弐十八 思い出の森で
ようやく、帰って来た如月。
彼女を待ち受ける運命。
踏みしめる大地は霜柱が折れてさくさくと音を立てる。
落ち葉が濡れたにおい。むっと強い緑のにおい。
高い木々の間からたまに見える空。
そのすべてが懐かしくて愛おしくて……如月は口元に自然と笑みがこぼれるのを感じていた。
「あっ……」
小さく呟いてゆっくり歩いていた馬――和を止めると如月はひらりと地面に降り立った。
見覚えのある道だ。
ここは奈津とかくれんぼをした時によく奈津が来る、奈津のお気に入りの場所だった。
「奈津……」
木々の間から空を見上げても今はどんよりと垂れ込める雲しか見えないけれど。
その上に広がる真っ白い世界に奈津はいる。
だから、寂しくなんてない。
「行こう、和」
如月の言葉に応ずるように一つ鼻を鳴らした和の手綱に手をかけて、如月たちは再びゆっくり進みだした。
「ここはねぇ、和。私と奈津が喧嘩したところでね。もうちょっと行くとちょっぴりまっすぐな道に出て、そこでは奈津と一緒によくかけっこの競争をしたんだよ」
大きな木の根をまたぎ、岩をよけ、道なき道を進みながらきょろきょろと如月はあたりを見回す。
どこもかしこも、溢れているのは奈津との思い出ばかり。
如月は懐かしさに浸りながら通る道通る道の思い出を和に語っていった。
「それでね、これが……」
そんなことに夢中になりながら歩いていた如月がふと足を止める。
見据える先には木々に囲まれた小さな空地。
あと少し。あと少しで。
「これが……私の家に続く道、だよ、和……」
口にする言葉がかすかに震えた。
自分でも気づいていなかった、けれど今なら分かる。どれほど恋い焦がれていたか、かつての家に。
もう焼けてしまっているけれど。それでも。
今では奈津の墓もある、大事な大事な場所。
如月の手が手綱から滑り落ちた。
よろりと一歩踏み出した如月は、やがて速足に、最後は駆けるようにして空地に飛び出る。
「あぁ……」
無意識に洩れる声。
変わらない、如月の場所。確かに如月の帰ってくる場所。
焼けてしまった家を忍び、懐かしい風景を見まわしてから、一本の木の根元に小さく積まれた石にゆっくり近づくとしゃがんでそっと手を置いた。
「ただいま、奈津。ただいま……」
帰って来たよ。私は帰って来た。
葉華国での暮らしも、この旅も、そんなに大変じゃなかったはずなのに。
なんだかほっとして、目の奥が熱い。
どれぐらいそうしていただろう。
しばらくじっとしゃがんでいた如月の耳に、ふとがさりと音が聞こえた。
和かと思い、振り向いたその先にいたのは。
「琴音……?」
そう。そこには琴音が立っていた。
いつもと変わらない静かな、でも何かが違う表情で。
「どうして、こんなところに?」
立ち上がり、向かい合う。
そしてはっきり気付く。やはり何かが違う。いつもの琴音と、何かが……。
「佳代様」
琴音の口から発せられる声からぴりぴりするような緊張が伝わってきた。
この森で、佳代と呼ばれたくないという微妙な抵抗感と琴音の様子の違和感がないまぜになって如月の中でせめぎあう。
「佳代様、すぐに帰りましょう。葉華国に」
「え……?」
予期せぬ言葉。
帰る? 葉華国に? 今すぐ?
「む、無理だよ何言ってるの、琴音……。琴音にも言わずに出てきたのは悪かったけど、でもっ――」
「どうしても、帰ってはくださらないのですか」
如月の言葉を遮って、琴音の冷たい声が響く。
その言葉の雰囲気にぐっと息を詰まらせてから、如月はそれでも問い返した。
「どうしてすぐに? 私はせっかくここまで来た。すぐには帰れない」
「何があっても、ですか」
琴音の言葉にただならぬものを感じてそれでも。
如月はその言葉を受け入れるわけにはいかなかった。
「どうしても。私はすぐには帰れない」
だって殿に会っていない。
ここまで来たのは、殿に会うためだから。
「そうですか」
じっと如月の目を見つめた琴音がやがてぼそりと呟いた。
何となく居心地が悪いような気がしながら琴音を見つめていた如月の前で、琴音は静かに目を伏せてから、やがて何かを決意したように顔をあげた。
その眼に宿るのは――
(殺気……?)
その眼光のあまりのするどさに如月がすくんだその一瞬の間に、琴音は懐から一気に何かを引き抜いた。
琴音の手の中で何かがきらめく。
それが何かも分からないうちに、琴音は立ちすくむ如月のもとへ駆け寄り、腕を突き出す。
短剣が握られた、その手を。
如月に向かって。
何が起きたのか分からない、ただ一瞬の間に体を無意識のうちにねじったのだけは分かった。
そしてそのすぐ後に右胸の下あたりから感じる激痛。
「琴、音……?」
目を見開いて見つめた彼女が。
少し悲しそうに見えたのは目の錯覚か。
互いに動かない、否、動けない。
ゆっくりと時が流れた後、ふと琴音が短剣の柄から手を離した。
「……あ、あぁ……」
意味を持たない声を発して。
今までの様子とはうって変わって琴音はよろりと後ずさる。
顔を青くしてふとあたりを見回した彼女は、空地の端にたたずんでいた和に目を止めるとすぐにかけよった。
若干の抵抗を見せた和を見事に御すと、最後に一度ちらりと如月を見てからものすごい勢いでその場を去っていった。
痛い。
すごく痛い。
ぐらっと動いてぽろりと胸から落ちた短剣を見て何だか納得する。
(あはは……こんなんが刺さったらそりゃあ痛いよね……)
一人では立っていられなくなって、背後の木にもたれかかる。
そう言えば、この木にはすごくお世話になったのだ。
考え事をしたい時、奈津と喧嘩した時、暗すぎて月の泉に行けない時……。
いつもこの木に登ったら何となく気分が落ち着く気がしたものだ。
(最期まで、お世話になりっぱなしだね……)
ふと自分の言葉に気付く。
最期……?
私は死ぬの……?
ぽつりと顔にしずくが当たって。
それにつられて空を見上げると目にも一粒。
ぽつぽつと降ってきた雨は、すぐにどしゃぶりになる。
そう、もし、死ぬのなら。
雲の上に行きたい。
前髪から滴るしずく。
ぐっしょりと重くなった服。
目に入る雨水。
そして、胸から流れ出す血。
全て他人事のように感じる。
「殿……」
唇からこぼれ出る最期かもしれない言葉。
あぁ……私はこんなに殿のことが好きなんだ。
そんなことを思って、口元に浮かぶのは自嘲。
体を支えきれなくなって、ずるずるとへたりこむ、その場所は。
かつての育ちの家、その焼けあと。
何を、今さら。
そんなこと、ずっと前から知っていた。
そう、殿と出会ったあの日から。
如月はずっと殿の傍にいたのだから。
殿に会いたい。
突然、焼けつくような思いが溢れてきた。
会いたい、ただそれだけを願う。
もう会えないなんてそんなの絶対に嫌だ。
殿に、殿にっ……。
(会いたいよぉ、殿……っ)
にじむ視界の中で。
がさがさと乱暴な足音。
その次に聞こえたのは、まぎれもない――
「如月っ!」
――あぁ、夢を見ているのかもしれない。
本当は二つに切ろうかと思ったのですが、一気に書くことにしました。
次話もよろしくお願いします。