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さよなら、私の愛した刻  作者: 万里小路 信房


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1、赤い帽子の貴婦人

 大陸暦三四〇年一月。リトセラス王国の首都ホルンフェルスの石畳は凍結し、馬車の車輪が軋むたびに、不快な高音が鼓膜を刺す。街全体が冷たい湿気に包まれていた。


 プラジオクレース子爵エルベルトは、城壁の塔へと続く石段の踊り場で足を止めた。 上の方に、女がいた。 日が傾きかけるオレンジ色の光の中で、彼女の被った赤い帽子が、凝固した血のように鮮やかだった。藍色のドレスの裾が、風に煽られている。


「……冷えますね」


 エルベルトは声をかけたが、吐息はすぐに霧となって消えた。女が振り向く。その瞳は、冷えた硝子玉のようだった。彼女は手袋をはめた指先で、帽子の端を小さく直した。


「リトセラスの人は、暇なのね」


 彼女の喉は意外と低い声だった。


「こんな寒い日に、わざわざこんな場所を出歩くなんて。お城のダンスパーティーの準備はしなくてよいのかしら?」


 エルベルトは自分の指を絡め、関節を鳴らした。


「ここから見える景色が好きなんです。街の外を眺めるのが……。あなたの瞳、見たことがない色だ」


 女は優雅に冷笑した。視線を街のそとの針葉樹へと戻す。


「お安いお言葉。お酒の匂いがするわ。リトセラスの貴族様は、戦争の火の粉を避けながら、酔った勢いで女を口説く余裕があるの?」


 彼女が横を通り過ぎる際、微かな香水の匂いが漂った。清楚な花の香りだった。エルベルトの鼻腔に、その冷たい残り香が張り付いて離れなかった。


 この時期世界は凍てついていた。帝国は大公国へ侵攻し、周辺諸国は中立の姿勢で戦況を見守っている。大公国のリソスフィア地峡では帝国軍の騎士団と歩兵、そして攻城兵器が集結し、小国である大公国の息根を止めるべく大攻勢の準備を整えていた。


 しかし鉄と血の匂いが漂う前線から遠く離れた中立国リトセラスの首都、ホルンフェルス。そこはまるで別世界のように、灯火に彩られた優雅な夜会が繰り広げられていたのだった。

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