第4話 キラキラ
そうして、次の日の夜中。わたしは荷物を詰めたトランクを両手で抱えて、こっそりと廊下を歩く。
まずはアンディ兄様の部屋へ。
もう、この家に帰ることはないかもしれない。
そう思うと、一瞬、幼いころの優しかったお父様とお母様の記憶が胸を過った。ちょっと色々と心に引っかかりはしたけれど……。
幼いころは、わたしの話をちゃんと聞いてくれたんだけどな、お父様もお母様も。
いつから今みたいに、ご自分の思い込みばかりになって、わたしの話をちゃんと聞いてくれなくなったんだっけ……?
何か、これと言って、きっかけのようなものは思い出せない。
多分、何かがあったと思うんだけど、記憶に靄のようなものが掛かっているみたい……? 単に過去のことだから、忘れてしまっただけ……? うー……?
……まあ、今は、いいや。今はそれどころじゃないし。
昔はどうであれ、今のお父様とお母様は、わたしの話をちゃんと聞いてはくれない。
その事実だけが、ある。
だから、ごめんなさい。
でも、さようなら。
わたしは家を出ます。
ノックはしないで、そっとアンディ兄様の部屋の扉を開ける。
「入っていいよ。あ、だけど床の線は踏まないで」
アンディ兄様は、床に何やら文字や絵らしきものを描いていた。何だろう、これ。
「兄様……?」
「まだ完成していないから、ちょっと待って。鞄はその辺に置いていいよ。飛ぶまでちょっと時間、かかりそうだし」
開けられたままの窓から差し込む月明り。
その月の光に照らされたアンディ兄様は、何故か、どこか別人のように見えた。
「完成? 飛ぶ?」
「そう。今ボクが描いているのは魔法陣。この今の体できちんと魔法が発動するかどうかわからなくて、ちょっと実験してみたけど……」
「今の……体?」
自分もことを、まるで他人のように言う、その口調。
まるで、他人がアンディ兄様の体を操っているような……。
一瞬、ぞっとしかけたけど。
ちょっとわたし、ナーバスになって、考えすぎになっているのかな……。
考え込みそうになったわたしに、アンディ兄様は突然話題を変えた。
「ニーナは、リアム・リードーマって名前は知っている?」
わたしはちょっと考えてから答えた。
「リアム・リードーマ……。あの、五百年前に実在したという伝説レベルの魔法使い?」
だけど、その伝説の魔法使いが何だろう……と思ったら。
アンディ兄様はいきなり真顔で言った。
「うん、そう。それ、ボクのコト、なんだよね」
「は?」
五百年前の、超有名、歴史書とかに名前を残しているような、伝説の魔法使いが……アンディ兄様?
何だ、それは。アンディ兄様は突然何を言い出したの?
まさか、前世が有名魔法使いでしたとか、そういうことを言いたいの?
「この魔法陣も、かなーり昔、ボクが開発したもので、ここで魔法を使えば、一気に隣国くらいまで、飛ぶことができる」
隣国?
飛ぶ?
わたしはアンディ兄様の言葉がわからなかった。
あ、ううん、言葉の意味自体は、分かる。だけど、魔法で隣国まで飛ぶという言葉に意味するところが分からない。
「……なんだけど。うーん、ちょっと魔力が。今のボクの体では、やっぱり足りないかもな……」
しばらく魔法陣を眺めて、その魔法陣の隣に、別の魔法陣をアンディ兄様は書き出した。
「ちょっと待ってて、ニーナ。ニーナも魔法が使えるように、こっちの魔法陣を組み立てちゃうからさ……」
アンディ兄様の言っている意味が、ますます分からない。
わたしが、魔法を、使えるように……って、どういうこと?
「わ、わたし、魔法なんて使ったことなんてないけど……」
そんなものが使えるんだったら、リチャード様に言われっぱなしになってないで、反撃とかしてたけど⁉
「あー、うん。基本的に、人間っていう生き物は、誰でも魔法が使えるんだよ」
「え?」
「だけど、魔法を使えるようになるための魔法器官は、普通、体の奥底で眠っている。それを起こさないと、魔法は使えないんだ」
魔法陣を書き終わったアンディ兄様が、わたしの手を掴む。そして、書き上げたばかりのほうの魔法陣の真ん中にまで、ふわりと飛んだ。
「これは、魔法器官を起こすための魔法陣」
魔法陣の中央で、アンディ兄様とわたしは近距離で向かい合う。
そして、アンディ兄様がわたしの手を取った。
「今から、この魔法陣の上で、ボクがニーナの体に魔力を流す。ニーナは怖がらずに、その流れを感じてくれればいい」
「わ、わかった……」
わからないけど、わかったと、わたしは思わず言ってしまった。
信じられない気持ちはある。だけど、アンディ兄様の目が真剣だったから。
「じゃあ行くよ」
アンディ兄様の掌から、ゆらりとした水の流れみたいなものが、わたしの体の中に入ってきた。
「な、に、これ……」
これが、アンディ兄様の、魔力?
「怖がらないで。そのまま流して。その流れを感じて」
「う、うん……」
大丈夫、大丈夫。アンディ兄様はわたしを傷つけるようなことはしない。
心の中で何度も繰り返す。
繰り返しと、ゆらりとした流れは、わたしの腕を通り、肩を過ぎて、体の中心……お腹というか、お臍の奥に溜まっていった。
温かい感じ。水というよりもお湯の流れ?
お腹に到達した流れは、足の先へと更に進み、それからわたしの全身を巡っていった。
すると……。
「わあ……」
「見えた?」
流れが、目に到達した途端、わたしの視界は一変した。
キラキラと、輝く金色の光。
それが、見えた。
「きれいだろ」
「うん……」
ああ……。今までのわたしの目には見えなかった。
だけど、世界には、空気のように、わたしたちを取り巻く金色の光がある。
「これが、魔法の世界だ」
人も、空気も、机も床も、何もかもがキラキラとしている。何もかも……、そう、わたしも、アンディ兄様も、だ。
「一度、認識したら、もう見えなくなることはない。見たいと思えばいつでも見える」
「ずっとキラキラしてたら目が痛くなりそうだけど……」
「あはは、そうだね。意識を切り替えるんだよ。魔法を使うときは、このキラキラの状態で魔法を使う。普段過ごすときは、いつも通りの視界でいいんだ。キラキラなしで大丈夫」
「意識を……、切り替える……のね。魔法を使うときは、このキラキラが必要……」
「うん。そう、理解が早いね。このキラキラなしで魔法を使うこともできるけど……かなりの力技になるし、魔法の法則に沿っていないから。無駄が多い感じになる。だからボクはそういうことはやらない」
アンディ兄様は、わたしの手を取ったまま、ふわりと浮いた。
「さ、じゃあ始めるよ。ニーナはこのキラキラが見える状態を、ボクがいいよって言うまで保っていて」
「はい」
アンディ兄様が片手をわたしから離して、そして、床に置いた鞄を、触れないで、すいーっと浮かせた。浮いた鞄は、ゆっくりと旋回するみたいに、わたしの側に飛んできた。
わあ、魔法だ!
「遠距離跳躍の魔法を使う。鞄は右手で持って」
「はい、兄様」
「左手を、ボクと繋いで」
こくりと頷く。
「キラキラを、意識して。ボクの意識を支えるという感じで、同調して」
魔法陣がキラキラと輝きだす。
そのキラキラが集まって、虹のような流れを作り出していった。
「この橋を渡っていくみたいに、向こう側に飛ぶんだ」
わたしが虹と表現したモノを、アンディ兄様は橋と言った。
だけど、示しているモノは、同じ。
「橋を渡って、どこに行くの?」
わたしは聞いた。
「隣国、ブライトウェル魔法王国。そこが、ニーナの家出先だよ」
アンディ兄様がにっこりと笑って。そうしてわたしたちはブライトウェル魔法王国まで、一気に跳躍をした。