落ち武者(3)
何故、自分の前に現れたのか。
何故、あんなにも楽しそうなのか。
自分は楽しくなかったというのに。
当たり前の事が出来なくて、いつもいつも与えられた役割をこなす事しか出来なかった。
それに不満を持った覚えはない。
仕方がないと諦めていた。
しかし、しかしだ。
自分が死ぬ時、どう思った?
本当にこのまま死んでもいいと思ったのか?
そんな事はない。
当たり前の幸せを享受できなくて、そして殺され、死んでいく。
そんなのは認めたくなかった。
だから、未練がましくもこの場所に残っている。
別に、自分が珍しくて見に来るのなら構わない。
だが、あれ程楽しそうな姿を見せつけられると、羨ましくなってしまう。
自分の望みは唯一つ。
それは―――
◆
初夏に入って、暑さが感じられる今日この頃。
俺は例の武家屋敷の前でロリ子を待っていた。
辺りには街灯が一本だけ。
武家屋敷の回りは鬱蒼とした林? 森? のどちらが生い茂っている。
非常に不気味な印象を受ける。
だが、俺はその不気味な雰囲気を持つ屋敷より、街灯に激突している虫の方が怖かった。
いつ、何かのはずみでこちらに飛んできてしまうのだろうか、と思うと気が気でならない。
早くロリ子が来てほしい。
あいつは虫とかを怖がらないから、盾になる。
「先輩っ! すいません、遅れちゃって…」
そんなこんなで、もし虫がこちらに飛んできたら、すぐに帰ろうと思っていたら、ロリ子がやってきた。
これで虫に襲撃されても、恐れる心配はなくなった。
ロリ子は走ってきたのか、汗をかき、息を弾ませている。
「ライオン丸宗谷先輩はいないとして…部長はどうしたんですか?」
「部長は体調が悪いってさ。あの人、月に1回は体調が悪くなるけど、どうしてだろうね。ロリ子はわかる?」
「えっ……それは、その…」
ロリ子は何やら顔を赤くしてもじもじしている。
「何で恥ずかしそうにしてんの?」
「ふぇ? いいやいや、何でもありません!」
未だに顔を赤くしたまま、手をぶんぶんと振っている。
こいつも大概、変わった奴である。
「と、言う事は……私と先輩の二人きりって事ですか?」
「そうなるね」
まあ、ロリ子がいれば何とかなるだろ。
主に虫避けとして。
「……そうですか。先輩と二人きりですか」
「? ロリ子?」
「先輩と二人きり……若い男と女が夜に二人で密会……」
「おーい、ロリ子?」
ロリ子の顔の前で手を振るも反応はない。
ぶつぶつと呟き続けるだけだ。
「えへ、えへへ……先輩と二人きり……怖がる私を、先輩は男らしく励まして」
「うわっ、虫だ! ロリ子、盾になれ!」
ロリ子の体を持ち上げて、虫からの攻撃を防ぐ。
間一髪、虫の攻撃はロリ子の体で防げたが、ロリ子は未だに何かを言っている。
「あっ、先輩、駄目です! こんな所で……って痛っ」
持ち上げたまま、顎を使ってロリ子の頭にドリル攻撃を仕掛ける。
「さっきからぶつぶつ何言ってるんだよ。早く行くぞ」
ぱっとロリ子の体を離して、地面に着地させる。
ロリ子はむっとした顔でこちらを睨んできた。
「何するんですかー。乙女の頭頂に顎ドリルをするなんて」
「お前が自分の世界に浸ってるからだろ。さっきから虫がぶんぶんうるさくて気持ち悪いんだ。早く調べて帰るぞ」
武家屋敷は雑草とか生え放題だ。
もうそこかしこに虫がいるだろう。
想像するだけで鳥肌が立つ。
「……いざ行くとなると緊張しますね」
ロリ子は今更ながら怖がっている。
まあ、確かに雰囲気は持っている。
廃墟らしく、所々剥がれた外装。
何年も人の手が入っていないのが見てとれる。
「オカ研の部員だろ? ビビってないで早く行くぞ」
だからといって、行かない訳にはいかない。
部長にも行くと言ってしまったし。
これで、前まで行ったけど、中には入れませんでした、ではお話にならない。
いくら虫を怖がっても、虫より部長の方が怖い。
「あ、ま、待ってくださいよ、先輩!」
ロリ子が慌てて俺の後を追ってくるが、振り返る事無く武家屋敷の中へ侵入していった。
◆
「う、うわあああぁぁぁぁぁ!」
やばいやばいやばいやばい!
アレはやばい!
マジでやばい!
有り得ない。
何なんだ、アレは。
何なんだ、ココは。
人が立ちいって良い場所ではない。
こんなに恐ろしい所なら来るべきじゃなかった。
「ま、待ってください!」
ロリ子が何か言ってるが、そんな事を気にしている場合ではない。
こんな所に居たら死んでしまう。
全力で足を動かしていく。
武家屋敷の中、周りを見る余裕すらない。
いや、見渡す勇気もない。
この場所がこんなに恐ろしい所だとは思わなかった。
そこらの学生が入っていけるような所だからと舐めていた。
しかし、ここはマジでやばい。
「はあっはあっ」
息が上がる。
少しの距離しか走っていないはずなのに、有り得ないくらい息が上がる。
もう何百メートルと走っている気がするが、未だに出口は見えてこない。
恐怖で竦んでしまいそうになるのを必死で抑えて走る。
男としてのプライドなんてどうでもいい。
この場所に一秒でもいたくなかった。
「はあ、はあ、は……何なんだよ、ここは」
しかし、やっとのこと出口が見えてきた。
武家屋敷らしく引き戸のドア。
だが、俺は見てしまった。そこにいるモノを。
「う、ぎゃああああぁぁぁぁ」
「先輩! 落ち着いてください! ほら、アレは私が退治しますから」
いつの間にか追いついていたロリ子が俺を抜き去って、引き戸の取っ手に張り付くそれを退治してくれる。
「ろ、ロリ子っ……ドアを開けてくれっ」
絶対に触りたくない。
ロリ子は無言でドアを開けてくれる。
俺は遮二無二ドアから飛びだした。
◆
「有り得ねえ有り得ねえよ何だよアレ聞いてねえよ」
体が震える。
必死に抑えようとしても、震える体は言う事を聞いてくれない。
「先輩、怖がりすぎです。たかがクモじゃないですか」
「たかが!? 手の平サイズのクモがたかが!?」
そう。俺は見てしまったのだ。
あの屋敷の中に蔓延る魑魅魍魎を。
「あんなでかいクモが存在するのか!? この世界にあんな化け物がいるのか!?」
あれ程の大きさのクモを初めて見た。
いや、クモだけじゃない。
なるべく回りを見ない様にしていたが、それでも視界の隅に映る虫達を見てしまった。
もう、全体的に有り得ないくらい大きい虫達。
ここは人外魔境か?
「何でそんなに虫が嫌いなんですかー。そこまで気持ち悪くないですよ」
「うわ、てめえこっち寄るな! さっきムカデを触ってただろ!」
ロリ子の神経がわからない。
あんなに足をうじゃうじゃさせ、人にも危害を加える化け物を触れるなんて。
「ひどっ…先輩、酷いですっ」
「うるせえ! アルコール消毒の後、熱湯消毒して、一日中手を洗うまで俺の半径一メートル以内に近付くな!」
あー、やだやだ。
もうこの中に入りたくない。
部長に言ってしまっているから入らないといけないのだろうが、もう嫌だ。
これなら部長のお小言をもらった方が良い。
「……先輩、そこまで言われると流石に傷付きます」
「はっ、関係ないね。虫に触れた奴に近付かれないなら、俺は人を傷つける」
もう帰ろう。家に帰って、風呂に入って、今日の事は綺麗さっぱりと忘れよう。
うん。それがベストだ。無理して頑張る必要はない。
「あ、先輩、携帯なってますよ」
いざ、帰ろうとした時、携帯のバイブの音が辺りに響く。
「ああ、悪い。出ていいか?」
ロリ子の頷きで俺は携帯に出る。
「あ、部長。え? 例の武家屋敷の事ですか? ああ、はい。何にもなかったです。たぶん見間違いか何かじゃないんですか? …え? いやいやいや! 本当です。何にもありませんでしたって。……ロリ子に代われ? 何でですか。何にもなかったって言ってるじゃないですか。……はい、はい。わかりました、代わります」
ロリ子に携帯を差し出す。
「代わりました。はい、はい。……本当に何もなかったか、ですか?」
俺は必死にロリ子にサインを出す。
何もなかったと言え、そうしたらお菓子を買ってやる、と。
しかし、ロリ子は表情を変えずに部長と通話し続ける。
「いえ、まだ見ていませんので、それはわかんないです。先輩は虫が怖くてすぐに逃げ出しちゃいましたから」
「ちょ、てめえ! 携帯返せ! 部長、嘘です! それはロリ子の……え? ちゃんと確認して来い? や、だから……う、でも……………わかり、ました」
部長との通話を終え、俺は目の前が真っ暗になっていた。
もう一度あの中に入らないといけないなんて。
「ロリ子っ、てめえ何で本当の事言うんだよ」
それよりもロリ子だ。
何故、本当の事を言ってしまったのか。
嘘をつけば、この恐怖から解放されたのに。
「部長に嘘が通用するとも思えませんし。それにっ、先輩が私に酷い事を言うからですっ」
「はあ? お前、ムカデを触ったくせによくそんな事を言えるな。本当に人間かよ」
「な、なんでそこまで言われないといけないんですか!」
「お前は何にもわかってない。よくそんなんで今まで生きてこれたな。ムカデだぞ、ムカデ。百本の足をわしゃわしゃさせて動くような化け物だぞ。人が触っていいものだと思うのかよ。思わないよな。思える訳がない。お前が本当に人間なら思えないよな。そうだよな」
「え、ちょ、ちょっと待ってくだ―――」
「まさかアレを触って平気でいられるなんて、俺は幽霊よりそっちの方が怖いね。大体、前から思ってたんだけどさ。お前、平気で虫を触るけど、その神経何なの? 人なの? 馬鹿なの? 死ぬの?」
「先輩、だから―――」
「クモとかGさんは害虫を食べてくれるからいい虫だ、とか言われてるけどさ。あんなの見た目でもう害虫じゃん。人の気分を害する生き物なんて生きてたって何の意味もないね。それなら、蛇の方がまだ善良な生き物だよ。ハ虫類はある種の美しさすら―――」
「う、うるさーい!」
虫の恐怖からハ虫類の美点まで述べようとした所で、ロリ子が爆発した。
ここまで爆発したロリ子を見るのは初めてだ。
「先輩、落ち着いてください! 虫は私が退治しますから、先輩は黙って私の後ろについてくればいいんです! それでいいですよね! じゃあ行きますよ!」
そう言って、ずんずんと武家屋敷に向かっていくロリ子。
「……やだ…男らしい」
その背中を見て、不覚にもカッコいいと思ってしまった。
◆
「俺には何にも見えない。虫なんかいない。いるのは妖精だけ。ぶんぶんしてる音は妖精の羽の音」
目を瞑ってロリ子の頭を掴みながら、武家屋敷の中を進んでいく。
武家屋敷の中を実況したいのだが、怖くて目が開けられない。
虫よけスプレーや殺虫剤を持ってこなかった自分を恨みたい。
「大丈夫。俺は出来る男だ。逃げちゃダメだ……ひっ、今、耳元を何かがっ」
「先輩、大丈夫です。虫はいません」
ロリ子の励ましも全く意味がない。
明らかに羽音がしているのに虫がいないはずがない。
それでも、部長に命令、というより脅迫された手前、行かない訳にはいかない。
目を瞑り、虫に怯えながらも進んでいく。
「っと…ロリ子、急に―――」
「先輩、たぶんここです」
ロリ子が急に止まるものだから、俺は躓きかけてしまった。
もし転んで床に手を着いて、そこに虫の死骸があったらと思うとぞっとする。
が、ロリ子の真剣な声で、気を引き締め直す。
ロリ子が止まった所。
たぶん、そこが例の落ち武者がいたとされる部屋。
ゆっくりと目を開く。
暗闇に慣れた目で、その部屋を視界に入れる。
障子は閉められている。
肝試しに行った生徒達の話からすると障子は閉められていないはずなのだが、しっかりと閉められていた。
「ふーん、ここか。ロリ子、何か感じる?」
「あ、はい。何か、凄く……何て言うんでしょうか、悲しい、って感じです」
悲しい、ね。
まあ、ロリ子がそう言うのならそうなのだろう。
こいつは何だかんだでそういうのに敏感らしいし。
「じゃ、開けますか」
障子に虫が張り付いていないかをしっかりと確認する。
その部屋の障子をよく見てみると、明らかに他との差異があった。
隣の部屋の障子は破られているのに、そこは破られていない。
それどころか、汚れすらも見当たらない。
まるで、そこだけ時間が止まってしまっている様な―――
「ご開帳~」
気にしてもしょうがない。
虫がいないのなら怖がる必要もない。
躊躇う事もなく、俺はその障子を開け放った。