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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ハチドリ

作者: 優一

 森に囲まれた薄暗い洋館で、大広間の柱時計が午後六時の鐘を鳴らすその瞬間が、少女は何よりも楽しみでした。六つ目の鐘の余韻が響く中、少女は大きな扉の鍵を外します。

 少女の力では開ける事の出来ない重い扉を押して中へ入ってきたのはベージュ色のモルモットでした。

「何か変わったことはあるかい?」モルモットはいつもお決まりの言葉を口にします。

「何も無いわ。」少女もやはり、お決まりの返事をします。

「今日は絵を描いたの。あなたを描いたのよ。」

 少女はモルモットの手を取り、大きな階段を昇って絵本と玩具で埋め尽くされている部屋に入りました。部屋の中に気ままに座るぬいぐるみたちが、一斉にモルモットを見たようでした。


 小さな丸いテーブルに少女は近付きました。クレヨンが散らばっています。

 その横に置かれていた画用紙に描かれた茶色の髪と紅い瞳の生き物は、拙いながらも確かにモルモットに見えました。


「あなたの髪、茶色だと思っていたけれど、よく見ると違うのね。もっと薄い色だわ。黄色で描いた方が良かったかしら。」

「いや、良く出来てるよ。有難う。」

 モルモットは少女の額に口付けをすると、ぬいぐるみで占領されているソファの横の壁に寄り掛かりました。

「今日は凄い風ね。」

「嵐が来ているのさ。こんな夜は森に迷い込んで来る者が多いだろうね。」

 ゆっくりと部屋を見渡したモルモットは窓の下で埃を被っているくまのぬいぐるみに目を留めました。

「どうしたんだ。あのこは君のお気に入りだったじゃないか。」

「うん。でも飽きちゃったの。」

「そうか、良かった。君のあのこへの入れ込みは相当なものだったから心配だったんだ。」


 くまのぬいぐるみを掴んでモルモットは部屋の隅に移動し、其処に置かれた小さな棚の引き出しから果物ナイフを取り出しました。

 モルモットはくまを持ち替えたかと思うと次の瞬間、その腹部にナイフを突き立てました。ぶちり、という音と共に、くまは一度顔を歪めました。

 ナイフを引き抜くとわたが溢れ出し、間を入れず眉間に突き刺すとくまの目がぎょろりと飛び出しました。わたは部屋の隅までまるで雪のように降り渡ります。

 くまの目玉はしきりに動いて少女を捕らえようとしましたが、モルモットがそれを許しませんでした。

 目玉の一つはモルモットの手の中で握り潰され、残ったもう一つは引き出しの中に入れられました。


「洋服のボタンが何処かへ行ってしまった時、使えばいい。」


 モルモットが部屋を出て行ったので少女も後を追いました。

「帰るの?」

「ああ、七時までに家を出ないと、帰り道を失ってしまう。」


 大広間へ出て、モルモットは扉の鍵を引き抜きました。


「明日も来るよ。」

「絶対よ。」

「もちろん。いいかい、僕が出て行ったらすぐに鍵を閉めるんだよ。」

「分かってるわ。」

「旅人が迷い込んで来て扉を叩いても、決して招き入れてはいけないよ。」

「ええ。」

「いい夢を。」

「おやすみなさい。」


 モルモットが扉の外へ出ると少女はしっかりと鍵を差し込みました。その夜はごうごうとうなる風の音に紛れて、とんとんと扉を叩く音や誰か居ませんかと呼び掛ける声が聞こえましたが、それを聞いているうちに少女は眠りについていました。


 夜が明けると窓の外はいつもの森でした。

 時折木を揺らす柔らかな風も、館の手前まで注ぐ光も、いつもと同じでした。


 優しい風に身を預ける木々を見るため、窓へ近付いた少女は見慣れぬものが居る事に気が付きました。


 硝子を隔ててすぐそこに、金色の羽根を持つ不思議なものが横たわっていました。

 それは少女を見ると羽根を畳み直し、小さくお辞儀をしました。


「こんにちは。僕はハチドリ。昨夜の嵐で仲間とはぐれてしまったんだ。もし哀れんでくれるなら水を分けて欲しいのだけれど。」


 少女は一度首を横に振りましたが、その金色の羽根と真っ青な瞳が余りにも綺麗だったので、躊躇いながらも窓を開けました。

 ハチドリはすっと部屋に入り込み、一度輪を描いてから少女の前に降り立ちました。


「有難う。参ったよ。昨日は凄い風で流されるまま一日中飛んでいたんだ。」

「あなた、羽根を持っているのね。いつも木の上で歌っているこたちとは違う色だわ。」

 頭と肩と背中と羽根を撫でると、ハチドリはくすぐったそうに笑いました。金色の羽根は角度を変えると碧にも翠にも見え、少女は首を傾けて一枚をつまみ、光に透かしました。ハチドリはいっそうくすぐったそうにしました。

「何処から来たの?」

「何処から来たのかは分からない。物心ついた頃から親も無く旅をしていた。」

「わたしもおとうさんとおかあさんが在ないの。おんなじね。」

「君は一人で此処に暮らしているのかい?」

「そうよ。でも夜にはともだちが来るの。」


 少女はハチドリをバスルームへ案内し、蛇口をひねりました。

 ハチドリは嬉しそうにシャワーの下へ潜り込みました。


「君は旅をしたことはあるかい?」


 水の滴る音と共に、ハチドリは声をこだまさせました。少女は不思議そうにハチドリを見つめました。

「旅をするなんて、考えたこともないわ。だって森は広いんでしょう? わたし、この家から出たこともないのよ。」

「外に出たことがない? 一度も? 土の上を歩いたこともないの?」

「ええ。」

「信じられないな。それじゃ君は森の景色しか見たことがないのか。」

「絵画でならたくさん見たわ。海とか、草原とか、砂漠とか。でも森の景色が一番好きよ。」

「僕は海が好きだ。波の音、光の反射、一面に広がる真っ青な水が向こうであわを立て、こっちであわを立て、時々貝がらを運んできたりするんだ。」

「そうなの、なんだかきれいね。」

「街もいい。道端にテントを建てて野菜や果物を売っている。祭になると誰も彼もが踊りだすんだ。賑やかだよ。」

「他には、」

「そうだね。風の流れる高原とか、花の咲き乱れる谷、草木のない荒野だって暗い部屋よりはずっといい。太陽は地平線から昇り、地平線へ沈んでいくんだ。」


 ハチドリはぶるっと身体を震わせ、水滴を散らすと少女を真正面から覗いて微笑みました。


「ねえ、僕と旅をしないかい?」


 少女は驚いて首を横に振りました。


「怖いわ。それにわたしのおともだちはどうするの?」

「友達も来ればいい。勿体無いよ。こんなところに一人で居るなんて。外へ出てみない。」


 ハチドリは手を差し伸べてきましたが、少女はためらったまま動くことができませんでした。

 青い目に吸い込まれるような錯覚に、胸が高鳴ります。

 本当は外の世界に少しだけ憧れを抱いていたのですが、それ以上の不安と恐怖が其処此処を取り巻いていました。外へ出て、歩いていけるなんて思えません。

 モルモットも、決して外へ出てはいけないと言いました。


「ごめんなさい。行けないわ。外へ出てはいけないと言ったのはわたしのおともだちなの。彼はわたしが行くのに反対すると思うわ。」


 ハチドリは顔をしかめました。


「どうして。それはおかしいよ。君は、君自身の思いで此処に留まっているわけじゃないんだろう? その友達に言われたからだろう。君はどう? 外に出たいとは思わないかい?」

「やめて!」


 少女はうつむきました。


「どうして彼を悪く言うの?」


 ハチドリは黙って少女を見下ろします。


「そんなふうに言われたら、わたし、」

「……彼が好きなの?」

「好きよ。たった一人のともだちなのよ。彼を悪く言わないで。」


 ハチドリは少女の肩を叩き、手を取りました。


「ごめん。でも、外の空気を吸うくらいはいいだろう? この家は何だか息苦しいよ。森の中にいるのに新鮮な空気も吸えないんじゃ可哀想だ。」


 二人は大広間に移動します。

 少女は六時までは時間があると確認し、おそるおそる鍵を外しました。


 ハチドリは微笑み、扉を開けて一度振り返りました。

 少女の手を引き、外の風を送り込みます。


 木洩れ日と木のにおいに少女は呆然と立ちすくみます。




「どうだい?」

 ハチドリが尋ねます。


「綺麗、」

 少女は呟き、微笑みました。


「見ると感じるとでは違うだろう。」

「ええ、ずっとここにいたいくらい。」

「ここじゃなくて遠くへ行こう、もっと遠くへ。僕は君と一緒に行きたい。」


 ハチドリは少女と向かい合い、手を握りました。

 少女はハチドリを見つめたまま動きません。


 生まれて初めて、「一緒に」という言葉を聞いたのです。


 胸のあたりがあたたかくなりました。次にどきどきと音を立てます。

 少女はハチドリの手を握り返しました。


「彼には何て言えばいいのかしら。」

「僕が説得してみるよ。」


 午後六時の鐘がなると同時に大広間の扉が二回叩かれました。

 少女を制してハチドリが鍵を抜き、少女の友人を待ちました。


 扉を押して入ってきたモルモットは開口一番、「土の匂いがするね。」と顔をしかめました。

 扉を閉めると同時にモルモットはハチドリの存在に気付きました。

 モルモットはハチドリを睨みつけました。こちらに背を向けていたハチドリの表情は、少女には分かりません。


 しばらく誰もが黙っていました。

 どちらが先か、二人は少女を置いて奥の部屋へと行ってしまいました。少女は慌てて追いかけようとしましたが、ふと、目に留まった大広間の絵画に足を止めました。


 大きな二つの絵の中の、父と母だと教えられた裸の男女は少女を見つめています。

 溶け込むように絡まる二人に、恐怖と焦りが染み渡っていきました。

 少女は己の手を見ました。足を見ました。裸の男と女は少女を見つめ続けています。




 少女は走りました。生まれて初めて走りました。




 薄暗い部屋に、モルモットの息遣いが聞こえます。


 少女が部屋を覗き込むと、部屋中に金色の雪が降り積もっていました。

 窓の外では月が昇ったのでしょうか、差し込む光に照らされて、雪は舞い落ちています。


 その真ん中に立っていたモルモットがゆっくりと振り返りました。

 その口元は赤くべっとりと濡れており、右手も左手も同じ色に塗られていました。モルモットに散らばる無数の切り傷は痛々しく燃え上がっています。


 その前方にハチドリが横たわっています。

 ハチドリの裂けた首筋からは赤黒い液体が噴き出したままでした。

 噴水は金色の雪を赤く染め直しています。ちぎれた肉の欠片が窓にぬったりと貼りつき、ハチドリの青い瞳は二つとも破裂していました。




 少女が歩み寄ろうとすると、モルモットは厳しい声で来るんじゃないと叫びました。

 少女は立ちすくんだまま、モルモットに掛ける言葉を探していました。


「招き入れてはいけないと言っただろう?」

 真っ赤なモルモットは責めるでもなく、静かに言いました。

「彼は君を食べてしまうつもりだったんだよ。」


 少女は首を横に振りました。

「違うわ。彼はわたしを外に出そうと言ってくれたの。」

「外なんて知らなくていい。」

 モルモットは赤く濡れた手で少女の頬を包みました。

「君はその向こうなんて知らなくていい。」


 少女はモルモットの手を払うと、既にかたちを崩してそれかどうかも定かではないハチドリの元へ駆け寄ろうとしましたが、モルモットが抱きすくめるようなかたちでそれを止めました。


「彼のことは忘れるんだ。」

「どうして。」

「彼は君を食べようとしていたんだよ。」

「そんなことない。彼はわたしと一緒に、ただ外へ、」

「先に切りつけてきたのは彼の方だ。」

「うそ、」

「嘘じゃない。僕を殺して君を食べようとしていた。」

「そんなことない。」

「どうして彼を庇うの。彼を信じるの。そんなに彼が好き?」

「好きよ。わたしと一緒にいてくれるって言ってくれたもの。」


 モルモットの両手がふたたび少女の頬に置かれました。


「言葉なんていくらでも偽れる。」

「あなたは言葉だってかけてくれないわ。いつもそう。わたしのそばにいてくれない。」


 モルモットは少女の目を塞ぎました。


「今日は眠るんだ。」

 耳のそばの声に一度意識が遠のきました。

 モルモットは少女から離れ、少女はその場に座り込みました。


「帰るの……?」

「言葉なんて何も表しはしない、僕がいま発している一言一言、全てを疑うことができる。だから君は僕の言ったことを何一つとして信じなくていい。でも僕は嘘をつかない。君はこれすら信じなくていい。」


 金色の雪はいつの間にか沈黙しています。モルモットは呟きました。


「君を愛している。」


 少女は雪を一つつまみ、埋もれるように倒れこみました。土の匂いがします。


 モルモットはそのまま姿を消しました。

 部屋に、蒸すような息遣いだけが降り続けています。



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