不機嫌なネコ
高齢のその猫は、自分の死を受けいれるように、静かに目を閉じた。
目を閉じると、脳裏に浮かんでくるのは、子ねこの時に土砂降りの雨の中、震える体をそっと包み込んでくれた少女の手のぬくもりだった。
何の躊躇いもなく死を受け入れようとしていたのに、最後に彼女に会いたくなってしまった。
一旦、閉じた目を開こうとしたが、死神が傍まで来ているのか、その簡単な作業すら、今はもうできない。
何故、僕は、あの大好きな彼女の元を飛び出してしまったのだろう。
それは、あまりにもたわいない事だった。
もしかしたら、ただの僕の勘違いだったのかもしれない。
大人になった彼女との二人暮らし。
その日、彼女は、ぼくを部屋に残したまま帰ってこなかった。こんなことは、初めてだった。次の日もそして、そのまた次の日も。
捨てられることにトラウマになっているぼくは、捨てられることより彼女を捨てることを選んだ。一番怖かったのは、彼女がぼくを嫌って、そのまま帰ってこなくなることだった。
それに毎日窓から見る部屋の外の生活にも、憧れのようなものがあった。
彼女は、ぼくを心配して外に出さなかったことも、今は、いやというぐらい理解できる。
そう、彼女のアパートを出た途端、ぼくは、見知らぬ世界を目の当たりにしてパニックになってしまった。だって、家の玄関すら、外から見たことが無かったのだから、360°どこを見ても、今まで見た事のない世界が広がっていた。
底知れぬ恐怖を紛らわすために、ぼくは、ひたすらに走り回った。
それが、さらに状況を悪化させていることに、猫である自分にわかるはずもない。
走り回るのに疲れて、立ち止まった。
そこで、一旦我に返ったが。そこもやはり見知らぬところだった。
ぼくが、知っているのは、土砂降りで彼女に拾われた公園の片隅と、彼女の部屋の中だった。
ぼくが、いなくなる数日前、低い声の男の声がしていた。このアパートは、猫を飼うのは駄目だとかそんな声が聞こえていた。このまま飼い続けるなら出て行ってもらう。他の住民からも鳴き声がうるさいとか、うんちの匂いがするとかの苦情が来てる。そういうものだった。
確かに、彼女にご飯が欲しいと数回鳴いたことは認めるが、普段は、泣かないようにしていた。うんちの匂いは、ごめんなさい。だから、彼女が2~3日戻らなかったから、ぼくは、捨てられると思った。
あれから、もう何年経っただろうか?毎週火曜日と金曜日のごみ集積所のごみあさりもカラスとの攻防も慣れ、数年がたった。
この場所が、以前住んでいた場所とどれほど離れているのかもわからないし、あれから、彼女の匂いも嗅いだことは無かった。有ったかもしれないけど忘れた。
生きていくために食べて、そして、空腹の恐怖を感じながらやっとこの生活も、死という習わしで、終わりを告げようとしている。
最後に、彼女に会わないまま死んでいくことが怖くなった。
そんなことを、思っていたのに、結局目を開けられず、静かに自分の死を受け入れるしかなかった。
老朽化のため使えなくなった滑り台の下の木陰の中で、静かにぼくは、息を引き取った。
できれば、保健所の人がぼくの死骸を運び去る前に、彼女に僕の亡骸を拾ってほしかった。
僕の亡骸が、彼女に与える苦痛など、猫のぼくには想像できない。でも、出来れば、彼女のあの手のぬくもりをもう一度感じたかった。




