第3話:解錠魔法とRSA暗号
魔族に対する人類の優位性とは何か。
基礎体力、魔力、寿命のすべてで人間を超越する魔族が、人間に勝る決定的要素。
それは、個々の感情を排斥し合理主義で行動できる点にあった。
数多の小国に分かれ、国の中でも貴族と農民での搾取構造が存在し、魔族と戦うべき大国でも同じ人間の国との戦争が回避できない。
それが感情で生きる人間である。
一方の魔族は合理的状況分析において最初から最後まで一枚岩であり、時に起こり得る反乱も合理性の結果の行動。
その反乱で魔王が倒れればすぐさま再び全勢力が新魔王の元でまとまるという、人間にしてみれば考えられない統治が可能となっていた。
そんな魔族に人類が勝利する鍵。
それが、文化だった。
芸術と信仰。そこに合理性は存在しない。
だが人類は、ただの偶像の中に神を見つけ、長きにわたる魔族との戦いにおける心の礎としてきたのだった。
合理を極めた魔族には、その人間の不合理がまるで理解できず、それ故に局所的では敗戦が続くこともあった。
だが今回の反乱で魔王の座を勝ち取った新魔王は違う。
新魔王は、人類の反抗の根源が文化にあることを見出したのだ。
そして、魔族にとってみれば何の価値もない芸術品の数々を世界中から略奪し、人類の戦意の根源を折ろうとしていた。
こうして世界中からの財宝が集められた魔王城は通称人類美術館とも呼ばれており、新魔王の支配の象徴だった。
「どうだ、此度の略奪は」
「無論、成功にてございます。
聞けばかの像は、人間たちには国を越えて信仰の対象となっていたものらしく。
これが略奪されたことで北欧諸国の団結は乱れ、略奪を許した国は周辺からの懲罰戦争の対象となったとか」
「ははは。人間とはなんと非合理な存在か。
わしにはただの石の塊にしか思えんわ。
しかし、こうして世界から略奪した品々を見ることが、最近は楽しみになってきておる」
「それは魔王様が、芸術を理解されたということでしょうか?」
「いや、さっぱり理解できん。
だが、その影にある人間の怨嗟が見えるようで、それが楽しくてのう。
人類美術館、良い名ではないか!
ははは! では今日も人類美術の鑑賞とまいろうか!」
宝物庫に続く厳重な結界を解除し、人類美術館に一歩足を踏み入れた瞬間。
魔王の足が止まる。
「な、なな……」
そこはまさにもぬけの殻だった。
残されたのは、ただ一枚のカードのみ。
魔王が震える手で拾い上げたそのカードに書かれていたものは。
――お宝はいただいたぜ、怪盗勇者N
それは、魔王50年の人類侵略が一瞬で無に帰した瞬間だった。
そして怪盗Nは伝説になった。
ブリタスの客将にして氷の魔女キリアが読んだ世界情勢の報告書モズローレポートに曰く、世界大戦の中で活躍している転生者の名は確認できなかった。
この世界の大戦に転生者の存在が影響を与えるのはキリアの参戦した2027年10月のブリタス湾海戦が初となるのだが、実はそれ以前に後の歴史に名を残しかねない活躍を残していた転生者が存在していた。
2026年8月。ゲランによるポーラ侵攻が始まった。
その先の花の都を持つランスを見据えての侵攻だったが、実はこの影でゲランには戦争とはまるで別の目的があった。
それが、芸術品の略奪である。
ゲランの総統は学生時代に与えられた無力感から芸術を憎んでいた。
彼の指示を受けた親衛隊は、占領地の貴族邸宅に押し入り、表向きでは後の外貨獲得手段として利用するための名目で貴重な絵画彫刻の略奪を繰り返す。
ポーラにこれに抗う術はなく、無抵抗のまま略奪が繰り返されるかに思えた。しかし。
「門を開けろ! 親衛隊だ!」
「げ、ゲランの!? まだ我が家から搾り取るつもりか!?」
「逆らえばどうなるかわかって……ん? 待て。今なんと?」
「何を寝ぼけたことを! 昨日既に目ぼしい絵画を奪い去った後ではないか!」
「なんだと? どういうことか!? ええいそこをどけ!」
邸宅内に押し入る親衛隊。
しかし確かに目ぼしい絵画はすべて奪われた後。
そんなやり取りが何度も続くうちに、親衛隊は自分たちの名を騙り泥棒行為を行う悪党の影に気付く。
時には親衛隊、時にはポーラ政府、時にはブリタス美術館のキュレーターを名乗り先んじて芸術品をかすめ取るその悪党に、親衛隊は未知の自然数を示すNをあてがい、怪盗Nのコードネームをつけていた。
奇しくもそれは、さる異世界で魔王城の人類美術館に収められた芸術品のすべてを盗み出し人類叛旗のきっかけを作った大怪盗が自ら名乗った名前と同じだった。
しかし、当の本人が何故自らを怪盗Nと名乗ったかといえば。
「んーむ。盗賊に必要なチート能力フルセットを貰ったからには怪盗みたいなことをやってみたいもんだが、怪盗と言えばやはり予告状とカードだよな。
となると当然名前をつけないといけないわけで。
ルパンは好きだが丸パクリは嫌だし、そういう有名な怪盗の名前をもじるのは嫌だなぁ。
シンプルな怪盗Xってのも好きなんだが、それすらもやっぱり嫌だし、YとかZとかずらすにも理由が微妙。怪盗っぽい英語一文字ってなんかないかな」
数学における未知の自然数N。
それは一見、変装を得意とする怪盗につけるにはふさわしい名前に思う。
実際問題数学におけるNの文字はXYZに続く有名な文字であり、中学まででまともに数学をやっていればすぐに思いついてもおかしくはない。
だが、彼は数学が大の苦手。
連立方程式すらおぼろげな鶴亀算で解き、それどころか2桁の数字の掛け算で既に渋い顔をするという大の数学嫌いだった。
そんな彼がNに至った理由は。
「まぁNでいいか。俺の名前、マサシだし」
という、マサシの頭文字であるNを取ったものだった。
そう、それならMになるはず。
しかし英語も苦手な彼は、NとMとLの順番が曖昧だった。
そんなどうしようもない理由で転生者マサシが怪盗勇者Nとして異世界を救ってしまうのだから、本当にチートというものは都合がいいものだ。
そんなマサシこと怪盗Nでもこの世界が自分の知る第二次世界大戦の焼き直しであることには気付けるのだから、日本の義務教育もまだ完全敗北には至らない。
とはいえ戦争の詳細な流れは完全に曖昧な彼がもしもキリアと同じモズローレポートを読んだとしても、平和なロシアや独立したインドには何の疑問も挟まないだろうから、やはり義務教育は敗北しているのかもしれない。
さて。数学も英語も歴史も苦手な怪盗Nが元の世界で好んでいたもの。
それは、都市伝説だった。
信じるも信じないもあなた次第。
そんな言葉にどこかロマンを感じてしまうNが特に好きだった都市伝説が、ナチスの黄金列車だった。
芸術品を略奪したナチスが敗北間際になってその膨大な芸術品と共に隠したという黄金列車。
怪盗Nを名乗るなら、実際にそれを盗んでしまうというのはまさにロマンの塊と言う他ないだろう。
しかし大戦ははじまったばかり。
これが何年続くのかNにはわからない。
どれだけ待てばナチスが黄金列車を隠す年が来るのかもさっぱりという状況。
ならばもう、ナチスに先んじて芸術品を盗み出し、戦後にそれをしれっと返還し堂々と名声と小銭を手にしようというのが、Nの描いた小さな大計画だった。
当然、他の異世界転生者と戦うつもりなどない。
異世界転生者は別に魔王を倒す宿命があるわけでもなく、スローライフをしてもいいのがお約束。
神々の遊びなど知ったことか、転生者は自由なのだ。
「足元で~絡みつく~」
鼻歌を歌いながら郊外のアジトへの帰路につくN。
今日の稼ぎも上々だ。
そういえば今日の絵はなんだか見覚えがある。
西洋美術好きの友人が熱く語った絵のタッチの似ているようなそうでないような。
画家の名前は確か……メーメー?
なんか羊のメンヘラみたいな名前だと思ったがよく覚えていない。それにこの絵にはどうも違和感を覚える。
「スキル宣言、盗賊の直感」
久しく使用しなかったスキルを使用し、Nはため息をつく。
どうやら偽物らしい。まぁ、そんなこともあるか。
適当に倉庫に放り込もう。
こうしてアジトの前まで戻ったところで、Nの目の色が変わる。
「気配遮断。感知」
自分の気配と足音を消し、一方でアジトの中をドアを開くまでもなく探る。
相手は親衛隊か?
Nも盗賊とはいえ決して戦えないわけではない。
腰元からオリハルコンのナイフを引き抜き、時間無制限の影分身を4体同時に現出させた。
一瞬で無力化させる。
覚悟を決めたNがドアを開き、再びため息をつく。
「なんだ、マリアさんか。よくここに気付きましたね」
「Nさん!? これは、この盗品の数々は、一体どういうことなんですか!?」
「あー……えっとぉ……」
彼女の名はマリア・フェイレス。
転生者お約束のギャルゲー展開で出会ったポーラ政府のお偉いさんだ。
彼女との出会いと別れは数ヶ月前、この世界に来たばかりのこと。
「なんと、異世界の勇者様……
そんなお方がポーラに降り立ったとはまさに神の助け!
勇者様! どうかポーラ軍を率い、鬼畜ゲランから国をお救いください!」
「ごめんなさい。無理です。さようなら」
ある意味で最近のテンプレート的対応だが、それも仕方ない。
アイアンゴーレムは瞬殺できるが戦車は無理だ。
何故なら戦車には即死させるために切り落とせる首がないから。
なにより回避率を限界まで上げたとしても、数を揃えて飽和砲撃を受ければどうしようもない。
Nはこの世界では無双はおろかまともな戦いができないことを理解していたのだ。
というわけでマリアの元から逃げ出し、今の怪盗家業へとシフトしたN。
それでも彼も異世界主人公のお約束には漏れず、ヒロインを適当に投げ出したことにはどうにも後ろめたさがあった。
「あー……その……ほら、ゲランの親衛隊が芸術品の略奪をしてるじゃないですか。それで……」
「まさか、ゲラン親衛隊の美術倉庫からこれらの品を取り返してくださったのですか!?」
「え? いや……それは……」
「なんと……なんという!
流石は怪盗勇者の2つ名を持つお方!
私の提案を拒絶されたのは、自分の本当の役目をご理解していたからなのですね!」
「あー、うん。そう。そうそう! そうなんですよ!」
もう面倒くさいのでそういうことにして恩を売ってしまおうと決めたN。
異世界での一匹狼的生活に慣れた彼だったが、現実に近い世界に戻ったともなると一人ではいろいろと面倒なこともある。
特に、やはり現代に戻ったからにはスマホが恋しくなってしまうのは現代人の病気なのか。
マリアは政府高官。身分証明書とか国籍関係なくちゃちゃっと用意してくれるだろうという下心がある。
そうして後から駆けつけた回収班に倉庫を任せ、マリアと行動を共にするNだったが、ここでようやく見て見ぬふりをし続けていた現実を直視させられる。
国土の西側半分をゲランに蹂躙されたポーラの絶望的荒廃だった。
国民に物資が行き届かない状況を見るに、スマホが欲しいというのもなかなか言い出しにくい。
かといって、自分にできることがそう多くないのも事実だった。
確かに、盗賊としての各種能力を駆使すれば、ゲラン政府要人の暗殺だとか、そういうスパイのようなことも可能だろう。
だが実のところ、未だにNは人を殺したことがない。
それは人に近い形とした魔物のみならず、言葉を話す魔物も殺せない。
そのどうしようもない優しさが、怪盗勇者という奇妙な二つ名に至った理由でもあった。
スパイになれば、どうしてもどこかで人の命を奪わざるをえない時が来てしまう。
Nにはそれが耐えられなかった。
「すみません、本当はもっとしっかりしたところでおもてなしするべきなんでしょうが……私室でお許しください」
「いえ、それはそっちの状況もわかって……私室?」
Nは女性経験がない。
いつのまにか女性の部屋に案内されているという状況は字面だけはどこかラブコメ的だったが、現実は残酷だった。
政府高官であるはずのマリアの住まいとはとても想像できない貧しく空虚な部屋で、無造作に置かれた大型のコンピューターだけが異彩を放っている。
これが事実上の敗戦国、ポーラの現実だった。
「戦況、やっぱ最悪なんすかね……」
「そうですね。頼みの綱のブリタスとランスでも今のゲランの勢いは抑えきれず、聞けばついにあの花の都までもがゲランの手に落ちようという情勢です。
幸い、東のサヴィーナ連邦との関係こそ良好ですが、もはやそれが最後の救いと言ったところ。
ゲランの勢いは止まりません」
「そんなにゲラン軍は強いんですかね」
「そうですね。機械化大隊を中心とした電撃戦も脅威ですが、電子戦でも敗北が続き……」
「電子戦?」
「ハッキングですね。ゲランがこれだけの勢いで侵攻できる最大の理由は、超常の腕を持ったハッカー集団が軍内に存在することに起因します」
「なるほどなぁ。
現代戦はそういう戦いになるんすね……
確かに今のご時世、現実での侵略以上にメタバース的なインターネット空間への侵略も重要ってわけだ。
そんなん、余計に俺に出来ることなんて無いっすね……」
「剣と魔法の世界とじゃ、大違いですよね……
すみません、最初に無理言ってしまって」
ここに至ってNは、想像していたスパイ活動がもはや現代では存在しないことに気付く。
現代スパイに映画やアニメのスパイアクション的活躍はない。
活動の舞台は電子の海。
盗賊のスキルをカンストさせたNがスキルで上昇させる回避率で避けられるのは、安っぽいブラクラくらい。
それも転生スキルとは無関係に元の世界でエロ画像を漁るためにスキルを磨いたことに起因するものだ。
この世界で、チートなど役に立たない。
「それで、ここにもこんなドデカイコンピューターがあるんですね」
「はい。せめてゲランの暗号化技術を解読できれば……」
「暗号……あぁ、ゲームかなんかで見ましたね。エニグマってやつですか?
こんな、複雑な歯車がついた……」
「ははは。そんなのもう、90年近く前の暗号技術ですよ。
現代の暗号は、これです」
そういってマリアが見えたのは、数百桁の数字だった。
「なんすかこれ?」
「RSA暗号です。617桁のこの数字は、2つの素数の積なんです」
「ソスウノセキ……」
「この暗号を解くのは理屈は簡単で、その2つの数字を見つければいいだけなんですよ。
ようは、素因数分解すればいいんですね。
このRSA暗号が凄いのは、作るには桁数の大きい2つの素数を掛け算するだけという数秒で出来る作業なのに、それを素因数分解するにはスーパーコンピュータを用いても莫大な時間がかかるという点にあるんです。
リーマン予想ってご存知ですか?
数学の未解決問題の1つで100万ドルの懸賞金がかかっているんですけど、仮にこれを証明する人物が現れれば、その人物は100万ドルを手にして数学界に貢献するより前に世界のすべてのRSA暗号を解読し世界の電子通貨を独占してしまうだろうなんて言われてますね」
「へぇ。やっぱ数学ってよくわかんないっすね。こんな簡単な問題なのに」
「そうですね、理屈の上ではとても単純なんですけど……」
「いや、理屈っていうか、その2つのソスウって」
そう言ってキーボードに数百桁の数字をぱたぱたと入力してみせるN。
信じられないものを見るマリアが恐る恐る掛け算を行うと、それは完全に目の前の数列と一致した。
「これでいいんすか? じゃ、俺そろそろ帰りますね」
「ま、待ってください! Nさん、今一体何を……!?」
「何をって、ただ最上位解錠のスペルを詠唱しただけなんすけど……
俺なんか、まずいとこいじったりしました?」
連立方程式を鶴亀算で解くNに、数学的才能などあろうはずがない。
当然、彼がリーマン予想を解いたことにはならない。
だが、どんな鍵でも解錠する最上位解錠呪文は、現代のRSA暗号を瞬殺する。
あまりの衝撃から立ち直れないマリアを前に、異世界の勇者Nは、その言葉通り、自分が何をやってしまったのかわからずいた。
それほどまでに、勇者は数学が苦手だったのだ。
こうして電子戦にて無敵を誇ったゲランのサイバーセキュリティは一瞬で突破され、ブリタスとの合同で電子の反抗戦が進んでいった。
それは奇しくも、氷の魔女キリアによるブリタス湾海戦の1週間前の出来事だった。
■次回予告
落ちぶれた女神たちを集めて始まる異世界勇者達の現代戦デスゲーム。
かつて魔王配下の最強の妖狐を己の式神としたその転生者の名は。
「異界の陰陽師、ハオラン。
神に選ばれし総統閣下の助力を行うべく、ここに参上致した」
歴史を知る彼が現代に蘇った悪の枢軸に協力する理由、それは。
「共に生きよう、クズハ! 一目惚れだ!」
共に飛ばされた式神クズハへの愛ゆえだった。肉体を持たない彼女は、その体を電子に変化させ「意思を持ったソフトウェア」としてゲランの電子戦で無双の活躍を果たすが。
「……ダメですね、この部屋は。風水以前にそもそも片付けができてない」
陰陽師であるハオランができることはせいぜい風水的なアドバイスを行うこと程度。
平安の最新科学であった陰陽道も、現代では時代遅れのオカルトだ。
そんなある日のこと。
「お願いです、ハオラン様。
私が……もしも私が使い物にならなくなっても……
どうか、どうか最後までお側に……!」
敵方に現れた暗号解読のスペシャリストを前に、クズハは自信を喪失してしまう。
かといって陰陽師のハオランに出来ることなどあるはずもなく。
「これは陰陽太極図とも呼ばれ、物事すべてに存在する陰と陽の性質を示しています」
「なるほどぉ。丸っこいですけど、これは回転するんですかぁ?」
次回、最強転生者達の現代出戻り列伝、第四話「陰陽術と量子暗号」
「だからクズハは一生僕に勝てないけど、僕は何故クズハに勝てるのかちっともわからないのさ」