弐十参 夜光の返事
如月の手紙に、夜光は。
寒い空気が和らぎ、この時期にしては珍しい温かな一日が終わろうとする夕暮れ時、如月の部屋にも開かれた障子からほんのりと橙色に染まった光が差し込んでいた。
空には綿菓子のような雲。
こんな日、普段ならば時間が経つのも忘れて空を眺める如月はしかし、床の中で静かに寝息をたてていた。病に伏してこれで三日目である。
医者の見立てではただの風邪らしく、現に如月の体調はすでにほとんど万全に戻っていた。今では念のために床についているだけである。
枕元にじっと座りながら、如月の代わりを務めるかのごとく空を眺めていた琴音は、ふと如月に視線を落とすと、寝返りの際顔にかかった髪をそっとかき分けた。
三日前のちょうど同じ時間、如月は鋭空と対峙していた。
堯郷と同じ穏やかな顔に困ったような表情をにじませる鋭空と、必死で頭を下げる如月。
少し考える仕草をした鋭空だったが、すぐに首を横に振った。
「佳代、お前の気持ちは分かるが、この時期にそれは認められない」
「そんなっ……。どうしても駄目なのですか」
「駄目だ」
あまりにはっきりと言われ、如月は思わず顔をあげて鋭空にすがりつかんばかりの勢いで言い募る。
「すぐっ! すぐに戻ってまいります。ですからっ……!」
しかし鋭空も頑なに首を横に振り続けた。
「お前は一国の姫だぞ。近くに少し忍んで行くならまだしも、明月ノ国などとあんな遠いところへ、安全面から考えても忍んで行かせることは出来ない。かといって大々的な訪問となればそれなりの準備や口実が必要となってくるし、そもそも咲から聞いた話の通りならば、今お前が明月ノ国を訪問するのはもっともいけない部類の行動に他ならないのではないのか?」
「それは……そうですが……」
「酷なことを言うようだが諦めるんだ、佳代。なにも素晴らしい殿方が夜光殿だけということではあるまい。遙遠殿だってそれはそれは出来た方だと聞くからこうして私も……」
「……」
父上様は何もわかってない。
他の人が駄目だと言っているのではないのだ。殿でなければ……。
うつむいて黙り込んでしまった如月に、鋭空はやれやれとため息をつく。
「とにかく、だ。お前の明月ノ国行きを認めるわけにはいかない。いろいろと言ったが……心配でしかたがない親心も分かってはくれないか、佳代」
「……心配……?」
「私たちはお前を一度失っている。もう二度とあんなことは嫌なのだよ。お前が大事なんだ」
「……」
如月はそっと唇をかんだ。
嬉しいという気持ちが溢れてくる一方で、そんな言い方をされては反論できない悔しさがあった。
「無理を言って……申し訳ありませんでした、父上様……」
「……すまないな、佳代」
鋭空の言葉に、鋭空も卑怯だと分かっていてさっきの言葉を言ったことが嫌と言うほど伝わってどうしようもなくなってしまったから。
如月はこぶしを握って一礼した。
手紙を書こう。
そう思い立ったのはその日の夜、食事の後ぼんやりと月を眺めていた時だった。
直接夜光と話をしてこれからのことを決めようと思っていた如月だったが、それが叶わぬのならば手紙を書けばいいのだ。
自分の思いつきに思わず手を合わせて琴音に驚かれたが、話すとすぐに準備をしてくれた。
書くということは良いことです。心も整理されます。
そんな琴音の言葉になるほど、と思いながら手紙を書いた如月だが、書いているうちになんだか切なさがこみあげてきて、やっぱり直接会えたらなぁ、なんて思ってしまって。
そうこうしているうちに体は重く、頭は痛く、風邪を引いてしまった次第である。
ふと静かな空間だった如月の部屋の襖がわずかに開いた。
琴音がすぐさま寄って用件を聞くと、少しためらったもののするりと襖をすべて開き、訪問者を招き入れる。
「無理を言ってすまないな、琴音」
「いえ、とんでもございません」
「重ねて悪いんだが、如月と若干込み入った話をしたい。外してくれるか」
「御意」
一礼して部屋を出る琴音と入れ違いに静かに部屋に入って如月の枕元に座ったのは、堯郷であった。
「兄様……」
ぼんやりと如月が瞼を持ち上げる。
「おっと如月、すまない起こしてしまったか」
「いいえ。もとよりまどろんでいただけですから……」
「あ、起き上がらなくていい」
「すみません……」
「調子はどうだ」
「もう大丈夫です」
少しの沈黙。堯郷はさっきまで琴音がしていたのとまったく同じ姿勢で、開け放たれた障子から空を眺めていた。
「夢を……」
「ん?」
ささやくような如月の声に堯郷は彼女の方へと目を向ける。
「夢を見ておりました。浅い眠りの中でずっと……」
如月がまだ夢を見ているように語る。
「奈津と一緒に森を走っていたと思ったら、いつの間にか空を――雲の上を走り回っているんです。すごく綺麗で、すごく眩しくて……。ずっとここにいられたらどれだけいいかと思ったでもそのすぐ後に、今度はこの国の人たちの顔が一人一人、順番に浮かんでくるんです。私が帰ってきたのを心から喜んでくれた人たち、楽しい時間をくれた人たち……」
如月は口元まで布団を引っ張り上げているからその声はくぐもって聞こえる。
堯郷には視線を合わせずに、彼女はじっと天井を見つめて話し続けた。
「ここ数日、私、ずっと迷ってるふりをしてました。どうしたらいいか分からないふり……。でも、どう考えたって答えは決まってたんです。私は如月を選ぶことは出来ない。いえ、如月は私がこの国に帰って来た時に、死んでしまったんです。一度佳代を選んでしまったらもう如月に戻ることは出来ない……どうしたって。それが悲しいことだとは思いません。佳代だって大事な私ですから。だから兄様、私は森閑国に……」
「佳代」
遮られて、如月は堯郷に顔を向ける。
堯郷の顔には、さまざまな思いが混ざって表れていた。
「佳代だとか、如月だとか、お前もいろいろ考えたんだな。そんなお前が俺は誇りだよ。考えるようにって言ったのも俺だ。でも、あえて矛盾しているようなことを言うが……お前は、どうしたいんだ?」
「へ……?」
「これを聞くのがどれだけ酷なことかもわかっている。だけど聞かせてくれ、お前はどうしたいんだ。お前の本音は……」
本音? 今本音を話したではないか。佳代として、これからを生きる。
必死で考え抜いた答え、これが本音でなくて――
――違う。違う違う違う。本音と答えは違う。
如月の瞳が揺れる。
布団の中でぎゅっと両手を握り合わせて、何度も深く息をする。
そして必死で声をしぼりだす。
「い、今更、そんな、ことを……聞かないで、ください」
聞かれたら、期待してしまうから。
この思いを言葉にしてしまったら、また揺らいでしまうから。
だからお願い、どうか聞かないで。
堯郷が再び口を開こうとしたとき、するりと静かに襖が開いた。
「お取込み中申し訳ありません。急ぎのことなので取り次がせていただきます。明月ノ国、夜光様から鷹便が届いております」
「殿からっ……!?」
如月はがばっと起き上がった。
この三日間待ち焦がれた夜光からの返事だ。
堯郷に支えてもらいながら、静かに琴音が差し出した手紙を受け取る。
緊張して手が震えるのが自分で分かる。
長らく使われていなかった紙のように、手紙はなかなか上手く広がらない
本当は助けて欲しかったわけじゃない。
じれったい思いの中自分に言い聞かせる。
如月の手紙に対して夜光がどういう返事を書くか――如月を葉華国へと返した夜光がなんと書くかは分かっていた。
殿に手紙を書いたのは、諦めるためだ。
この気持ちに区切りをつけて――
ようやく開いた紙には、ただ一言。
【如月
帰ってこい
夜光】
時が、止まった気がした。
手紙に視線を落としたそのまま、如月は動けなかった。
夕暮れの陽ざしがいよいよ本格的に赤く染まり、如月と堯郷の影を伸ばしていく。
ふと一筋の涙が手紙の文字をにじませて。
如月の手に力が入って紙に無数のしわがよる。
「帰……り、たい……」
ぼそりと呟いた如月が。
顔をあげて堯郷を見る。
口をへの字に曲げて。その目からはぼろぼろと涙を流しながら。
それでも強い光を宿した、その目で。
「私は……私は帰りたいですっ……兄上様ぁっ……」
目を見開いた後ふと微笑んだ堯郷に飛びついて、それからしばらく、如月は声をあげて泣き続けた。
ようやく鋭空ご登場です、ちょびっとですがでも約束は守ったよ鋭空笑
そして本音を吐き出した如月。
これほどまでに恋い焦がれる相手がいるというのは素敵なことだとしみじみ思います。
次も如月譚です。そろそろ話も大詰めになってきます。
次話もよろしくお願いします。