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事の発端は一週間前、私が死んだ時点に遡る。
電車に飛び込んだ私は、気がつくとどこかに横になっていた。
どうやら布団に寝ているらしい。なんか変な臭いがする。嗅いだことのない臭いだけど、強いて言えばお香に近いような感じだ。
「……起きたか」
自分の置かれた状況を把握するよりも先に、そばで可愛らしい声がして、私はがばっと上半身を起こした。
声のした方に目を向けると、白と赤の着物のような服を着た女の子がローテーブルの上であぐらをかいている。行儀が悪い。
一見した感じでは小学校低学年、もしかしたら幼稚園児かもしれない。黒目がちな目とやわらかそうなほっぺたが可愛いけど、小さな口は不機嫌そうに結ばれている。一つに束ねられた黒髪は身長に対して不釣り合いなほど長く、女の子の座るローテーブルまで届いていた。
「……えっと、誰?」
「お前、さっき電車に飛び込みおったな」
あどけない声に不似合いな横柄な口調で言われて、私は言葉を失った。同時に、まだ十分な速度を保った電車に体がぶち当たるぞっとするような感触が鮮明に蘇って、血の気が引くのを感じた。
思わず自分の体を抱きしめてぷるぷるしていたら、側頭部をすぱーんとはたかれて脳みそがぐらぐらした。
でも、確かに横からはたかれた感触があるのに、女の子はあぐらをかいたまま動いていない。今の衝撃は何なんだ?
混乱している私を、女の子はぎろっと睨む。この可愛い目から発せられているのが信じられないくらい鋭い眼光だった。
「しゃっきりせんか、自分でやったことであろうが」
「えーと、それは確かにそうかもしれないけど……あれは何というか、気の迷いみたいな……」
しどろもどろに言い訳しかけて、はっとした。
「あれ? ってことはここ、あの世?」
「いや。周りを見てみろ、見覚えがないか?」
そう言われて辺りを見回す。
「ない」
こんな部屋に見覚えがあってたまるか。
広さは六畳くらいだろうか。物が多すぎてよく分からない。
所狭しと積まれているのは、埃の臭いが立ち上ってきそうな古ぼけた本、濁った液体の入った瓶、錆びついた燭台に突き刺さった馬鹿みたいに大きいろうそく、その他無数のオカルトチックな物体だった。部屋に変な臭いが漂ってるのは、この物体の山が腐りかけてるんじゃなかろうか。
中でも、特に鏡がやばい。大きさとしては普通の姿見くらいだけど、人の顔っぽいものとかを含む謎の彫刻に全体を縁取られている。姿が映っただけで呪われそうだ。
適当な通販で買ったみたいな安っぽいハンガーラックだけが妙に現代的で、部屋の雰囲気から浮いている。でも、そこに下がっている服は見事に黒一色だった。
私もブスにありがちな傾向として、つい黒い服を手に取ってしまう癖はあるけど、ここまで病的じゃない。と思う。
壁の一面にカーテンがかかってるから、たぶん窓はあるんだろう。でもそのカーテンが事もあろうに真っ黒なので、外からの光は全く感じられない。今が昼なのか夜なのかさえ不明だ。
カーテンがかかっているのと向かい合う面には、引き戸がある。磨りガラスの引き戸、だと思う。
断言できないのは、文字っぽいものが書かれた紙やら何やらが所狭しと貼り付けられているからだ。見るからに禍々しい。魔除けのつもりなのだとしたら、むしろ逆効果になるレベルだ。
私がいるのは、壁際に置かれたベッドの上だった。布団カバーの模様がよく見ると不気味なおっさんの顔らしいと気づいて、思わず布団を跳ねのけてしまった。こんなのどこで売ってるんだ。
「そうか、今回はそのパターンなのだな」
女の子はひとりごとのように言ってうなずいた。一人で納得されても困る。
ついでに、よく見ると女の子が座っているローテーブルも奇妙な形をしていた。脚がぐにゃっと非対称に曲がっていて、見ているとなんだか不安定な気分になってくる。
「どういうこと? 結局ここはどこなの?」
改めて聞くと、女の子は淡々と答えた。
「ここは別の可能性のもとで作られたお前の部屋だ」
「……はい?」
いきなり意味不明な言葉が飛び出して、間抜けな声が出た。思わずまじまじと女の子の顔を見るけれど、真顔で見つめ返される。
「……えーと、ちょっと何言ってるのか分かんないんだけど」
「平行世界という言葉を知っているか? パラレルワールドでもよい」
「まあ、聞いたことくらいは」
現実とは違うもう一つの世界とか、そういう意味だったっけ。小説や漫画ではときどき出てくる言葉だ。
私の答えに、女の子は偉そうに腕組みして頷いた。
「それなら話が早い。ここは、お前が生きていた世界の並行世界に当たる場所だ」
「すみません、帰ってもいいですか」
唐突にめちゃくちゃ胡散臭くなった。このままこの女の子の相手をしていたら、言いくるめられて壷とか買わされるかもしれない。典型的なノーと言えない日本人なので、ペースに乗せられる前に立ち去ったほうが良さそうだ。
そう思ってベッドから腰を浮かせた瞬間、私は金縛りに遭ったように動けなくなった。
それまでずっと仏頂面だった女の子が、にやぁっ――と不吉に笑ったのだ。
「かまわんよ。――おまえに帰る場所があるというのなら」
女の子曰く、私は電車に飛び込んだ衝撃で、今まで生きてきた世界から弾き出されたそうだ。
普通ならそのままあの世に行くところだったけど、いろいろあって、私は近くにあったこの世界に滑り込んだらしい。「いろいろ」の部分はなんかそれっぽく説明してくれたけど、あまりにもオカルトチックで脳がとろけそうになったので、途中で聞くのをやめた。
気が遠くなるほどの数存在する平行世界の中で、なぜこの世界に来たかというと、ここが私の生きていた世界に、いろいろな意味で一番近かったかららしい。
「別の世界に転移するとき、大抵の場合は本能的に自分が生きていた世界に近い場所を選ぶようだな。お前のような生き物が、軟体動物や無機物が文明を築いているような世界を選ぶことはまずない」
ちなみに女の子の話によると、私は死んではいないらしい。体ごと違う世界に移動してしまっただけだそうだ。
……と言われて、すぐに信じたわけではもちろんない。ないけど、女の子に連れられて部屋を出て、外の様子を色々と見せられ、半分くらいは信じざるを得なくなった。
私が目覚めたのはアパートの一室だったみたいだ。そこから駅まで行き、少し遠回りしてアパートに戻る。
その道中、見慣れた世界とのある決定的な違いを目の当たりにした私は、アパートに戻ってくる頃にはすっかり無口になっていた。
「どうだ、納得したか」
アパートの玄関で靴を脱いでいる私に、女の子は相変わらず高飛車な口調で問いかけてきた。
ちなみに目覚めたとき、服装は電車に飛び込んだときのままだった。裸一貫状態で別の世界に飛ばされなかったのはとりあえずよかったけれど、靴まで履いたままベッドに入っていたことに気づいたときは微妙な気持ちになった。
「……死にたい」
「電車に飛び込んだだけでは足りぬのか?」
私の答えに女の子は鼻を鳴らして、またローテーブルの上にどっかりと座り込んだ。さっきも思ったけど、可愛らしい見た目にそぐわず、やけに板についたあぐらのかき方だ。
私も何となくつられるように、目覚めたときに横になっていたベッドに腰を下ろす。おっさん柄の布団はさりげなく畳んで、顔が見えないようにしておいた。
「外を見てどう思った?」
「……何なの? この世界、ブスは抹殺されるの?」
「はあ?」
心の底からの疑問を口にしたのに、返ってきたのは呆れ果てたような一声だけだった。
「いや、だって美人多すぎでしょ。っていうかむしろ美人しかいないでしょ」
アパートから駅、折り返してまたアパートまでの風景は、現代日本だと言われても何の違和感もないものだった。その辺を歩いているのも別にモンスターとか宇宙人とかじゃなくて、普通の人間ばかりだ。ただ一点を除けば。
その一点とは、女性がことごとく美人ばかりだということだ。
天使のような幼女から品の良さそうなおばあさんまで、年齢は幅広いけど、どの女性の容姿も目を奪われるほど整っていた。実はここは映画の撮影現場で、周りにいる女性はみんな女優だと言われたほうが納得できるくらいだ。
そして、誰もが私をじろじろ見てきた。これくらいの美人たちにとっては、私は人間には見えないのかもしれない。すごいブス、人生で一回見るか見ないかくらいのレベル、百年に一人の逸材とか思われているのかも。
被害妄想がほとばしって、恐ろしくて顔が上げられなくなり、何度か電柱に激突して女の子に呆れられた。
ちなみに、男性については特に印象に残っていない。中にはイケメンもいたのかもしれないけれど、美人のインパクトの方が強かったみたいだ。
でも、ここまで美人しかいないのはさすがにおかしい。世の中全体で見れば、美人はむしろ少数派のはずだ。少なくとも私が生きていた世界ではそうだった、だからこそ私はこの顔でもひっそりと生きてこられたのだ。
ということは、それ以外の大多数はどこかに隔離されているか、闇に葬られているとしか思えない。私は間違いなく音速で葬られる側だ。