九 訪問者
夜光が感じた日常の危うさ……
如月の訪問者とは一体?
「耀映様が直々に探してくださったのですか。申し訳ございません」
耀映の宮――陽ノ宮の応接室、両手を畳につけて深々と頭を下げた客人二人に、耀映はひらひらと手を振った。
「いえいえ。このぐらいは。ところで如月は今愚弟と親しくしているので、奴も同席させたいのですが、よろしいですか?」
「弟君とおっしゃられますと、夜光殿ですか? ……それは光栄でございます」
「如月、夜光。入れ」
するすると静かに襖が開き、夜光に倣って如月も深々と頭を下げた。夜光が合図してくれるのを待って、期待に満ちて顔を上げた如月は自分に会いに来たというその人達を見つめた。
大人の男の人と、女の人だ。耀映様や殿に比べて大分年上に見える。本当に偉い人たちみたいで、座っているその姿勢が、一般人のそれとは違う。
男の人は黒色の着物と袴をぴしっと着こなしているし、女の人は、如月の着ている単とは比べ物にならないほど美しい、柔らかい桃色の訪問着がとても似合っていた。
こんな人達が自分に一体何の用があるのか、如月は再び首をかしげた。
だから、そんな偉い人たちがまじまじと穴が開きそうなほど自分をじっと見ていることに気づかなかった。
「これは……鋭空殿に、咲殿でしたか。遠路はるばるよくおいでくださいました」
夜光が驚いたように声をあげるのを聞いて、如月は少し安心した。殿も知ってる人ならきっと大丈夫。
「覚えておいてくださいましたか。お久しぶりでございます。随分とご立派になられたことです」
なんとか如月から目を離したといった風体で、男の人のほうが夜光の挨拶に答えた。
耀映に手招きされて部屋に入った如月は夜光のとなりにちょこんと座って、自分に会いに来た人たちと改めて向かい合った。
再びまじまじと見られることになった如月は最初の物珍しさが過ぎると居心地が悪くなって、視線を落として、もぞもぞと動いた。
「佳代……」
僅かな間のあと、女の人がぽそりと呟いた。
「佳代……でしょう? 佳代、佳代……!」
「こら、咲……」
女の人がすごく必死そうな声を出している。
佳代とは誰の事だろう……。
如月は不思議に思ったが、何となくそれが自分に向けて発せられている言葉かもしれない気がして、ちらりと女の人のほうを見た。
女の人は如月の方に身を乗り出して、懇願するような顔をしていて、如月はすぐにまた目を伏せるつもりだったのにその顔から目が離せなくなった。
きっとこの人が言ってる佳代って、何故かは分からないけど自分の事なんだ、という思いが胸の底にすとんと落ちた。
「落ち着きなさい、咲。まだ紹介にも預かってないだろ」
「でも、鋭空様、この子は……!」
「物事には順序がある」
強い口調でたしなめられた女の人――咲様は渋々居住まいを正した。
「無理もありませんよ、鋭空殿。咲殿を責めないでください。では少し遅れましたが。
如月、こちらは私達とは同盟関係にある――つまり私達の国と親しくしてくださっている葉華国の皇帝と皇后様だ。お名前を鋭空様、咲様とおっしゃる。
馬車でも一ヶ月はかかる、遠い国の方々だ。鋭空殿、咲殿、こちらが『如月』です」
耀映様が紹介してくれて、如月は驚くというより納得した。
そうか。皇帝と皇后様なら、それは殿や耀映様と同じような雰囲気をまとっている事だろう。
鋭空様が如月に優しい笑みを向けてくれる。
「如月さん。いきなり押しかけてすまない。驚いただろう」
「あの、えと……そ、そんな事ない……」
実際声をかけられるとどうすればいいか分からなくて、如月はそっと夜光のほうをうかがったが、夜光ははちっとも如月の方を見てくれなかった。それどころか、夜光のまとう空気がいつもよりすこし冷たい気がする。
そんな夜光が何となく怖くて、如月は慌てて言葉を紡いだ。
「あ、あの、皇帝様と皇后様が私に用事って……」
「あ、あぁ。そうだな気になるな。ではいきなりで悪いんだが、少し君自身の事について話してくれないか? いつからこの国にいるんだい?」
どうしてこんなに偉い人たちが、如月の事についてなんか、興味があるのだろうか? 多少疑問に思いながら、如月は語りだした。
「私の事……? え、えと、私は気づいたときにはもうこの国の森で暮らしてたの。長い間一人だったけど、たまたま罠にかかってたうさぎの奈津を拾ってきて、それからはずっと二人で……」
奈津の事を思い出して、如月は目を伏せた。涙がこぼれてしまいそうだった。
「耀映殿に伺ったよ。怖い目にあったんだってね。奈津のことも気の毒だった」
心底如月を思いやってくれているような声に、如月はぐっとこみ上げてくるものをこらえてうなずいた。
少し間を持ってから、鋭空が再び口を開いた。
「不思議に思ったことがあるんだが、聞いてもいいかい?」
再び如月がうなずくのを確認してから、鋭空はゆっくり言葉を紡いだ。
「君は森に着く前の事を覚えていないかい? 例えば、どうやって君は言葉を覚えたんだい? 君が住んでいた小屋は誰が建ててくれたんだい?」
如月は目の前がくらりとした。膝の上で両手をぎゅっと握り締める。
「そ、それは……」
「うん?」
「それ、は……分からないの……ごめんなさい……」
如月だって考えなかったわけがない。
自分が一体何者なのか。
気がついたらあの森にいた。言葉も話せたし、小屋もあった。でもその他には何もなかった。身の回りに頼れる人はいなかったし、一番頼れるはずの自分の記憶も、なかった。
記憶がないことの恐怖を、如月は身をもって味わった。
自分が分からない、世界が分からない。どうやって生きていけばいいかも分からない。
大混乱した後、どうにかするしかないと、諦めにも似た気持ちが幼い如月の中で生まれた。そして壁にかかっていた数字が規則正しく並んでいる紙から、名前をもらった。身の回りにはそれしか文字がなかった。
――如月、と。
如月がぽつりぽつりと話す過去を、鋭空と咲は真剣に聞いていたが、咲がこらえきれない様子で如月に話しかけた。
「如月。この歌を、覚えていない?」
そうして咲はゆっくりした調子の歌を歌いだした。それを歌う咲様は綺麗で、その歌声も綺麗で……。
「如月……?」
夜光の声で、如月ははっとした。
「え、な、何、殿?」
「お前……」
「?」
夜光がそっと手をあげて、如月の目尻から、涙をぬぐってくれた。咲は歌うのをやめた。
「え……?」
頬に手をあてると、涙の筋があった。どうして……。
「今の歌、聞き覚えがあるのか?」
夜光が尋ねた。如月は慌てて言葉を紡いだ。
「え、えと、あの、今の歌聞いて、咲様が綺麗だなって、思って、歌声も綺麗だなって思って、それで、すごい、懐かしいって……思って……」
如月ははっとして口をつぐんだ。言葉にしてみて初めて気がついた。
そう。如月は懐かしかった。遠くの国の歌なんか、聞いた事ないはずなのに。
咲が優しく如月に問う。
「私達の国にどこよりも美しい桜が咲くのはどうしてかしら、如月?」
「水が、綺麗だから……」
条件反射のように口が答えていた。
鋭空様が息を飲むのが分かる。
如月はますます訳がわからなくなって、怖くなった。
この人たちは、一体何なのだろう……?
無意識のうちに、如月の手は、夜光の着物のすそをぎゅっと握っていた。
鋭空と咲。
彼らが一体何者なのか、もう予測出来ている方も多いでしょうか。
次回、明らかになります。
次話もよろしくお願いします。