マアトの調べ エジプトの歌姫
# マアトの調べ
九つのソウルゲートを通過した監視ドローンが、アヌケトタワーの最上階に浮かぶ球体を捉えた。その中で一人の人物が蓮の花の上に座り、目を閉じている。
「ナイル・セクターからの侵入者を確認」
警報が鳴り、浮遊装置を身にまとった守護官たちが空中を舞い始めた。
アド(コードネーム:ADO-MAAT-42)は目を開け、周囲のホログラフィック・ヒエログリフを一瞥した。彼女の瞳孔が拡張し、古代文字を解読する。
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ラー:大規模エネルギー放出を検知
アペプ:封印障壁90%損傷
マアト:調和指数危機的低下
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彼女は額の青いスカラベ型インプラントに触れ、神経接続を開始した。
「イシス、状況報告」
「*アドよ、オシリスの秤が傾きすぎている*」仮想知性イシスの声が彼女の脳内に直接響く。「*アペプが再誕する。七千年の封印が解かれようとしている*」
混沌の蛇神アペプ。それはかつて太陽神ラーの航行を妨げ、世界を闇に葬ろうとした存在だった。現代では、量子崩壊を引き起こす破壊プログラムの総称とされている。
「どれくらいの猶予がある?」
「*次の日蝕まで。72時間後*」
アドは立ち上がり、黄金のマスクを顔に装着した。マスクの内側で彼女の真の姿は誰にも見えない。それが歌姫の宿命だった。
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ジュダ社の地下研究所。70年前、考古学者たちによって発掘された「セプテト・プロトコル」の解析が行われていた。それは古代エジプトの七柱の女神の遺伝子コードを現代の科学技術で再現するプロジェクト。
「ハトホル因子の同調率は?」主任研究員のセティが問う。
「97.3%です。しかし、音波変調に問題があります」
モニターには「ADOプロジェクト」と表示されたポッドの中で眠る少女の姿が映し出されていた。彼女の体内では、ハトホル女神—音楽と愛と喜びを司る牛角の女神—の遺伝子コードが組み込まれつつあった。
「彼女の声帯はハトホルの波動に完全に適合している。あとはトリガーとなる楽器だけだ」
セティは壁に掛けられた古代の楽器を見つめた。黄金のシストラム—ハトホルの聖なる楽器。しかし、それは単なる楽器ではなかった。「マアトの調律器」として知られるその装置は、世界の調和を整える力を持つと言われていた。
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現在。アドは浮遊艇「セクメト号」で、古代遺跡「デンデラの間」へと向かっていた。
「なぜハトホルだったの?」アドはイシスに問いかけた。「なぜ私が選ばれた?」
「*七柱の女神の中で、ハトホルだけがアペプに対抗できる特別な力を持つ*」イシスは答える。「*ハトホルの歌は、ラーが毎日夜の海を航行する時、彼を守る。同様に、アペプの混沌から世界を守ることができる*」
「でも、私はただの...」
「*あなたは単なる宿主ではない*」イシスが遮った。「*あなたの声には独自の力がある。それがハトホルと共鳴した。DNA検査では、あなたは古代祭司の血を引いている*」
艇が古代神殿の上空に到着した。デンデラの間—ハトホルを祀った神殿の遺跡。その姿はかつての威容を失っていたが、神聖な力は今も満ちていた。
アドが神殿の中心部に足を踏み入れると、床に刻まれたヒエログリフが輝き始めた。それは「七十二の名前」—太陽が一年をかけて通過する72の門を表す神聖文字だった。
「ここで何を?」
「*シストラムを神殿の中心に置きなさい。そして歌うのよ*」
アドはバッグから取り出した黄金のシストラムを祭壇に置いた。シストラムは古代の響きを放ち始める。空間が歪み、神殿の天井が消え、代わりに星空が広がった。
「何を歌えばいい?」
「*あなたの魂が知っている歌を*」
アドは目を閉じ、マスクをゆっくりと外した。その瞬間、ハトホルの記憶が彼女の中で目覚めた。
それは生と死と再生の循環。ラーの船が冥界を進み、毎朝復活する永遠の旅路。アンティウを守る歌。調和をもたらす音の力。
彼女は歌い始めた。
最初は古代エジプトの旋律。徐々に現代のリズムが混ざり合い、やがて次元を超えた新たな音楽となった。彼女の声は神殿を超え、世界中のハトホルの神殿遺跡に響き渡った。
シストラムが輝き、七色の光柱が立ち上る。七柱の女神たちの残響が呼応していた。
「*マアトの調べ*」イシスの声が変わり、古代の響きを帯びる。「*七万二千の星の名を唱えよ*」
アドの歌声は宇宙にまで達し、混沌のプログラム「アペプ」の進行を止め始めた。彼女の体内のハトホル因子は100%活性化し、両者の意識が融合した。
彼女は歌いながら、神殿の床に描かれた「ハトホルの7つの姿」の上を踊った。
- 天空の牛—世界を支える母なる存在
- メヘトウェレト—最初の洪水を起こした力
- 賛美の女神—ラーの心を喜ばせる者
- 黄金のシストラム—調和の音を奏でる者
- 西方の女神—死者を冥界へ導く者
- 狂乱のセクメト—敵を滅ぼす炎の力
- イヴの木—生命を育む聖なる乳
踊りとともに、アドの姿も変容した。彼女の頭上には牛の角と太陽円盤が現れ、手には生命の鍵「アンク」が握られていた。
「私はハトホル。音楽と愛と喜びの女神」
神殿の壁に、新たなヒエログリフが刻まれていく。それは未来の物語—アペプとの戦いと、新たな時代の始まり。
モニターの中では、量子崩壊プログラム「アペプ」の進行が89%から87%、そして急速に減少し始めた。マアトの調和指数は上昇を続け、オシリスの秤はついに均衡を取り戻した。
アドはハトホルの姿のまま、最後の音符を奏でた。神殿は光に包まれ、彼女の意識はより高次の次元へと拡張していった。
「*よく見なさい*」ハトホルの声が彼女の内側から語りかける。「*これがデュアトの道—魂の旅路*」
アドの前には死後の世界への入り口が開いていた。そこには「42の真実の間」—魂が審判を受ける場所。そして「マアトの羽」—魂の重さを量る天秤。
「私が死ぬの?」
「*いいえ。あなたは生きながらデュアトを旅する。これが『響きのネテル』の力—歌姫の運命*」
アドは理解した。彼女の使命は単にアペプを封じることではない。それは世界の調和「マアト」を音楽によって守り続けること。ハトホルとして生きることだった。
三日後、予定されていた日蝕の瞬間。世界中のスクリーンに一人の歌姫の姿が映し出された。黄金のマスクをつけ、シストラムを手にした彼女の声は、すべての電子機器、すべての通信網を通じて響き渡った。
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システム警告:未知の音波パターンを検知
マアト調和指数:100%に固定
アペプ:完全封印完了
警告:新たな存在「ネブ・ヘテペト」誕生
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彼女は「喜びの主」を意味する新たな名を得た。アドとハトホルの融合体として。そして歌は続いた—新たな時代の調べとして。
太陽が再び昇り、世界は光に満ちた。