第7話(2/2):弓と宇宙
かつて、科学は観測と実験の先に結果を見出すものだった。
しかし、二十世紀以降の科学では結果を予想した上で観測と実験でそれを証明する手法が当たり前になりつつある。
ブラックホールもそのひとつだ。
ブラックホールとはアインシュタインによる相対性理論で計算された可能性のひとつであり、その理論が発表された当時はそんなものがこの宇宙に存在するなど誰も信じなかった。
だが、観測技術の進歩が理論に追いつき、今はブラックホールの写真を誰もがネットで見られる時代になっている。
サ連の科学者たちは、チートも魔法も「それでいい」と考えただけだった。
直接利用するのではなく、研究するのでもない。
答えを先に出した後でその途中式を考える。
もちろん答えは利用し先に研究に進める。
西側が真っ二つに割れて不毛な論争を行う中、サ連はその「両方」を採択したのだった。
そんな科学者達の喜びにリンも微笑み、無邪気なままにネクトに語りかける。
「素晴らしいです! これで伍長閣下も人種差別主義者も皆殺しにできますね!」
極寒の大地でネクトの顔が、凍りつく。
「リン、君は……」
「ほら、早く独ソ不可侵条約を破棄しましょう!
伍長よりも先に! シベリアに誘い出すまでもありません!
今すぐ! 今すぐベルリンを火の海に……」
「リン!」
ネクトがリンを強く抱きしめる。
しかしリンの空虚な目は狂気に侵され、この世界には存在しないはずの国と土地の名前を叫び続ける。
「離してください! 私は、私に逆らう……」
「必要ない! サ連には戦争も、粛清も必要ない!」
7歳の少女を豹変させる「いつもの発作」が治まるのは、数十分後のことだった。
疲れたリンが自分の膝を枕に安らかな寝息を立てる一方、ネクトの表情は重い。
そんな彼の前に、一人の女性科学者が訪れる。
「隣、いいかい?」
「構いません」
彼女の名はレニ・イチイリ。
現在のサ連の科学者達のリーダー的ポジションに座る彼女は、天才少女リンを『創った』プロジェクトリーダーだった女性だ。
「ネクト君。君は、オカルトを信じるかい?」
「信じるもなにも、僕はオカルトの世界から来たんですが」
「あぁ、そういえばそうだったね」
わざとらしく笑うレニに、ネクトは若干の苛立ちを覚えた。
「オカルトでは、生まれ変わりというものがよく語られる。
前世とかいうやつだ。
5歳にも満たない子どもが不思議なエピソードを語ったかと思えば、それが数十年前に死んだ人物の記憶だった、とかね」
「そんなもの、ほとんどが創作でしょう」
「そうだね。『ほとんど』が創作だ。
リンのケースはそれに近似しているとは思わないかい?」
膝の上ですやすやと寝息をたてるリンの顔を見つつ、ネクトの顔がさらに曇る。
「思いませんね。
なにより、彼女の語るエピソードはこの世界の死人の物ではない」
「なるほど。
『君の世界の』死人の記憶か。
興味深いね」
ネクトはこの世界が自分の知る第二次世界大戦の焼き直しだと気付きつつ、それを口にすることを避けていた。
だがレニは些細な言葉尻からネクトの記憶を覗き見てくる。
「それが、母親が娘に向ける言葉なんですか?」
「いや、科学者が製作物に向ける言葉だよ」
「気に入りませんね、その言葉は」
ずっと視線を向けていたリンの顔から目をそらし、隣に座るレニを睨みつけた時。
ネクトは自身の言葉を悔いた。
「……すみません」
「いや、いいんだ」
それはマッドサイエンティストの顔ではなかった。
マッドサイエンティストを演じる母親の顔だった。
「転生の女神は、マクスウェルの悪魔だそうです」
「なるほどね。
世界と世界の間の扉を開き、なんらかのエントロピーバランスを保つ役割を持っているのか」
「僕の担当はそのエントロピーを『平和』と定義しました」
「確かに、文明が平和であることは珍しい状態だ。
そして、そのエントロピーを加速度的に増大させるのが魔王というわけか」
「そうらしいです。
そして、平和な世界から戦乱の世界に勇者を送ることは、その流れに沿ったものであり、大きな力を必要としないと」
「素晴らしい。まさに物理学だ」
「でもおかしいんです。
だとすれば、必ず逆のなにかが流れているはずなんです。
作用反作用の法則は、宇宙の基本原理のはずです」
「ふむ。君の言わんとすることが理解できたな。
それがこの子の体に起きているということか」
その表情も振る舞いもすべてが我が子を案ずる親のものだというのに、言葉だけがマッドサイエンティストのものであることが、ネクトの奇妙な苛立ちを加速させる。
「マクスウェルの悪魔なんて小難しい言葉を使うがね、その理論は理解しているのかい?」
「まぁ、だいたいは」
「では、その理屈が近年説明されたことについては?」
「勉強不足です」
「では講義しよう。
マクスウェルの悪魔はしばしコーヒー牛乳をたとえに語られるな。
牛乳だけ、コーヒーだけの状態は希少価値の高い低エントロピー状態であり、それが混ざりあった状態はありふれた高エントロピー状態だ。
このコーヒー牛乳を牛乳とコーヒーに分離するのは難しく、相応の仕事を行いコーヒー牛乳に影響を与える必要となる。
ところがこのマクスウェルの悪魔は、コーヒー牛乳の入った容器の中間を仕切る板の上に座っているだけだ。
この板には小さな窓があり、悪魔は片方からコーヒーの粒がもう片方に流れそうになった瞬間にこの窓を一瞬開き、逆からは牛乳の粒に対して同じことを行う。
すると、悪魔は窓の開けしめをするだけでコーヒー牛乳自体には何の仕事を行うこともなく、コーヒー牛乳のエントロピーを低下させてしまう。
こんなことはありえないが、理屈の上では成立するからパラドックスだというのがマクスウェルの悪魔だな。
ここまではいいか?」
「はい。そう聞きました」
「しかし近年、マクスウェルの悪魔はしっかりとコーヒー牛乳との間でエネルギーのやり取りを行っていたとわかる。
その悪魔が内部とやり取りを行っていたもの、それは、情報だ。
右に流すものと左に流すものを見分けること自体が情報というエネルギーだった。
そして、その情報の識別はマクスウェルの悪魔を疲労させる。
仕事によってエントロピーを安定させるという基本原則からは悪魔も逃れられないのだな」
「あぁ、それで女神はいつもなんか疲れていたんですね」
「ははは。彼女らも見方次第では会社員や公務員なのかもしれないね」
うまいことを言ってやったぞと笑うレニはそれが事実であることを知らないわけだが。
「情報はエネルギー。
つまり、僕の世界の情報が、リンに流れているという仮説は……」
「科学的に、ありえるということだ」
異世界同士で情報のやり取りが発生しているという仮説は、様々な疑問に対する答えとなる。
例えば、世界各地の古代神話に似たような情景が登場すること。
民俗学や心理学のジャンルで様々な仮説が考えられたそれが、異世界間情報伝達で説明ついてしまう。
近年流行りの異世界転生物も、それがただの流行ではなく、異世界からの情報によって作家が物語を「書かされている」と考えてしまうと、もはや恐怖ですらある。
「そして、混沌の中枢を魔王とするなら、魔王は情報ブラックホールなのかもしれないね」
「だから魔王は転生者を引き付ける。
そして、魔王と、魔王の血筋だけが闇魔法……つまり、重力魔法を操れる。
説明がついてしまいます」
「重力など存在しない。
重力とはただの情報である。
最近よく言われている話さ」
興味深い理論に思考の海に沈みかけるネクト。
そんな彼に手が伸びる。
「ママ……」
寝言でそうつぶやき手を伸ばすリン。
ネクトが隣を向くと、レニは既に逃げるように立ち上がっていた。
「答えてあげないんですか?」
「遺伝子を操作し『それ』を創ってしまった私にはその資格がないよ」
立ち去るレニの背中に向け、ネクトは一方的に語りかける。
「すべてが重力に引かれブラックホールというエントロピーに飲み込まれていくとしても。
人は自らの意志でそこから離れることができます。
今のあなたのように」
「……それで?
私に意志が、その子の親としての愛があるとでも言いたいのかい?」
「そう考えれば素敵な話に思えます。
しかしおそらく、あなたにあるのは愛ではなく、後悔なんでしょうね。
僕の世界でのあなたは、自分が産んだ子が狂気で国を崩壊させる様を、最期まで後悔していたはずですから」
「それは違うな」
一瞬振り向き、すぐに顔をそらすレニ。
ネクトの目はその顔に、苛立ちを見た。
自分の意識が知らない誰かの操作を受けているなど、まともな自意識がある人間なら受け入れることができない。
だが何かに気付いたようにレニは小さく消え入る声で。
「違う、と、思いたい」
そう弱々しく述べ、その場を去った。
ネクトはレニを追うこともせず、膝の上ですやすやと眠るリンの頭を撫で、窓ガラスを挟んで空を眺める。
「まだ時間は……あるはずだ」
共産主義のないサヴィーナ連邦は、今日も静かだった。
■次回予告
落ちぶれた女神たちを集めて始まる異世界勇者達の現代戦デスゲーム。
リヴァイアサンすら使役する最強魔物使いのサトルは四天王を倒し、そして。
「情報によれば、魔王のタイプは闇属性。
なら、最初は光属性のお前に決めたぞ! 行け! キラヴァイア!」
「ガギャギャァッ!!!」
だが魔物の存在しない現代での魔物使いはわかりやすい無能。
そんな彼は今もうひとり、重力を操る勇者シュウカと共に。
「ご機嫌はいかがでしょうか? 異世界の勇者様方」
「最悪だよ。国王に無実の罪で投獄されたのを思い出す。
歴史の授業で見せられた強制収容所に送られてないあたりは、転生者の好感度上昇スキルに感謝する他ない」
二人を軟禁していたゲランだが、戦況の悪化に伴い二人にも協力を強要する。
前線に送られる列車の中でシュウカは語る。
「それで、ほんとに協力するつもりなのかよ」
「もちろん。そして機を伺って、魔王を討ちます」
「は? 魔王?」
この世界のどこかには魔王が存在している。
そう語るシュウカだが、重力魔法という珍しく戦場で役立つチートを持つ彼女はこの先地獄の戦場に送られ、魔物使いは無能故に無事で済むと思われたのだが。
「モンスターマスターよ。
その力、ゲランのために使うがいい」
「……は?」
そして二人の勇者に迫るは魔王の影。
「そうだ! 魔王!
私が……私こそが魔王だ! 勇者は私の、敵だ!」
次回、最強転生者達の現代出戻り列伝、第八話「モンスターテイマーと重力魔法と戦闘機」
(一体どういう理屈なんだよ。ゲランの技術は世界一なのかよ)




