感覚に苛まれる。震える手が無意識にドレスの裾を強く握りしめてしまう。


「……リソスフェアは大公国の文化発祥の地よ」


 エレナは、地図上のリソスフェアを陶器のような指先でなぞり、手元の冷めた紅茶に視線を落とした。外交の場でもアレッサンドラに対して、エルベルトと心を通わせ始めている罪悪感を感じてしまう。


「わかっているわ。でも、皇帝陛下は怒っていらっしゃる。大公国がこれ以上粘っても、冬が明ければ……」


 アレッサンドラは言いかけて、唇を噛んだ。

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