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日陰の令嬢は、小さな温室で静かに花を咲かせる。

作者: 紅茶
掲載日:2026/04/23

 オーウェル男爵家の長女、セリア・オーウェルは、春の陽だまりのような人だった。


 輝くような金糸の髪に、サファイアを思わせる澄んだ青い瞳。


 社交界に出れば誰もが振り返る華やかな美貌を持ち、朗らかな性格で誰とでもすぐに打ち解ける。


 さらに水属性の魔法の才能にも恵まれており、庭の泉に美しい虹をかけてみせては、来客たちを感嘆させていた。


 次期男爵家を継ぐにふさわしい「完璧な令嬢」として、両親からも周囲からも愛され、太陽のように輝く存在。それが私の姉だった。


 一方、次女である私――リネット・オーウェルは、よく言えば控えめ、悪く言えば「存在感のない置物」だった。


 髪はくすんだ赤茶色で、いくら侍女が櫛を入れてもまとまらない頑固なくせ毛。


 瞳は地味なヘーゼル色で、鼻の頭には少しそばかすが散っている。どんなに上等な絹のドレスを着せられても、姉の隣に立つとみすぼらしい小間使いのように見えた。


 何より私を苦しめていたのは、極度の口下手とコミュニケーション能力の低さだった。


 誰かに話しかけられると、途端に頭の中が真っ白になる。「どう返せば相手の機嫌を損ねないか」「姉ならどう気の利いた返しをするか」とぐるぐる考えすぎてしまい、結局「あ……」とか「えっと……」と口ごもってしまう。


 相手が戸惑い、やがて呆れたような、あるいは哀れむような目をして離れていくのを見るたび、胸の奥がキュッと縮こまった。


 魔法の才能も、火打石の代わりにギリギリ火を起こせる程度の、微弱で使い道のないものしか持っていなかった。



「リネット、もう少し背筋を伸ばしなさい。セリアの半分でもいいから、愛想よく微笑む練習をしなさいと言っているでしょう」



 夜会から帰る馬車の中、母からため息まじりにそう言われるのがいつもの光景だった。


 私はいつも「ごめんなさい」と蚊の鳴くような声で呟き、膝の上で両手をきつく握りしめるしかなかった。姉への嫉妬なんておこがましい感情すら湧かない。才能も、美しさも、気の利いた言葉も、私の中には何一つない。


 オーウェル家の影。それが私に対する、私自身の絶対的な評価だった。


 そんな私が唯一、深く息を吐ける場所があった。


 それは、屋敷の裏手、鬱蒼と茂った生垣を抜けた先にある、小さな古い「温室」だった。


 ある日、姉の友人たちが屋敷を訪れ、サロンが華やかな笑い声と香水の匂いで満たされた時。隅っこで居心地の悪さに耐えきれなくなった私が、逃げるように屋敷を飛び出して見つけた場所だ。


 昔の庭師が使っていたらしいその温室は、ガラスの半分が割れ、蔦に覆われてひっそりと佇んでいた。中はカビと湿った土の匂いが立ち込め、壊れた農具や空の鉢が乱雑に放置されていた。


 誰も近づかない、忘れられた空間。


 私はその日、埃まみれの木箱に座り込み、膝を抱えて一人で静かに泣いた。姉と自分を比べて悲しかったわけじゃない。ただ、誰ともうまく話せず、誰からも必要とされていない、どうしようもない自分自身への情けなさで涙が止まらなかった。


 どれくらい泣いただろうか。


 ふと顔を上げた時、部屋の隅にある割れた素焼きの鉢が目に入った。


 乾燥しきってひび割れた土の中に、枯れかけた一本の草が生えていた。葉の縁は茶色く縮れ、茎は今にも折れそうに力なく首を垂れている。かつては誰かに世話をされていたのだろうが、今は完全に放置され、ゆっくりと死に向かっているように見えた。


「……あなたも、忘れられちゃったの?」


 私は無意識に呟き、フラフラとその鉢に近づいた。


 隣には、錆びついたジョウロが転がっている。私はなんとなくジョウロを手に取り、外の雨水桶から泥水を少し汲むと、カラカラになった土に注いだ。


 水はあっという間に乾いた土に吸い込まれて消えた。


 もちろん、それだけで枯れかけた植物が生き返るわけがない。


 けれど、そのひび割れた土と力ない葉を見ていると、なんだか日陰で息を潜めている自分自身を見ているような気がして、そのまま見捨てる気にはなれなかったのだ。





 それから、私の密かな日課ができた。


 誰にも見つからないように、朝早くや夕暮れ時に古い温室へ通うことだ。


 図書室の奥で埃を被っていた古い植物図鑑を調べた結果、あの枯れ草は『月光草ムーンウィード』という香草の一種だと分かった。正しく育てば、夜にほんのりと青く光り、心を深く落ち着かせる良い香りを放つらしい。


 私は図鑑の知識を頼りに、見よう見まねで世話を始めた。


 しかし、何をやっても不器用で要領の悪い私がやることだ。ことごとく裏目に出た。


 早く元気になってほしくて毎日たっぷりと水をあげていたら、数日後には土の表面にカビが生え、根元が黒く腐りかけてしまった。


 慌てて新しい鉢に植え替えようとしたが、土の配合など分かるはずもなく、庭の硬い粘土質の土をそのまま使ってしまい、さらに水はけを悪くしてしまった。


 ドレスの裾を泥だらけにして、爪の間に黒い土を詰めながら、私は何度も失敗した。


「また、駄目だった……」


 ますますしなびていく葉を見て、私は深いため息をつく。私には、言葉を紡ぐこともできなければ、名もなき草一本まともに育てる才能すらないのだろうか。


 泥のついた手で顔を覆って落ち込んでいると、背後から不意にしゃがれた声がした。


「お嬢様。そんな粘土質の土じゃあ、根が呼吸できなくて窒息しちまいますよ」


 ビクッと肩を大きく跳ねさせて振り返ると、屋敷の老庭師であるトーマスが立っていた。彼は無口で偏屈だとメイドたちから恐れられている人物で、いつもしかめっ面で庭木の手入れをしている。


 見つかってしまった。勝手にこんな場所に入り込んで、ドレスを汚して。きっと叱られる、母にも報告される。


 私は体を縮こまらせ、必死に言葉を探した。


「も、申し訳、ありません……! 勝手に、ここを……その、すぐに、片付け……」


「謝るこたぁありやせん。ここは元々、ワシの先代が使ってた場所だ。今はただの物置ですがね」


 トーマスはのっそりと温室の中に入ってくると、私の足元にある土を太い指でつまみ、匂いを嗅いだ。


「月光草か。こいつは気難しいやつでね。水は欲しがるが、根元に水が溜まるのをひどく嫌う。川砂と、腐葉土を三対七で混ぜてみなせぇ」


「え……あ、あの……」


「ほれ、鉢の底に小石を敷くのを忘れるな。水抜けを良くするためだ。……独り言ですがね」


 トーマスはぶっきらぼうにそれだけ言うと、背を向けて立ち去ってしまった。


 私は呆然とその後ろ姿を見送った後、慌てて手元のノート(余っていた紙を糸で綴じただけのもの)に「川砂3:腐葉土7」「底に小石」と、ミミズが這ったような字で書き留めた。


 次の日から、私はトーマスに言われた通りの土を用意するため奔走した。


 屋敷の裏手の森に入り、落ち葉が重なってふかふかになった腐葉土を手でかき集めた。重いバケツを引きずって小川まで行き、川砂をすくい取った。


 スコップを握り続けた掌には水ぶくれができ、それが潰れて痛んだ。日差しで鼻の頭のそばかすが少し濃くなったかもしれない。母が見たら卒倒して激怒するだろう。


 それでも、私は夢中だった。


 誰かと話す時のように、正解を探して怯える必要はなかった。土の重さ、水の冷たさ、葉の匂い。それらはただそこにあり、嘘をつかない。


 土の配合を変え、水やりの頻度を「土の表面が完全に乾いてからたっぷり」に変えて数日後。


 ある朝、いつものように温室を訪れた私は、鉢の前で息を呑んだ。


 茶色く縮れていた月光草の茎の根元から。

 本当に小さな、不格好で弱々しい、緑色の新しい『芽』が顔を出していたのだ。


「あ……」


 その瞬間、私の胸の中に、今まで感じたことのない温かく、むず痒いようなものがじんわりと広がった。


 姉の魔法のように一瞬で美しい花が咲くわけではない。私は天才じゃないし、才能もない。


 けれど、泥だらけになって、本を読んで、不器用なアドバイスをもらい、失敗を繰り返しながら試行錯誤した結果が、この小さな「芽」なのだ。


 植物は、私が口下手でどもってしまっても、決して私を馬鹿にしない。


 私が向き合い、手をかけた分だけ、ゆっくりと、無言で応えてくれる。


「……ありがとう。生きてくれて」


 私は泥のついた指先で、その小さな芽の隣の土にそっと触れた。


 涙がポロポロとこぼれて、土に染み込んでいく。


 それは悲しい涙ではなかった。生まれて初めて、自分に『できるかもしれないこと』の端っこを、見つけられた気がしたのだ。



 それから数ヶ月の間に、古い温室は少しずつ姿を変えていった。


 私はこつこつと割れたガラスを拾い集め、蔓を払い、トーマスが「捨てるつもりだった」と横に置いていった古い棚や鉢を並べた。


 月光草だけでなく、図鑑を見ながらいくつかの実用的な薬草やハーブも育て始めた。


 カモミールに似た香りの『陽だまり草』、胃腸の調子を整える『苦ミント』、それに喉の痛みを和らげる『白雪花』。どれも華やかな観賞用ではなく、地味な植物ばかりだ。


 育てるだけでなく、それらを収穫して乾燥させ、お茶や香袋にする練習も始めた。


 最初は乾燥させすぎて香りが完全に飛んでしまったり、お茶にする分量を間違えて舌が痺れるほど苦くしてしまったりと、相変わらず失敗ばかりだった。


 そのたびに私は小さなノートに「苦ミントは半葉のみ」「お湯の温度が高すぎると渋みが出る」と、びっしりと記録をつけていった。失敗の数だけ、ノートのページは黒く埋まっていった。


 秋も深まり、冷たい雨が降るある日のこと。


 温室で乾燥させたハーブの仕分けをしていると、屋敷の勝手口の方で、若手メイドのアンナがうずくまっているのが見えた。


 どうしたのだろうと、生垣の隙間からこっそり覗き見ると、アンナは青白い顔でお腹を押さえ、脂汗を浮かべていた。


 他のメイドが「休んだ方がいい」と声をかけているが、アンナは「今日はお客様が来るから、私が休むわけにはいかない」と無理に立ち上がろうとしている。


 普段の私なら、物陰からオロオロと見ているだけで、何もできなかっただろう。声をかけたところで、うまく励ませる自信もない。


 けれど、私の手元には、昨日調合の割合を変えてみたばかりのハーブティーの包みがあった。


(……胃の痛みを和らげる、はず)


 私は意を決して、温室の隅にある小さな魔道コンロに、私の微弱な火魔法でポッと火を灯した。唯一使えるこの魔法も、お湯を沸かすのには丁度良かった。


 急須に『陽だまり草』と少しの『苦ミント』、それに甘みをつける乾燥果実をブレンドして入れる。


 少し冷ましたお湯を注ぐと、黄金色のお茶から、ホッとするような甘い香りが立ち上った。


 私はそれを小さな木製のカップに注ぎ、トレイに乗せて、こっそりと屋敷の裏口へ向かった。


 アンナは、休憩室の丸椅子にぐったりと寄りかかっていた。誰もいないのを確認して、私はそっと中に入る。


「あ、あの……アンナ」


 声をかけると、アンナは驚いて顔を上げた。


「リ、リネットお嬢様……? こんな所に、どうして……っ」


「痛むの、でしょう。これ……もし、よかったら」


 私は俯き加減で、テーブルの上にトレイを置いた。


「えっと……おばあちゃんの知恵袋みたいなもの、だから。温かい、お茶。胃の痛みが、少しは、マシになるかもしれない、から……」


 私が作った、とは言えなかった。日陰者の私が作った怪しいお茶など、気味悪がられるかもしれないと思ったからだ。


「え、でも……お嬢様にこんなことをしていただくなんて」


「いいの。置いておくから。……無理、しないでね」


 私はそれだけ言うと、逃げるように休憩室を後にした。


 扉が閉まる直前、アンナがお茶の香りにホッとしたような息を吐くのが聞こえた。


 翌日の午後。


 私が廊下の隅を歩いていると、向こうから歩いてきたアンナと目が合った。彼女は血色の良い顔をしており、すっかり元気になったようだった。


 私はいつものように目を伏せて通り過ぎようとしたが、アンナは私の前で立ち止まり、深く頭を下げた。


「リネットお嬢様。昨日は、本当にありがとうございました」


 アンナの声は、明るく弾んでいた。


「あのお茶、すごく美味しかったです。飲んだら、胃の辺りがじんわりと温かくなってきて……嘘みたいに痛みが引いたんです。おかげで、夜までしっかり働くことができました」


「……そう。よかった」


「私、あんなに優しい味のお茶、初めて飲みました。あの……もしかして、あれはお嬢様が淹れてくださったんですか?」


 ドキリとした。


 誤魔化そうとしたが、アンナの真っ直ぐな瞳に見つめられて、私は小さく一つだけ頷いた。


 すると、アンナは花が咲いたような笑顔を見せた。


「やっぱり! なんだか、お嬢様の優しい雰囲気に似ていたので。……本当に、ごちそうさまでした!」


 アンナはもう一度頭を下げて、足取り軽く仕事に戻っていった。


 私はその場に立ち尽くしていた。


 『美味しい』。

 『優しい味』。


 その言葉が、耳の奥で何度も反響していた。


 姉に向けられる「魔法がすごい」「美しい」という万雷の拍手のような称賛とは違う。


 私が泥まみれになりながら、何度も失敗して記録をつけ、ようやく辿り着いた「一杯のお茶」に向けられた、小さな小さな感謝の言葉。


「……よかった」


 誰もいない廊下の隅で、私は小さく呟き、自分でも驚くほど自然に、ふふっと笑みをこぼした。


 それから、私の日常に小さな変化が生まれた。


 直接目立つようなことはしない。けれど、疲れた顔をしているメイドの休憩室の隅に、リラックスできる香袋をそっと置いておいたり、腰痛持ちのトーマスが休むベンチに、血行を良くするお茶を入れた水筒を置いたりするようになった。


 家族は誰も知らない。


 相変わらず夜会に行けば壁の花で、母からはため息をつかれ、誰ともうまく話せない日々は変わらない。


 けれど、使用人たちの間では「リネットお嬢様は、こっそり不思議な贈り物をしてくれる」という噂が、ひっそりと、だが確実に広まり始めていた。


 私には「私の手で育てた植物」と、「それをこっそり受け取ってくれる人たち」がいる。


 それだけで、私の心は以前よりもずっと、穏やかで呼吸がしやすくなっていたのだ。



 季節が冬の足音を聞き始めた頃、オーウェル家は朝からただならぬ緊張感に包まれていた。


 姉のセリアの婚約者候補である、名門侯爵家の嫡男、エリオット様を招いての私的なお茶会が開かれる日だったのだ。


 セリアの婚約がまとまれば、男爵家にとってはこれ以上ない名誉となる。母も父も数日前から張り切り、王都から最高級の紅茶の茶葉や、名店の焼き菓子を取り寄せて、万全の準備を整えていた。


「リネット、あなたは自室でおとなしくしていなさい。間違ってもサロンに近づいて、エリオット様の機嫌を損ねるような真似はしないようにね」


 朝食の席で、母は私に念を押すように言った。その声には「余計なことをして台無しにしないで頂戴」という切実な響きがあった。


 私はいつものように首をすくめ、「はい」とだけ小さく答えた。


 悲しくはなかった。あの香水と作り笑いが充満する華やかな場は私には息苦しいだけだし、温室で新しい調合を試す時間が増える方が、今の私にとってはよっぽど嬉しかったからだ。


 お茶会が始まり、屋敷の表側が静まり返った午後。


 私は古い温室で、ついに花を咲かせた『月光草』の葉を丁寧に摘み取っていた。トーマスに教えられた通り、砂を混ぜた土で育てたおかげか、夜になると微かに青く光るその葉は、とても肉厚で立派に育っていた。これを乾燥させれば、精神を深く落ち着かせる良いお茶になるはずだ。


「ええと……月光草の葉は、完全に乾ききる前に揉み込む、と……」


 手元のボロボロになったノートに書き込みをしていると、不意に温室の入り口がバタンと開いた。


「リ、リネットお嬢様……!」


 そこに立っていたのは、若手メイドのアンナだった。彼女はひどく血相を変え、息を切らしていた。


「どうしたの、アンナ。そんなに急いで……」


「お、お茶会で、トラブルです! エリオット様が、突然サロンで気分を悪くされて……!」


「えっ……倒れられたの?」


「いえ、意識はしっかりされているのですが、ひどい頭痛と吐き気に襲われているようで……顔が真っ青なんです」


 アンナの言葉に、私は思わず手にしていたノートを落としそうになった。


 聞けば、エリオット様は最近、侯爵家の仕事と王宮での執務に追われ、何日もまともに睡眠をとっていなかったらしい。極度の過労とストレスが限界に達していたのだ。


 そこへ、母が良かれと思って用意した「最高級の紅茶」――香りがひどく強烈で、刺激の強い紅茶――を飲んだことで、一気に神経が昂り、体調を崩してしまったのだという。


「旦那様も奥様もパニックになってしまって……医者を呼びに走らせていますが、到着まで時間がかかります。エリオット様は『香りが……強い匂いを遠ざけてくれ』と苦しんでおられて……」


 アンナはそこで言葉を区切り、すがるような目で私を見た。


「あの……私、お嬢様が作ってくださったお茶のことを思い出したんです。あのお茶を飲んだ時、すごくホッとして、胃の痛みがスッと引いたから……。もしかしたら、お嬢様のお茶なら、エリオット様も飲めるんじゃないかって」


 アンナの言葉に、心臓が早鐘のように鳴った。


 私なんかが作ったお茶を、侯爵家のご令息に出す? もし体調がさらに悪化したらどうするのか。母に知られたら、間違いなく大目玉を食らうだろう。


 怖い。足がすくむ。


 「私には無理よ」と、いつものように逃げ出したかった。


 けれど、アンナの真剣な瞳と、私の温室に並んだ不格好な鉢植えたちが、私を引き留めた。


 私が今まで積み重ねてきた失敗とノートの記録は、嘘をつかない。


 私は震える息を深く吐き出し、ギュッと拳を握った。


「……やってみる。お湯を用意して。刺激の少ない、一番まろやかなお水で」


「はいっ!」


 私は温室の棚から、最も刺激の少ない『白雪花』と、鎮静作用のある『月光草』の乾燥葉、それに胃のムカつきを抑える『レモングラス』を少しだけ取り出した。


 長年、一人で試行錯誤してきた感覚を頼りに、香りが立ちすぎないよう、慎重に分量を量る。お湯の温度は、いつもより低めに設定した。


 数分後、淡い翠色のお茶が出来上がった。強い香りはなく、ただ微かに、春の陽だまりのような優しい匂いがするだけだ。


「アンナ。これを、エリオット様に。……でも、私が作ったとは言わないで」


「えっ? どうしてですか?」


「私が出しゃばったと知れたら、お母様が気を悪くするから。それに……日陰者の私が淹れたと知ったら、エリオット様も不安に思われるかもしれないでしょう? ただ、『胃に優しいお茶です』とだけ伝えて、お出しして」


 アンナは少し不満そうな顔をしたが、私の懇願するような視線に負けたのか、「わかりました」と頷き、トレイを受け取ってサロンへと走っていった。


 私は温室に一人残り、祈るような気持ちで両手を組んだ。


 どうか、彼に届きますように。彼の苦しみが、少しでも和らぎますように。




 それから三十分ほど経っただろうか。


 足音が聞こえ、温室の扉が開いた。アンナだった。


 彼女の顔を見た瞬間、私は膝の力が抜けて座り込みそうになった。アンナは、満面の笑みを浮かべていたからだ。


「お嬢様……! エリオット様、お茶を全部飲んでくださいました!」


「本当……?」


「はい! 一口飲まれた途端に、強張っていた顔からスッと力が抜けて……『ガンガン鳴っていた鐘の音が、遠ざかっていくようだ。胃のむかつきも嘘のように消えた』と、とても安らいだお顔をされていました」


 アンナの報告を聞いて、私はこらえきれずに安堵の息を吐き、胸をなでおろした。


 よかった。本当によかった。


「エリオット様、『このお茶は誰が淹れたのか』と、たいそう驚いておられました。王都の腕利きの薬師でも、これほど自分に寄り添った処方はできなかったと……。私、お嬢様のお言いつけ通り『厨房の者が』と誤魔化すのに必死でしたよ!」


「……ありがとう、アンナ。ごめんなさいね、嘘をつかせて」


「いいえ! 私、本当に誇らしかったです。うちのお嬢様は、こんなにすごいことができるんだぞって、心の中で叫んでましたから!」


 アンナはふふっと笑い、私に向かって深く頭を下げた。


 直接、誰かから称賛を浴びたわけじゃない。母や姉に認められたわけでもない。


 それでも、私の中にあったのは、今まで感じたことのない静かな達成感だった。


 私が泥まみれになりながら、何度も失敗して、ノートを真っ黒にして辿り着いた答えが、誰かの苦しみを癒やしたのだ。


 それは、どんな宝石よりも、どんな魔法よりも、私にとって確かな「価値」だった。


 数日後。


 オーウェル男爵家に、エリオット様からの使いがやってきた。


 丁寧な分厚い手紙と、高価な織物の贈り物が添えられていたという。


『先日は多大なるご迷惑をおかけしました。あの時出していただいた、名もなき一杯のお茶に、私は心身ともに救われました。素晴らしい腕を持つ職人がそちらにいることを羨ましく思います。どうか、お茶を淹れてくれた者へ、心からの感謝をお伝えください』


 サロンでその手紙を読み上げた母は、「どこの茶葉だったかしら?」「厨房の誰が淹れたの?」と首を傾げていたそうだ。


 料理長も困惑し、姉のセリアも不思議そうな顔をしていたという。


 その騒動を、私は廊下の隅で、メイドのアンナや、たまたま薪を運んでいたトーマスと共に、こっそりと立ち聞きしていた。


「奥様たち、すっかり見当外れなことを言っておりますねぇ」


 トーマスが、わざとらしく大きなため息をついて見せた。


 アンナも口元を抑えながら、私を見てウインクをする。


 私は顔を赤くしながら、「しっ」と人差し指を口元に当てた。けれど、私の口元も自然とほころんでいた。


 華やかな表舞台の人間は、誰も知らない。


 でも、裏方で働く彼らと私だけが知っている、小さな秘密。


 それが、くすぐったくて、たまらなく嬉しかった。


 エリオット様との縁談は、どうやらご本人が「私にはセリア嬢のような眩しすぎる方は釣り合わない」と辞退され、穏やかな友人関係に落ち着いたらしい。


 彼が再び屋敷を訪れることは今のところないが、私の中には「私の淹れたお茶が、あの人を助けた」という事実が、小さなお守りのように残った。




 あのお茶会を境に、私の生活が劇的に変わったかといえば、そんなことはない。


 相変わらず私は、夜会に出れば上手く笑えず、誰かから話しかけられれば言葉に詰まってしまう。母からは「もっと愛想よくしなさい」とため息をつかれ、姉の華やかさの影に隠れた「地味な次女」のままだ。


 けれど、私を取り巻く空気は、ほんの少しだけ柔らかくなった。


 ある日の午後。


 温室で土いじりをしていると、不意に扉が開き、姉のセリアが顔を出した。


 彼女がここへ来るのは珍しい。私は驚いて立ち上がった。


「お、お姉様……? こんな泥だらけの場所に、どうして……」


「リネット」


 セリアは少し気まずそうに目を伏せた後、小さな声で言った。


「……あのお茶、あなたが淹れたんでしょう? アンナたちの様子を見ていればわかるわ」


「えっ……」


「お母様には言わないわよ。……ただ、その」


 完璧な姉が、珍しく言葉を濁して、自分の頬に触れた。


「最近、お茶会が続いて、少し肌の調子が悪くて……。それに、夜もあまりよく眠れないの。もし、あなたさえ良ければ……私にも、あの……優しいお茶、淹れてくれないかしら?」


 セリアの言葉に、私は目を丸くした。


 いつも私を遠巻きに見ていた姉が、私を頼ってくれている。


 私は小さく息を吸い込み、そして、こくりと頷いた。


「うん。……お姉様の肌に合うブレンド、少し、考えてみるね」


「ありがとう、リネット」


 セリアはホッとしたように微笑むと、私の邪魔にならないように静かに温室を出ていった。


 私は再び、木箱の上に座り直した。


 手元のノートを開く。そこには、今まで試行錯誤してきた数え切れないほどの記録が、びっしりと書き込まれている。


 私は新しいページを開き、『セリアお姉様のための調合案』と見出しを書いた。


「お嬢様、また新しい草を仕入れやしたぜ」


 温室の奥から、トーマスが鉢を抱えてやってくる。


「ありがとうございます、トーマス。これは……日陰でも育つ、星影草ですね」


「へえ、一目でわかりやすか。たいしたもんだ」


「トーマスが教えてくれたからです」


 私は泥のついた手で頬を拭い、今日一番の笑顔を浮かべた。


 私は日陰の令嬢だ。


 大輪の薔薇のように、誰もが振り返るような華やかな場所では咲けない。


 けれど、この小さな温室でなら、土の匂いと不器用な優しさに囲まれて、誰かの心をそっと温めるような、小さくて優しい花を咲かせることができる。


 私には、ここがある。


 私を必要としてくれる、知る人ぞ知る、確かな居場所がある。


 ガラス越しに降り注ぐ冬の淡い光の下で、私が育てた月光草が、誇らしげに青々とした葉を揺らしていた。

続き

日陰の令嬢は、学園の片隅で秘密の温室を育てる。

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