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布包みを抱いて、ステップを踏むような軽やかな足取りで歩く留学生の斜め後ろを、私はとぼとぼと歩く。
彼女が私のところに来たのは、私と合流して今日の夕食の買い物をしてくるように頼まれたからだという。
ちなみになぜ私の居場所が分かったかというと、先輩と妹にあそこにいるんじゃないかと教えられたそうだ。あの公園も既に危険地帯らしい。
いつもの商店街が見えてきたので、何とか気持ちを切り替えて、握っていたメモ用紙を見る。
「えーと、豚肉、じゃがいも、玉ねぎ……」
幼馴染みから預かった買い物リストだというメモを渡されたときは絶望したけど、予想に反してそこにはちゃんとした食材名が書かれていた。
留学生に聞いたところ、妹が代筆したらしい。海外暮らしの妹のほうが正しい漢字が書けるってどういうことだ。
まだ午後早い時間なので、商店街はそれほど混んではいなかった。
この商店街に来るのもこれが最後か。幼馴染みに買い物を頼まれたときくらいしか来ることはなかったけど、最後だと思うとちょっとだけ感慨深い。
しかし、すれ違う人や通り過ぎる店の店員なんかにじろじろ見られるのはやっぱり嫌だ。「きれいだからみんな見とれてるんだよ!」といくら力説されても、どうしても「この顔に見とれるとかないわー」と思ってしまう。
そういえば、美少女扱いされるのにも結局慣れなかったな、と思う。二十五年かけて固まった顔面への自己評価は、二ヶ月やそこらで覆すことはできないらしい。
そんな物思いにふけりながら歩いていたら、半歩先を歩いていた留学生が突然立ち止まったので、その背中に衝突しそうになった。
「先生……?」
留学生はそう呟いたかと思うと、私を置いていきなりダッシュした。脚が長いからなのかめちゃくちゃ速くて、あっという間にその姿は遠ざかる。
呆然と見ていると、彼女は三軒ほど先の店先で商品を眺めていた女性に駆け寄り、片腕で抱きついた。タレを落としてないだろうな、と思ったけど、もう片方の腕でちゃんと持っているようだったのでとりあえず安心する。
女性は転びかけたけど、何とか踏みとどまったみたいだった。
……どうすればいいんだ? 他人のふりをして立ち去るか?
「ししょーっ! 来てくださーイ!」
そっと踵を返しかけた瞬間、留学生が女性に抱きついたまま振り向いて、満面の笑みで手を振ってきた。他人のふりは失敗に終わったみたいだ。
重い足取りで近づいていった私は、留学生に抱きつかれている女性の姿を確認してぽかんとした。
「先生……?」
その女性は、この前保健室で会った先生だったのだ。週末だからか白衣は着てないし髪も下ろしているけど、間違いない。
「あら」
先生のほうも私を見て、眼鏡の向こうで瞬きした。
「師匠! これがワタシの先生デス!」
ものすごく得意げな顔で紹介してくる留学生。
「……えっと、私の先生でもあるんだけど」
何と返したものか迷って、結局事実をそのまま口にした。留学生は口を半開きにして、目をしぱしぱさせる。
三人とも鳩が豆鉄砲を食らったみたいな顔を見合わせるという、よく分からない状況になってしまった。
保健室の先生は、去年まで海外の学校で日本語を教えていたそうだ。それが妹と留学生のいる学校で、留学生はその日本語クラスの教え子だったという。
「あっちの国も好きだったんだけどね。長いこと日本から離れてると、やっぱりちょっと母国が恋しくなっちゃって」
そう言って微笑む先生。口調から推測するに、海外にいたのは一年やそこらというわけじゃなさそうだ。幼馴染みが言っていた、彼女の母親と先生は同級生だという話が信憑性を帯びてきた。
でも改めて見ても、やっぱり先生は二十代にしか見えない。うーん、人体って神秘だ。
「先生がいなくなっちゃって、ワタシ寂しかったですヨ! 近くにいるなら、もっと早く教えてほしかったデス!」
宝石みたいな目をうるうるさせながら先生にすがりつく留学生。天使すぎてまっすぐ見られない。でも先生は慣れた調子で、あの柔和な笑顔で対応している。
「ごめんなさいね、私もあなたがまさかうちの学校に留学してきてるとは知らなかったのよ。でも日本語上手になったのね、頑張って教えた甲斐があった」
それを聞いて、私はとんでもないことに思い至ってしまった。
「……あの、先生」
恐る恐る切り出すと、先生は「ん?」と小首を傾げる。
「もしかして……彼女が使ってる日本語のテキストって、先生が作ったんですか?」
お願いだから否定してくれ、と半ば祈りながら返事を待つ。先生はきょとんとして、それから照れたようにふふっと笑った。
「あれ、知ってたんだ。もしかして見ちゃった?」
祈りは打ち砕かれた。
「……いろいろ言いたいことはあるんですけど」
「うん」
「なんで例文に出てくる人名がヨサクさんなんですか?」
「そこ?」
いや、私も問題の本質はそこじゃないとは思う。でももう、どこからどう追及すればいいのか見当がつかなかったのだ。
「だって、忍者とか出すと生徒の食いつきがいいんだもの。楽しく勉強できるなら、そっちのほうがいいでしょ?」
間違った日本文化てんこ盛りのテキストを作った理由について、先生はそんな風に説明した。
「先生のクラス、とっても楽しかったですヨ!」
留学生が目をきらきらさせて援護射撃してくる。その人智を超えて美しい瞳に撃ち抜かれて、私は屍と化した。
しかし、まさかあのとち狂ったテキストを日本人が作ったとは思わなかった。この世界の未来が心配になる。明日には私は離脱するんだけど。
「……あ」
そうだ、明日には私はこの世界からいなくなるんだ。
この先生と別れるのだけはちょっと悔やまれるかもしれない。元の世界にいた頃も含めて、人生で会った中で一二を争うレベルの癒し系だった。ついでに、後学のために若さの秘訣も伝授してほしかった。
「どうかした?」
先生が私の目を覗きこんでくる。何となく後ろめたくて、私は目を逸らした。
「いえ、何でもないです」
結局私は一人で買い物をしてアパートに戻った。留学生は久しぶりの再会に興奮しすぎて、先生にへばりついて離れなくなってしまったからだ。
晩ごはんまでには帰るんだよ、と言っておいたけど、生返事の見本みたいな答えが返ってきただけだったので、ちゃんと伝わっているかは怪しい。
玄関を開けると、五対のきれいな目が一斉にこっちを見たのでビビった。
「おかえりー。遅かったから心配したんだよ!」
そう言っていそいそとキッチンを通り抜け、玄関先まで来る幼馴染み。彼女に買い物袋を手渡しながらその向こうの部屋を見ると、委員長、先輩、お嬢様、妹の姿がある。
休日はとりあえず私の部屋に集まって、部屋の床が見えなくなるほどひしめき合う彼女たちに対して、いい加減にしてくれと思ったことは数知れない。でも、これが最後だという意識で見ると、そう悪くないような気がしてくるから不思議だ。
あと、元の世界に戻ったら、これほど美少女密度が高い光景はまず見られないだろうし。
「どうしたの?」
靴も脱がずに部屋を眺めていた私に、幼馴染みが不審げに聞いてきた。
「何でもない」
適当にごまかして、そそくさと部屋に上がる。




