黒王子と白姫-1
ぐずついている声が聞こえて目を開けた。目の前にいたはずの姿はなく、身体を起こす。ベッドから下りてクローゼットに手を掛けた。
「白、僕だよ。開けても良いかな?」
「……黒だけなら、いいよ」
ゆっくり扉を開ける。窓から覗く月が、静かに白銀の髪を浮かび上がらせた。
白は伏せていた睫毛を震わせると、涙を溢れさせながら、僕を見つめた。
「怖い夢だった?」
手を伸ばし、涙を優しく拭う。けれど、溢れている水は止まらない。
白銀の水面を揺らしながら、白は唇を震わせた。声なき声は、静かに僕に届く。もう片方の腕も伸ばすと、白は僕の胸に寄り添うように収まった。
「白には僕がいるよ。大丈夫。いつか、なんとかなるよ」
「お母さまも、そういってた。いってた、のに……」
月光を浴びている姫君を、優しく、強く、抱き締める。支えてあげたくて、守ってあげたくて。
「黒、ここは、もういやだよ。こんなの、かぞくじゃない」
「……そうだね」
胸元が温かい。熱くて、痛い。白の涙が、僕の心臓に染みていく。
早く泣き止んでほしいと切に願う。もう夜にひっそりと泣く妹の姿なんて、見たくない。
「ねえ、白。明日からしばらくノクシル様の世話になるのは、覚えてるよね?」
「うん。けんじゃさまに、いろいろ、おしえてもらう」
明日から数日、僕らは国を離れて、森の奥に住んでいる賢者様の元で世話になる。僕らは、国を統べるには幼すぎて、世界を知らなすぎる。だから、僕と白はノクシル様の元でしばらく生活しながら、大臣も父様も教えてくれなくなったことを、教えてもらう約束を交わしていた。
「黒の、さいごのわがままだもん。わたし、わすれないよ」
白の言葉に思わず苦笑した。
いくら権力がない子どもでも、王子と王女、二人きりで簡単に遠出出来るわけじゃない。成人と扱われるのは20歳以上。僕はまだ14だし、白は10にすらなっていない年齢だ。二人で旅に出るには、そう説得するしかなかった。
「このままだと、僕らも、この国も駄目になる」
「うん」
「この国はね、僕らルーナ=ティルム家のものじゃない。民あっての、国なんだ」
「うん」
「僕は、賢者様から教えてもらうことを、全て、国民のために使いたい」
「できるよ、黒なら」
真っ直ぐ届いた白の言葉に、目頭が熱くなったのが分かった。けれど、僕はお兄ちゃんだから、目を伏せて堪える。
「出来ないかもしれない。僕のわがままは、父様への説得で最後って約束したから」
「そ、そんなこと……」
ない、と言い切れない白に、聡明な子だなと頭を撫でた。
「僕は、帰って来たら、父様と同じになるかもしれない。ただの、母様の人形に」
「! そんなの、」
「だから、」
強く抱き締める。自分の喉から出ている声の震えを止めるように。
「白に、その願いを託したい。僕に出来なかったら、白が、この国のみんなを助けるんだ」
「っ、できないよ、わたし、黒みたいにできないもん」
「出来るよ。白、僕はね、白がいつも言ってくれるあの言葉が好きだよ」
僕は弱虫だ。絶対に出来ると確信が持てないことは言えない。僕が口に出来るのは、「なんとかなるよ」という、淡い言葉だけ。
「言って、白。人形になる前の、黒としての、お願い」
「……っ」
白銀が身じろぐ。腕を緩めると、白が僕を見上げた。
白銀の瞳に、僕の黒銀が映る。しばらく見つめあっていると、銀色が揺らめいた。
「――なんとか、するよ……っ」
震える声と、それでも零れない雫に、僕が耐え切れなくなってしまって、また白を抱き締めた。
唇を引き締め、声だけは漏らすまいと堪える。
見えていないことに安心したのだろう、胸元にまた温かさが染みていく。染みわたっていく。
押し潰されそうな夜の帳の中、ちっぽけな僕らを照らしていたのは、淡く光る月だけだった。
⁂ ● ⁂
父様と母様、大臣達から上っ面の送迎を受け、僕と白は城から出た。
白は城門まで見送られなかったことに安心していたけれど、幼い王族にとってそれが良くないことを、まだ知らない。だから、これから知っておかなければならない。
「白」
手を差し出す。白は嬉しそうに、僕の手を握った。ゆっくり歩き出すと、ちょこちょこと、僕の後ろをついて歩き出す。
「いつかは、白は僕の前を歩けるようになるんだよ」
「……がんばる……いつかは」
唇を尖らせながら隣に並んできた白に苦笑する。
そろそろ甘やかすだけではいけないと分かっているけれど、僕にとって唯一の家族なんだ。守ることと同じではないと知ってはいるけれど、つい、甘やかしてしまいたくなる。
……ああ、違うな。僕は白を甘やかすことで、僕が白に甘えているんだ。
「昨日のわがまま、忘れないでね」
笑い掛けながら言うと、白はなにも言わず、ぷいっと顔を背けた。僕が意地悪を言ったと思ったのだろう。
「黒王子! 白姫!」
聞き慣れた声に振り向くと、男の子が駆け寄って来ていた。
「トーイ!」
白が嬉しそうに声をあげる。
「ひさしぶり! おかあさまのぐあいはどう?」
「大丈夫っすよ! 久々に力仕事して、腰痛めただけっすから!」
あっけらかんと笑うトーイの表情に嘘はなさそうだった。
「最近、様子見に行けてなくてごめんね。白はミホニさんの刺繍が好きだから、本当なら、そっちを贔屓にしたいのだけれど」
「仕方ないっすよ! 好みはみんな違うものって、母ちゃん言ってたっすから」
少し困ったような笑み。きっと本心では、王族――というより、よく知った顔である白が客ではなくなってしまったことが寂しいのだろう。
白が「そういえば」と首を傾げた。
「トーイ、ちゃんとしゅぎょうしてるの? わたしのために、ししゅう、れんしゅうしてるってこのまえ」
ちょっと待って。お兄ちゃんなにも聞いてないよ。
「えっ!? いや、修業してるっすよ!? センスないってボロクソに言われてっけど、諦めてねえっすよっ! 昔馴染みのために頑張るのは当然じゃないっすかっ!」
焦ったように言うトーイに、白は「たいへんなんだね」と神妙な顔で頷く。どうやら白にはトーイの気持ちが伝わっていなかったらしい。
「努力家なのは認めるけど、まだ男としては見てないから、頑張ってね」
僕の言葉に、トーイは分かりやすく肩を落とした。少し意地悪が過ぎただろうか。
白もそれは分かったのか、「黒」とむくれた。
「わたし、ずっとまってるよ。とうちできるおうじょになったら、トーイのししゅうを、おうきゅうごようたしにする!」
僕とトーイで顔を見合わせると、どちらからともなく、噴き出した。
次はトーイが「そういえば」と言い出した。
「黒王子の相棒、元気にしてるっすか?」
「ヴェン? うん、元気だと思うよ。最近は呼んであげられてないけどね」
「ベンのこと、ほんとうにすきなんだね」
嬉しそうに笑う白に頬を赤くしながら、トーイは「そりゃあ」と瞳を輝かせた。
「ちびっこ一人持てるくらいでっけえ鳥なんて、カッコイイに決まってるっすよ! 口笛一つで来てくれる相棒に憧れない男なんていないっすよっ!」
思わず苦笑したけれど、相棒のことを良く言われて、嬉しくないわけない。
白はそんな僕を見ると、少し頬を膨らませた。
「ベンのくろいろ、黒とおそろいで、うらやましい」
自分の毛先を摘まみながら「むぅ」と小さく唸る白に、トーイは顔を赤くさせながらごにょごにょとなにか言いたそうだったが、大きな声で「あっ」と言った。
「そういえば! 黒王子と白姫に、母ちゃんが渡したい物があるって!」
「白、受け取ってきてくれる?」
「でも」
僕の手を握る力が強くなった。不安そうに見上げる白に、僕は優しく笑い掛ける。
「ちゃんと挨拶に行くよ。トーイと少しだけ、男同士の話があるだけ」
そう言うと、途端に白のほっぺが林檎のように膨らんだ。
「おんなのこだって、おとこのこのおはなし、できるのに」
「白」
優しく頭を撫でると、白は仕方なさそうにミホニさんの店に向かった。
王宮は信用出来ないけれど、この国は、僕らにとても優しくしてくれる。勿論、みんながみんなそうではないけれど。いつか、もらったそれらを返したいと思う。
「……なんすか?」
トーイが不貞腐れたような表情を浮かべる。結局言いたいことも言えないまま、話題を変えてしまったことを後悔しているようだ。好きな子の前では見せないその顔に、思わず苦笑を零した。そういう素直で健気なところは、僕も好きなのだけれど。
「……僕は立場なんてそんなに考えないけれど、そうでない人が多いから、覚悟はしておいた方が良いよ」
「……!」
小さな声で告げると、トーイははっとした表情になった。
気付いていないふりをしていたのだろう。半分は成人したといっても、やはり、この子はまだ子どもなのだ。
「諦めてほしい、なんて言えない。君の気持ちを、僕も知っているからね」
「……」
気付いてないのは、きっと気持ちを向けられている、あの子だけ。
「けれど、だからこそ、言わせてほしい。叶わないかもしれない感情だと、覚悟はしておいてほしいんだ」
「……そう言ってもらえるのも、オレが友達だから――」
昔から遊んでいる少年は、屈託なく笑った。
「――って、うぬぼれても、良いっすよね」
「……勿論だよ」
彼の強く握られている拳には、気付いてないふりをした。
数ヶ月後には、僕は意思を持たない方が幸せな人生を歩むことになる。彼がどんなに白を望んでも、僕にはそれを叶える手段はない。だから、今、言っておく必要があった。
「覚悟を持ったうえで迎える結末と、そうでない結末は、後者の方が辛いからね」
笑い掛けると、トーイは「確かに」と苦笑した。僕は上手く笑えなかったらしい。
「黒っ」
ぱたぱたと白が駆け寄って来る。腕には、抱えきるのがやっとなほどの荷物。
驚いて振り向くと、トーイは悪戯が成功したような笑顔を浮かべた。
昨夜のうちに荷造りはしていたが、ノクシル様の家に着くまで保てば十分と考え、最低限で済ませてしまっていた。
「大丈夫っすよ。ぜーんぶ、白姫へのクッキーっすから!」
「……ありがとう」
今日初めて、心からの笑みを浮かべられた気がする。
重荷にならないように、負担にならないように、なにより、心細いであろう白のために準備してくれたことが、嬉しかった。
白は早速食べたいのか、袋を一つ取り出して、くんくんと嗅いでいる。髪が癖っ毛なこともあって、小型犬のようだ。
そんな白と、頬を赤くして笑っているトーイに苦笑した。
「僕もミホニさんに挨拶に行ってくるよ。なるべく早めに戻ってくるから、クッキーはまだ食べちゃ駄目だよ」
「! わかってるもんっ」
慌てて袋をしまう白に愛おしさを感じながら、踵を返した。
もう手に入らない当たり前の日常を、こっそりと噛みしめながら。
⁂ ● ⁂
「いってくるね!」
「行ってらっしゃいっす!」
白は門の前まで来てくれたトーイへ元気に手を振ると、僕を見上げて笑った。気心知れた相手と会話出来て、やっと安心したのだろう。手を差し出すと、大量のクッキーを詰めた袋を抱え直して、再び僕の手を握った。
「黒」
こっそり、内緒ごとを打ち明けるように、白が笑う。
「かえるばしょがあるのって、いいよね」
「……そうだね」
今度は上手く笑えたらしい。白は嬉しそうに鼻歌を歌いだした。
振り向くと、門のところでトーイと二人の門番が、僕らを心配そうな表情で見つめていた。思えば、町の人達もみんななにも言わなかったけれど、三人と同じ表情で僕らを見つめていた。
「黒?」
白の声に我に返る。
白はきょとんとした表情で、僕を見上げていた。
「こわいの?」
「え?」
「そういうかお、してたから」
しまった。白を不安にさせまいと取り繕ってきたのに、気が緩んでいたようだ。
僕が無理に笑みを貼り付けるより早く、白が口を開いた。
「だいじょうぶ! 黒がこわいのは、わたしがなんとかするからねっ」
「……っ」
白の笑顔に、胸が締めつけられる。
この笑顔も、もう見られないかもしれないんだ。
言いたい言葉を無理矢理飲み込むと、僕も笑った。
「ありがとう、白」
国に戻る時、僕はきっと君を泣かせてしまうだろう。そして、もう、戻ることも出来なくなる。
だから、どうか今だけは、このままで――
叶わないでほしい願いと共に、白の手を握る力を、少しだけ強くした。
⁂ ● ⁂
ノクシル様の家は、どこの国にも属していない広い森の奥にある。馬車も馬もない僕らの足では、半日掛かる場所だ。ノクシル様の元で数日世話になると決定した時、ノクシル様はお孫さんを遣わすから城にいて良いと言ってくれたが、僕らはそれを断った。ノクシル様は、僕や白だけでなく、多くの人に慕われている。そんな人に、母様が嫉妬しない保証はない。
苦しむのは僕だけで十分だった。
「黒、そろそろつく?」
「まだだよ」
ついさっきにもした質問を繰り返す白に苦笑した。最初は歩き疲れたのだろうかと思ったが、ただ単に飽きてしまったらしい。
僕らが今歩いているのは、草花が咲いているだけの野原。生き物が活発に動いている森でなければ、険しい岩道でもない、単調な道だ。
「クッキーたべていい?」
「さっき食べたから駄目だよ」
「ちぇっ」
今さっきした質問に全く同じ返答をすると、白はつまらなそうに前を向き直した。
「……白」
疲れてない、と思ったが自信がなくなってきた。聡い子だ、言ってもどうにもならないことを口にしないだけかもしれない。
「なに?」
きょとんとした表情で見上げる白に、僕は困ったような笑みを浮かべた。
「ノクシル様への手土産を忘れていたよ」
「えっ」
「だから、海に寄り道しない?」
「えっ、え、でも……」
僕の言葉に慌てていた白は、もじもじと立ち止まった。寄り道は悪いことと、昔お母様に言われたことをしっかり覚えているのだ。
「お世話になるのに、白へのクッキーだけしかないのは失礼だろう?」
「でも……おそくなったら、おこられちゃう……」
「うん、そうだね」
微笑むと、白の頭を優しく撫でた。小さく震えているのは、誰に怒られた時のことを思い出しているからだろうか。
「だから、遅くならないうちに行こう?」
「! ……それ、なら……いいよ」
「ありがとう」
白の手を引く。潮風が僕らの頭を撫でてくれた。
⁂ ○ ⁂
桜色の貝殻を拾うと、遠くから母の声が聞こえた気がして振り返った。けれど、そこにいたのは、優しい笑みを浮かべる兄が一人だけ。
母は死んだという実感が、じわりとティナの胸に染みた。
なにも母が亡くなったのは最近のことではない。今更過ぎる。けれど、眠る度に大好きだった母の笑顔と呼び声が甦ってくるティナにとって、家族の喪失の実感は、押しては返す波のようだった。
「白?」
心配そうな声に我に返ると、ノアが困った表情でティナを見つめていた。
ティナは、いつも自分のことを気に掛けてくれる優しい兄のことが大好きだった。自慢の黒き王子様だった。
けれど、本当は知っていた。
優しい兄でいたいがために、いつもいつも、我慢してしまっていることを。
本当は、泣き虫なのは、弱虫なのは、ノアの方だ。なのに、母が亡くなってから、ノアは一度も泣かなくなった。
誰もノアを、守ってくれなくなった。
だから、守りたいと、守られるだけは嫌だと、思っていた。
「だいじょうぶだよ!」
元気付けたくて、言葉を掛ける。
呪文のように、何度も、何度も。
好きだと言ってくれた、好きな言葉を。
「なんとかするよ! だから、だいじょうぶ!」
そう言って、笑うことしか、出来ないから。
ティナの言葉を、ノクシルへの贈り物をなんとかすると思ったノアは、困ったように、けれど嬉しそうに、笑った。
「――……?」
ふと、不思議な声が聞こえた気がして振り向く。吸い寄せられるように、とことこと、ティナは声を辿った。
声に気付かなかったノアは、柔らかい笑みを浮かべたまま、海の向こうの地平線を見つめていた。