第4話(1/2):陰陽術と量子暗号
エントロピー増大の法則。それは宇宙の絶対原理である。
これはつまり、稀少価値の高い秩序ある状態が時間の経過に伴ってありふれた無秩序に崩壊していくことを意味している。
例えば、砂を捏ねてコンクリートを練り高層ビルを作れば都市を作ることができる。
しかし、そこから人が消え数百年数千年と経過すれば都市は砂漠になるだろう。
コンクリートもそれを積み重ねた高層ビルも勝手に出来上がることはない、珍しい物質の並び方の結果である。
しかし砂地は勝手に作られ、どこでも見ることができるありふれた状態だ。
他にも、牛乳だけの状態は希少価値が高く、コーヒーだけの状態も希少価値が高いが、それを同じ場所に入れれば希少価値のその両方が均一に混ざりあったコーヒー牛乳になる。
この作業はとても簡単だが、逆にコーヒー牛乳を再び牛乳とコーヒーに戻すことは難しい。
この当たり前を意味する言葉が、エントロピー増大の法則である。
では、世界におけるエントロピーとはなにか。
それは平和だ。
平和とは極めて希少価値の高い状態だが、放置されればいずれ秩序が乱れ無法ははびこるようになる。
この世界法則を形作るシステムが魔物であり、その王たる魔王だ。
ところで、物理学には長くマクスウェルの悪魔と呼ばれる不思議な考えがあった。
それは、このエントロピー増大の法則を覆す方法である。
先程のコーヒー牛乳を考えよう。
コーヒー牛乳で満たされた大きな容器の中央に小さな扉のついた仕切り板を置く。
この仕切り板の上に扉の操作が可能な悪魔が存在するとしよう。
悪魔は右片方の中から牛乳の粒が左に流れようとした一瞬を見計らって扉を開き左に流し、一方で左片方の中からコーヒーの粒が右に流れようとした一瞬でこれを右に流す。
これによりいずれコーヒー牛乳は完全に牛乳とコーヒーに戻るだろう。
そしてこの悪魔は、ただ扉を操作しているだけで、コーヒーにも牛乳にも調節触れていない。
つまり、エネルギー介入を行なわずエントロピーを減少させたということになるという理屈だ。
そして、異世界との扉を開いて世界の秩序のエントロピーを調整する存在が、転生の女神達だ。
さて。時に世界は予測しない形でバランスを崩壊させてしまう。
生物の進化が極めて低確率な突然変異の繰り返しで起きるように、非常に低確率でこそあるが、女神による介入ではとても打ち倒すことができない力を持った魔王が現れてしまうこともありえる。
その世界に現れた魔王は確かに圧倒的な力を持っていたが、単純な強さで言えば最上級というだけで決して倒せない相手ではない。
その魔王が究極たる理由。
それは、常軌を逸した再生能力だった。
体の破片が1粒でも残っていれば再生してしまう魔王を滅ぼすには圧倒的な力が必要であり、事ここに至ってはもはや神々による直接介入でしか魔王を滅ぼすことは不可能ではないかとすら考えられはじめていた。
しかし。
「いやはや、神々も怠慢なこと。
もはや人間がかわいそうにすら見えてくる始末。
何度挑んでも魔王様に勝つことなどできようはずがないのに」
「それはどうかしら」
「そ、その声……クズハか! おのれ、魔族の裏切り者め!」
彼女の名はクズハ。
魔王配下で最強と謳われた妖狐である。
そして今は、勇者パーティの一人だった。
「通してくださる? それに、あなたも言っていたじゃない。
魔王様は強すぎてつまらないと。
見たくなくて? 魔王様が倒れるところを。
第一……あなたで私が倒せて?」
「……ふん。好きにするがいい。
どうせ結果は見えておる」
こうして玉座の前に進んだクズハと勇者パーティ。
魔王のプレッシャーは圧倒的で、戦力差は歴然。
戦いは一瞬で終わる。
「万物流転、陰陽反転、急急如律令」
それは、強化と弱化を反転させるシンプルな術だった。
術は魔王の再生能力を反転させ、一瞬で魔王の自壊を誘発させた。
陰陽術の究極は世界の理を書き換える。
そして陰陽師ハオランは伝説になった。
異世界最強の陰陽師ハオランが現れたのは、ゲランの総統府だった。
共に転移させられた式神クズハ共々、親衛隊に取り囲まれ銃口と突きつけられるハオラン。
この程度ならばまだなんとでもなる。
問題は、まるで情勢がわからない中、明らかに貴族が王族の屋敷と思われるここで大立ち回りをしてしまうことで、この先の動きが取りにくくなることへの懸念だった。
「ハオラン様、ここは私が」
「待て、クズハ」
ハオランは周囲を囲む親衛隊の銃に着目する。
(銃にはそれほど詳しいわけではないが、明らかに僕の知る最新式の小銃だ。だというのに)
目の前に掲げられた旗は、寺院の地図記号にも似たおなじみのあのマーク。
(やれやれ、吸血鬼とでも戦わされるのか? 僕は)
「全員銃を下げよ!」
ハオランの目はまず現れた男の小脇に抱えた板に行く。
長く目にすることがなかったタブレットだ。
小銃とあわせて考えれば、ここは限りなく現代に近い世界。
実際にどれだけの転生者にやる気があるかはわからないが、この世界で僕達はデスゲームに挑まなければならない。
その際に脅威となるのは明らかに他国の転生者達よりもその転生者を擁する国の近代装備だ。
魔族の軍はせいぜい数千だった。
これからは数万以上が当たり前。
明らかに手数が足りず、しまいには戦術核を持ち出されたらいかにクズハと言えどうしようもない。
神々の下衆な遊びに付き合ってやる義理はなく、何か特別な野心があるわけでもない。
今考えること。
それはただひとつ。
『……殺せ。せめて魔族の誇りは守らせてくれ』
『いや、それは飲めないな。妖狐クズハよ』
思い起こされるのはかの世界で最も苦戦したあの戦い。
その最後で僕は。
『なっ……き、貴様!? 何を!?』
その妖狐の前に傅き、手の平に口づけをした。
『共に生きよう、クズハ! 一目惚れだ!』
そうだ、どんなに運命を弄ばれようとも、僕の最重要目的はクズハを守り共に生きること。
ならば、ここが僕の知る悪の枢軸であっても。
いや、むしろ悪の枢軸だからこそ。
(都合が良い)
ハオランは口元を扇で隠して笑う。
「親衛隊隊長、ホムラである。貴様、何者だ?」
隊長を名乗る男の喉元に食いつかんと構えるクズハを片手で制し、ハオランはクズハの時と形だけは同じく片膝をつき頭を下げた。
「異界の陰陽師、ハオラン。
神に選ばれし総統閣下の助力を行うべく、ここに参上致した」
こうして異世界の最強陰陽師は、悪の手先となった。
ホムラ直属でハオランが親衛隊に加わったのは2025年。
氷の魔女キリアも怪盗Nも未だ世界に現れたばかりで、メーメ割譲に始まるゲラン軍の攻勢もまだ準備段階だった。
演習では簡易自律式の式神召喚を駆使し最新型の戦車大隊とも渡り合ったハオランとクズハだったが、これから始まる世界大戦の規模を考えれば最強の歩兵となることが彼らの適材適所でないことは自明だった。
小規模な戦場での無双など、これから始まる世界大戦に与えられる影響力としてはほぼゼロに等しい。
なにより、クズハを泥臭い戦場につれて行きたくないこともある。
そんなハオランが目をつけたのが、同じ親衛隊直属のスーパーハッカー集団だった。
これからはじまる世界大戦において、情報の価値は極めて大きなものになる。
それを直接掌握することは、戦いの流れを大きく動かし、影響力を示すことができるだろう。
なにより、核シェルターを兼ねた地下のコンピュータールームは、ある意味この世界で最も安全な場所だ。
元々ハオランは中堅企業のプログラマーだった。
ただ、言わずもがなハッキングの経験などない。
何をやっているかはわかっても、それに自分が加わることは到底できない。
それでもハオランには、あるひとつの仮説があった。
「クズハ」
「は、はい。こんっ。
失礼しました、ハオラン様、何か」
コンピューターという未知の道具を不思議そうに覗いていたクズハがかわいらしい咳払いを挟んでこちらに振り向く。
興味を持つということは、やはり。
「君は、この中に入ることができるんじゃないか?」
「えっ? こんな小さい箱にですか?」
クズハは肉体を持った妖狐だったが、一度倒された今の体は仮初のもの。
今の彼女は式神であり、それは魂そのものを情報として管理している状態にあると言える。
言ってしまえばその美しい体はすべて0と1のプログラムで構築されたポリゴンだとも言えるだろう。
もしもその体をプログラムに書き換えることができれば、クズハは「電子の海を渡り歩く意思を持ったソフトウェア」になる。
彼女を思えばこそ不安にもなるが、試す価値はある。
それからしばらくはクズハにプログラムの初歩を教える日々だった。
かつて異世界で出会い、ハオランに魔術の初歩を教えたエルフの魔法使いは言った。
魔術とは、イメージであると。
すなわち、チート能力を用いず何か魔術的な現象を行使したい場合、まずは対象を深く理解することが必要だということだ。
炎魔法なら炎を、水魔法なら水を理解する。
雷魔法使いが稀少なのは電気のない異世界で雷に触れる機会が稀だからで、重力や中性子、ダークマターを操る闇魔法の使い手が魔族に限られるのはそれらを人類が理解できないからだ。
そして、プログラムの基礎を理解しイメージが可能になれば、クズハは言わば「プログラムの魔法」が可能な素質を持っているはずと考えたわけだ。
そしてこの予想は、正しかった。
意思を持ったソフトウェアに化ける妖狐クズハは、たった1人で超級のハッカー100人に匹敵する働きを見せた。
それは後の電子戦にて最強のゲランを支える力となるのだった。