beat8
目の前に広がるのは、薄く緑色に霞掛かった世界。
揺り籠に揺られているような、母の胎内にいるような穏やかで幸福に満ちた世界。
この暖かな気持ちにうっとりとしていると、次第に身体に感覚が甦ってくる。
ダラリとしたこの身体の感覚は何だ?
久しく感じたことの無い、血の流れ・・・軋むように動いた指。
暖かな羊水が引いて行き、寒々とした外気に身震いする。
身震い?
一気に覚醒していったオレの脳みそは、べっとりと身体にへばりついた
この粘着性の高い溶液の正体を容易に理解していた。
なんてことを・・・施された処理で現実に引き戻されたオレは
全ての溶液が無くなり、このガラスの棺おけが開かれるまで
じっとそのフタを睨み続けていた。
「排水作業終了、洗浄します」
聞きなれない声と同時に噴出されたシャワーに、息を詰まらせる。
感じたことの無い異様な痛みが、全身を洗い流している間
どうにか冷静を保っていられたのは、上から覗いていた男の顔があったからだ。
「大丈夫か?」
その男はそう言って、開かれた棺おけの中に横たわるオレに手を伸ばした。
「触るな」
自分の喉から発せられた異質な声にギョッとして、口をつぐんだ。
なんだ、この甲高い声は・・・オレの声じゃない・・・
そして、見下ろしたオレ自身の事の重大さに改めて愕然とする。
なんてことを・・・なんて・・・
偽善に満ちたその面を睨みつけながら、ゆっくりと棺おけから起き上がった。
「まだ、無理に動かすな」
男は無理矢理オレの身体に手を回して抱き上げると、そっと傍らの長いすに降ろした。
こんな男に抱き上げられるなんて、こんな・・・こんなものはオレじゃない。
肩に掛けられたバスタオルで隠れてしまうほど、貧弱なこの身体はなんだ。
細い腕、棒の様な脚・・・長い黒髪がべったりと首筋から背中に張り付いていた。
「ゆっくり覚醒させるつもりでいたんだが、そうもいかなくなって。
特区が感ずいてしまったんだ・・・私はキミをかくまう事が出来ないんでね。」
ああ、そうか、そういうことか・・・この男のお節介でオレはこんな事になった訳だ。
残されていた記憶は、脱出ポットで逃れたのが最後。
その後の事は、簡単に想像がつくってもんだ。
「どういうことだ・・・この身体はなんだ」
「勝手だとは思ったが、目の前で助かる人間を見捨てる事が出来なくてね」
「オレが誰かわかっているのか?」
「ああ、知っているよ・・・マサカドだってことは」
知っていて、この仕打ちか・・・この男はどこまで自分勝手なんだ・・・
閉じ込めていた怒りが一気に噴出して、オレの胸を焼き尽くす。
「アンタはどこまで身勝手なんだ!オレがJJでいた理由も知らず
よくもこんな真似を・・・一体、どこまでオレをもてあそべば気が済むんだ!」
「勝手に再生してすまなかった・・・しかし」
「すまなかった?それだけか!え、オマエはオレを玩弄してるんだぞ!」
オレの剣幕に怖気づいたのか、ヤツはノロノロと後づ去って装置に背中を押し付けた。
オマエは、オマエって男は・・・母ならず、オレにまで・・・玩弄と言わずしてなんなんだ!
「何をそんなに・・・落ち着きなさい」
「落ち着きなさい?じゃあなんだ、この再生された肉体は!」
「キミのDNAから構築した器だ」
「なにが構築だよ、クサレが!オレはJJになる前から男だったぞ!!」
「そんなはずは・・・解析は完璧に行っている」
「アンタの脳みその方が狂ってるんじゃないか?
ああ、そうか・・・自分が信じているほどアンタは天才じゃないってことだ」
呪った・・・目の前の男を、自分自身を、母を・・・そして意地悪な神さえも。
与えられたこの呪われた肉体は、写真でしか見たことのない母親そのもの・・・
何かの陰謀、策略なのか?こんな身体を与えられたオレはどうすればいいんだ。
ガチガチとかみ合わない歯を鳴らしながら、悪寒に耐える事になるなんて。
「キミの言っている事がわからない」
「大天才、Dr.ハマクラにもわからないことがあったとはね」
「私を知っているのか」
「ああ、知っているとも。オレの母親にした仕打ちを、
またオレにするなんて・・・たいした天才だよ、ヒトの道に外れてる。
こんなところでコソコソ生活するはずだよな、オマエは悪魔に魂を売ったんだな」
頭が痛い。
自分の怒鳴り声が頭の中で鳴り響き、こうして身体を支えているのも限界に思えた。
感じた事のない身体の冷えに震えながら、目の前の男が口を開くのを待っていた。