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モブ子爵令息は悪役令嬢を救えない

作者: 岩上翠
掲載日:2026/03/24

転生したら、モブ子爵令息だった。


前世のぼくは親の借金を返すためにブラック企業で毎晩深夜まで働いてフラフラになって、ある日トラックに轢かれて死んだ。

女の子と付き合ったことはなかった。一度も。


今世では十八歳で前世の記憶が蘇ったが、それだけだ。

ここは前世で暇つぶしに姉から借りて読んだ小説の世界で、ぼくは名前すら出てこないモブのエキストラ。

領地なし金なしの宮仕え貧乏子爵の一人息子で、自慢できる容姿もチート能力もやる気も持ちあわせていない。

ちなみに母もいない。ぼくが十歳のときに他の男と駆け落ちしたのだ。

王都の古く狭い屋敷は維持費だけで相当かかるのであちこち雨漏りしていても直せないし、ぼくと父の服も滅多に新調できない。


「ジャック、おまえだけが頼りなんだ。このモンブル子爵家を立て直してくれ」

「や、父さん、ほんとごめん。出世とか無理だから……」


下を向いてぼそぼそと答える。

父の期待が重い。

でもごめん、ほんと無理。


王立学校の卒業を前に、ぼくは宮廷での文官職が内定していたが、それで明るい未来が待っているわけでもない。

転生した先の異世界も結局、厳然たるヒエラルキーが存在する社会だった。

むしろ身分制があって前世より過酷かもしれない。

ハーレムとかチートとか、そういうのは所詮選ばれた主人公にのみ許される特権なのだ。

自分のような何も持たない万年モブ男には望むことさえおこがましい。


ぼくはただ、今世を平穏に生き延びることだけ考えて生きていた。



 ■



王立学校はスクールカーストの牙城だ。

王族を筆頭に、身分と容姿とコミュ力で所属するカーストが決まる。


だから、校舎の前の道を歩く際にも注意が必要だ。

馬車止めから歩いてきて角を曲がると、校舎まで続く広く長い正面の道が現れる。

噴水があり、両脇に花壇があるその道を歩けるのは、王族とその取り巻きだけ。

その他の生徒は、正面の道の左右に花壇を挟んで延びる細い道を歩く、というのがぼくら世代の暗黙のルールだった。


当然だがぼくは王族専用の広い道ではなく、脇の細い道を使って登下校をしている。

校舎に向かって右側の道だ。

以前この道でつまづいて転んだとき、たまたま花壇に四つ葉のクローバーを見つけたので、なんとなくこちら側が縁起がいいような気がしていたからだ。


その日もぼくは右側の細い道を歩いて登校していた。

すると突然、近くで「ミャー」とか細い声がした。


「……猫?」


周りを見回すと、花壇を挟んだ広い道のほうに小さな黒い子猫がいた。

空腹のようで、しきりにミャーミャーと鳴いている。


立ち止まってどうしようか考えていると、うしろの馬車止めの道のほうから、声と足音が聞こえてきた。

オズワルド王子と、その取り巻きの男女のグループだ。


まずい。

オズワルドは一見爽やかそうな美形だが、実は動物が嫌いだ。

去年、この道に紛れこんだ野良犬を見つけたオズワルドは、取り巻き連中と一緒に石を投げ、悲鳴をあげて逃げていった犬を見て腹を抱えて笑っていたのだ。


ぼくはあわててしゃがみこみ、花壇ごしに子猫に語りかけた。


「おい、おまえ、そこにいたら危ないぞ。早くこっちに来い」


子猫は黄色いつぶらな瞳でぼくを見た。

だがその場でミャーと鳴くばかりで、まったくこちらへ来る気配はない。

どんなにおいでおいでをしても、口を酸っぱくして説得しても、猫は動こうとしない。


「まずいって……王子が来る……!」


こんな子猫に石が当たったら死んでしまう。

王子たちはまだ馬車止めに続く道からの角を曲がっておらず、ぼくと猫の姿は見えていないはずだ。


ぼくは意を決して子猫のいる広い道に足を踏み入れた。

だが、花壇のへりにつまづいて転倒し、カバンの中身を王族専用の広い道にぶちまけてしまった。


「ミャー」


子猫は食べ物でも捜しているみたいにぼくの筆記用具や本の匂いをクンクン嗅いでいる。

ぼくは瞬時に、黒くて小さなその体を抱き上げながら立ち上がった。

とにかく急いで逃げなければ!


そのとき、背後でザッと足音がした。


あ……終わった。

冴えないモブ子爵令息のぼくが、完全に王族専用道の上にいる。

領域侵犯だ。

どう見てもアウトだ。


ただ平穏に暮らしたかっただけなのに、卒業目前で王子に目をつけられ、文官の内定すら取り消されるかもしれない。

父さん、ごめん。


せめてこの子は最後まで守ろうと、温かな子猫の体をきゅっと抱きしめた。

すると、澄んだ鈴の音のような声がした。


「ブーちゃん」


……ブーちゃん?


えもいわれぬいい匂いが鼻をかすめる。

ふりむくと、黒髪のきれいな女子生徒が、ぼくの腕の中の黒猫をのぞきこんでいた。

モブのぼくでも知っている学年一の美女。

オズワルド王子の婚約者である、公爵令嬢アンジェリア・クロウリーだ。


そのうしろには、互いにそっくりな二人の短い赤髪の女子。

メイド服を着ているから、アンジェリアのメイドたちだろう。


アンジェリアは陶器のように白い手を伸ばし、ぼくの腕の中の子猫をなでた。

ぐっ……!

きれいな女子とこんなに近づいたのは前世を含めても初めてだ……!

睫毛が長い……黒髪がつやつやだ……でもあんまり見ると通報されそうで目をそらした。


だが彼女はなぜか、ぼくの制服の袖をつまんで引っ張った。


「早くあちらへ」

「へっ?」

「リリ、ルル、この方の荷物を拾ってさしあげて」

「「はい」」


そっくりな二人のメイドが同時に答える。

アンジェリアは猫を抱いたぼくをぐいぐい引っ張って細い横道に入った。

荷物を拾ってくれた二人のメイドも、ぼくらのうしろから早足でついてくる。


横道は鬱蒼とした木立に続いていた。

ぼくは木立の中へ入る前に、最後にちらっと広い道をふりかえった。

ちょうど、オズワルド王子が男爵令嬢ヘーゼル・ダルトンと取り巻きたちを引き連れ、曲がり角を曲がってきたところだった。




「ブーちゃんを助けてくださってありがとうございました。申し遅れましたが、わたくしはクロウリー公爵が娘、アンジェリア・クロウリーと申します」


木立の中まで来ると、アンジェリアはぼくから子猫を受けとって礼を言った。

「助けてくださって」と言うからには、彼女も王子の虐待癖を知っているのだろう。

ぼくは緊張でどもりながら答えた。


「い、いえっ、こちらこそ……ぼ、ぼくは、モンブル子爵の息子のジャック・モンブルです。こ、この猫、ブーちゃんっていうんですか?」

「ええ。黒猫(ブラックキャット)だからブーちゃんですわ」


アンジェリアは華やかな笑みを浮かべた。

ものすごくキラキラした美人なのにネーミングセンスは……いや、言わないでおこう。


「そ、そうですか……クロウリー公爵令嬢の猫なんですか?」

「いいえ、野良猫です」


彼女は子猫を草の上に降ろした。

子猫──ブーちゃんは食べ物をねだるように彼女を見上げて鳴いた。

だがアンジェリアはきっぱりと言った。


「さ、お行きなさい。ごはんは自力で見つけるのですよ」


あ、食べ物はあげないのか……。

こんな小さな子猫になかなか手厳しいな。


「ミャーア」


だが、ブーちゃんはまるで「はーい」とでも言うように鳴くと、トコトコ歩いてどこかへ行った。

ぼくは面食らった。

なんだこの聞き分けの良さは?

さっきぼくがどんなにおいでと言っても聞かなかったのに……身分?

王立学校では猫も身分で人を見るのか?

それとも器の大きさ??


呆然としながらもぼくはメイドたちからカバンを受けとり、礼を言った。


「それではモンブル子爵令息、わたくしたちはこれで失礼いたしますわね」

「あっ、待ってください!」


立ち去ろうとした彼女をとっさに呼び止める。

美しい青い瞳がぼくに向けられ、顔が熱くなった。

ぼくはしどろもどろに言った。


「あ、その……えっと……しゅ、週末は、歌劇場には行かない方がいいですよ……」

「歌劇場? なぜでしょうか?」

「あー……ぼ、ぼくの勘は結構当たるので……」

「勘……」


きれいな目が困惑に揺れる。

即座に発言を撤回しようと口を開いたが、彼女の方が先に言った。


「わかりましたわ。週末は歌劇場には行かないことにいたします」

「……そ、それがいいと思います」


メイドたちはぼくにうろんげな視線を送ったが、アンジェリアはほほえみながら会釈をして去っていった。


……よし。

これで本当にアンジェリアが歌劇場へ行かなければ、王子がこの小説のヒロインと浮気して観劇デートしている場面に出くわして修羅場になることもなく、悪役令嬢として破滅の道をたどることもなくなる、かもしれない。


そう、この小説世界の主人公は、オズワルド王子が執心している男爵令嬢ヘーゼル・ダルトンなのだ。

オズワルドの婚約者である公爵令嬢アンジェリアは邪魔者でしかない。

アンジェリアに待ち受けるのは破滅の未来だ。

けれど、子猫のブーちゃんを案じ、ぼくの将来も助けてくれた彼女が身を滅ぼすというのは、傍から見ていても気持ちのいいものではない。


だから、オズワルドの変心が決定的なものとなる歌劇場のイベントを起こさないよう、ぼくはアンジェリアに助言したのだが……。




「……大丈夫だよな? 行かないって言ってたし……」


週末、心配性のぼくは狭い屋敷にいてもそわそわと落ち着かず、王都の歌劇場へやってきた。

隣にあるカフェの馬車止めから、こっそり歌劇場の入口をうかがう。

もうすぐ開演時間になるが、一時間ほど前から見張っていてもアンジェリアの姿は見当たらない。

不審者を見るような周囲の視線が痛いが、もう少しだけ見逃してほしい。


歌劇場の中から開演のベルが聞こえてくる。

アンジェリアは来なかった。


……それは良かったが、オズワルドとヘーゼルも来なかったことが引っかかる。

小説では、開演前に自分の婚約者と一緒にいるヘーゼルを見たアンジェリアが彼女を痛罵し、オズワルドに決定的に嫌われて歌劇場から追い出される。

その後、オズワルドとヘーゼルがこの歌劇を一緒に観ることで、仲が一気に深まるはずなのだが……。

王族なので、別の出入口から入ったのだろうか?


そのとき、道の向こう側からきれいな人が歩いてきた。

黒髪で、二人のそっくりなメイドを引き連れている。

アンジェリアだ。

彼女はぼくに気がついて、にっこり笑った。

ぼくの心臓が弾かれたように飛び上がる。


アンジェリアは歌劇場の隣のカフェに入るようだった。

ぼくはどぎまぎしながらぺこりと会釈をして、彼女の後ろ姿を見送った。

本当に予定を変更してくれていたようだ。

ただのモブでしかない、ぼくの言うことを信じて。


だがメイドたちが主人のためにカフェの扉を開けようとしたとたん、中から客が出てきた。

オズワルドとヘーゼルだ。

店内へ入ろうとしていたアンジェリアともろに顔を合わせ、空気が凍りつく。


「……殿下、本日は体調不良ということでわたくしとの約束を延期されたはずですが、ここで何をなさっているんですの?」


アンジェリアが硬い声で尋ねた。

オズワルドは悪びれもせずへらりと笑った。


「何って、息抜きだよ。ほら、週末まで堅苦しい思いなんてしたくないからさ」

「アンジェリア様、オズワルド様は公務と勉強で疲れているんです! どうしてわかってくださらないんですか!」


ヘーゼルがパッと前に出て、オズワルドをかばうように両手を広げて叫ぶ。

ああ……小説で読んだ歌劇場の場面とほぼ同じじゃないか……。


ぼくは馬車の陰に隠れてうつむいていた。

ギスギスしたやりとりをなるべく聞かないようにしてやり過ごしていると、しばらくして、ドン、と誰かがぼくの肩にぶつかってきた。

オズワルドだ。

ヘーゼルの肩を抱いた彼は、ぼくに謝るどころか虫けらを見るような目を向け、チッと舌打ちして歩き去っていった。




それから数週間が経った。


王立学校でアンジェリアが婚約者のオズワルド王子と一緒にいることはめっきり減り、代わりにヘーゼルが王子の隣を独占するようになった。


ぼくは何度かブーちゃんの様子を見にあの木立の中へ行った。

すると、黒い子猫とたわむれるアンジェリアと会うことがあった。ちなみにメイドたちも常にそばにいる。

そんなとき、アンジェリアは王子との確執など感じさせない明るい笑みをぼくへ向けてくれた。

そしてぼくらはひとときのあいだ、一緒にブーちゃんと遊ぶのだった。


木漏れ日を浴びて笑うアンジェリアは、誰よりもきれいで優しい、素敵な人だ。

だが彼女は二週間後の卒業パーティーでヘーゼルを陰湿にいじめた件で断罪され、破滅することになる。


ぼくが見ている限りアンジェリアがヘーゼルをいじめたことは一度もない。

そもそも通常の授業に加えて妃教育で忙しく、そんな暇はないのだ。

こうしてブーちゃんと遊んでいるのも、ささやかな息抜きなのだろう。


猫じゃらしを振って無邪気に笑う彼女を見ると胸が痛んだ。


先日、忘れ物を取りに戻った教室で、ぼくはオズワルドが取り巻きの男子生徒たちに話していることを聞いてしまったのだ。


『俺、卒業パーティーで完全にヘーゼルに乗り換えるからさ、アンジェリアがヘーゼルをいじめてた証拠をできるだけたくさん捏造しておけよ。うるさいあの女が二度と表を歩けないように』


アンジェリアは破滅する。

だが、ただのモブ子爵令息のぼくには何もできない──。


「うわっ!」


頬に何か小さなものが触れ、ぼくは驚いて飛び上がった。

アンジェリアが猫じゃらしをゆらゆらさせ、首を傾げている。


「モンブル子爵令息、何か悩みでもあるのですか?」

「い、いや、そういうわけじゃ……」


彼女はドキッとするくらい大人びた笑みを浮かべた。


「でしたら難しい顔をなさるより、笑っていた方が楽しいですわよ。どうせ人生なんて、思い通りにはならないのですから」

「……!」


アンジェリアはわかっているんだ。

婚約者である王子の不実も、自分の将来の不確実性も、わかっていて毅然と受け入れようとしている。


彼女は公爵令嬢だから。

だから、強くて美しくて、破滅を受け入れる器の大きさがあるのか?


──馬鹿な。


そんなわけがあるか。


どれだけ強く見えても、アンジェリアは、ただの十八歳の女の子だ。


ぼくは何も持たない無力な子爵令息だけど──。

拳を固く握りしめ、顔を上げた。


「………………クロウリー公爵令嬢…………話が、あるんだ」



 ■



王立学校の豪華なホールで、卒業パーティーが幕を開けた。

ぼくもアンジェリアも、王子もヘーゼルも、卒業生として参加している。


髪をアップにしてゴージャスなドレスを着たアンジェリアは、気を抜くと時間を忘れて見とれてしまいそうなくらい美しい。

ぼくは父のお古の礼装で行こうとしたのだが、昼間、メイドのリリとルルが主人のアンジェリアの命だと言って訪ねてきてぼくの髪を切ってきっちりセットし、新しい服を渡して着替えさせた。

おかげで会場に入ったとたん他の生徒たちから二度見され「あんなやついたっけ?」とか「あの人、ちょっとかっこよくない?」などと囁かれていて落ち着かない。

もちろん他にもたくさんの生徒たちや教職員が着飾って入場し、卒業を祝っていた。


しばらくすると、男爵令嬢のヘーゼルをエスコートしたオズワルドが、会場の中央で婚約者のアンジェリアを指差して突然叫んだ。


「アンジェリア・クロウリー! おまえは純真無垢なヘーゼルに醜い嫉妬をし、嫌がらせだけでなく残虐な暴行まで働いた!」

「……わたくしはそのようなことをした覚えはございません」

「黙れ、ここに証拠もある!」


オズワルドが合図をすると、取り巻きたちがジャケットの内側から書類を取りだし、アンジェリアに見せつけるようにバッと広げた。

王子が捏造させたものだろう。


「弱者を踏みにじる卑怯者をこの国の王子妃とするわけにはいかない! よって、俺はおまえとの婚約を破棄する!」


会場がどよめいた。

まるで正義感に溢れた王子のように、オズワルドが青ざめたアンジェリアをにらみつける。


……今だ、行け!


ぼくはありったけの勇気を振り絞ってアンジェリアの前へ飛びだし、王子と対峙した。


「やめろ! クロウリー公爵令嬢はそんなことはしていない!」


王子はぽかんとした。


「……誰だ?」

「ジャ、ジャック・モンブル子爵令息……です」

「だから、誰?」


整った顔を、オズワルドはこてんと横に傾けた。

遠巻きに見守る観衆たちも「誰?」「見たことない」「下級生?」などとざわついている。

ひ、一人ぐらい、ぼくだと気づいてくれてもいいんじゃないか……!?


そのとき、隣接したホールから数人がこちらへ歩いてきて、ぼくとアンジェリアのそばに立った。

王立学校の校長、マスターズ先生を筆頭に、エイデン先生やリドル先生もいる。

オズワルドは呆気に取られた。


「……マスターズ先生、それにほかの先生方も……一体どうしたのですか?」

「オズワルド君、残念だ。王子であるきみが、きみの婚約者であり、わが王立学校始まって以来の才媛であるアンジェリア君をこのように貶めるとは……」

「ぐっ……! し、しかし彼女は身分をかさにヘーゼル・ダルトン男爵令嬢をいじめて……」


真っ白な長い顎鬚のマスターズ先生は、「ふむ」と言って取り巻きがかざした証拠の紙をひょいと取り、一瞥した。


「……ダルトン男爵令嬢がいじめられたとされるこの日も、それからこの日も、アンジェリア君は校舎内の特別室で私たちが妃教育を授けていた。男爵令嬢にちょっかいを出す暇などあるわけがないのだよ」

「っ……!!」


オズワルドは一瞬言葉に詰まったが、取り巻きたちの方を向いて叫んだ。


「なあ、おまえたちも見ただろう!? アンジェリアがヘーゼルをいじめている場面を、何度も!」

「は、はい」

「たしかに見ました」

「ほら、リスター侯爵令息もラムリー伯爵令息もこう言ってるじゃありませんか!」


リスター家もラムリー家も、王立学園に多額の寄付をしている家門だ。

先生方もその令息たちの発言をむげにはできないらしく、表情が翳った。


ぼくは腹に力を込め、反論した。


「他の生徒をいじめているのは、あなたたちだろう!」

「……は? いい加減にしろよ、子爵令息ごときが」


王子が険しい表情でぼくをにらみつける。

だが、ぼくは一歩も引かずににらみ返した。


ひりつくような沈黙の中で。

観衆のあいだから、小さな声が聞こえた。


「わ、私……殿下に『ヘーゼルに見せてやれよ』って授業のノートを取り上げられたことがあります……クロウリー公爵令嬢はノートを取り戻そうとしてくれました。そしたら、殿下は『邪魔だ!』って乱暴にクロウリー公爵令嬢の肩を押したんです」


一人の女子生徒が、怯えながらも声をあげた。

すると、他の生徒たちも堰を切ったように喋りだした。


「俺も、殿下たちの前を通っただけで『通行税払えよ』って笑いながら銀貨を奪われました!」

「私もヘーゼルさんにペンを取られました……誕生日に母からもらった大切なものだったのに……」


王子たちの悪行が次々に暴かれる。


形勢が悪くなり、オズワルドが口元を歪める。

だが彼は腐っても王子だ。

この場の誰よりも身分の高いオズワルドは、顔を怒りに染めて激昂した。


「黙れ! 貴様ら、誰のおかげで貴族でいられると思っているんだ!?」


生徒たちが口をつぐむ。

しんと静まり返った会場に、威厳のある声が響いた。


「少なくとも、おまえのおかげではないな」


声の方を見たオズワルドの顔から、みるみる血の気が引いていく。


「ち、父上……」


この場にいる全員が、さっと臣下の礼を執る。

登場したのは国王陛下だった。


すぐ隣の第二ホールでは、教師たちと保護者による謝恩会が行われていた。

マスターズ先生たちもそちらから来てくれたのだが、そこにはオズワルド王子の父親である国王陛下も参加していた。

陛下は怒りと失望が浮かぶ目を息子に向けた。


「さっきから聞いていたが、おまえにはほとほと呆れ果てた。優秀な妃候補だったアンジェリアを手放した上に、周りの生徒たちの心もつかめないようでは、到底この国を任せることなどできん」

「違うんです、父上! これは……」

「もう何も言うな。王太子にはおまえの弟のブライアンを据える。これは決定事項だ」

「そ……そんな……」


オズワルドはその場に膝をついた。

ブライアン王子は二学年下の第二王子だ。

真面目で控えめな性格で、兄のオズワルドのような華はないが、周囲の人望は厚いと聞く。


悪態をつきながら足音も荒く会場を去る王子のあとを、ヘーゼルと取り巻きたちがあわてて追う。

それを黙って見送ると、陛下は気を取り直したようにパンパン、と両手を叩いた。


「つまらぬことで中断させたな。楽隊、音楽を鳴らせ! 宴の続きだ!」


すぐに楽隊がワルツの演奏を始め、少しずつパーティーの賑やかさが戻ってきた。


ぼくはアンジェリアをふりかえった。

彼女はほほえみを浮かべた。


「ありがとうございます、モンブル子爵令息」

「あっ、いやっ、ぼくは何も……」


モブの子爵令息でしかないぼくには、この世界の悪役令嬢である彼女を救う力などない。


けれど、アンジェリアは小さな黒猫にも、冴えないぼくにも分け隔てなく優しい人だ。

だからきっと他の生徒たちにも優しいはずで、それならその生徒たちはアンジェリアの境遇に心を痛めているだろうし、教師たちもそれをわかっているに違いない。

そう踏んで、アンジェリアの周囲の生徒や教師たちに、今日この日に彼女の味方をしてくれるよう地道に頼んで回ったのだ。


アンジェリアにはあらかじめ、ぼくの勘だと言って、卒業パーティーで王子から婚約破棄といわれのない断罪をされるかもしれないことを伝えておいた。

彼女はぼくの突拍子もない話を全面的に信じてくれた。


そして、無力なぼくが立てた小さなさざなみは、大勢の人の力を借りて大きな波となり、オズワルド王子を呑みこんだのだ。


今、アンジェリアは美しい笑みを浮かべてぼくを見つめ、その周りでは男女が手を取り合い次々とワルツの輪に加わっている。


ぼくは一生分の勇気を奮い起こして彼女に手を差しのべた。


「ク、クク、クロウリー公爵令嬢……も、もしよかったら……ぼくと、踊ってくれませんか……?」


アンジェリアの青い瞳が見開かれ、形のいい赤い唇が、ゆっくりと開かれた。


「ごめんなさい。先約があって」


…………先約?

ああ…………そうか。

他の男子生徒と、ダンスの約束をしているということか。


そりゃそうだよな。

こんな素敵な女の子が、いくら窮地を救われたからって、ぼくみたいな男を選んでくれるわけがないよな……。


あまりのいたたまれなさに世界から自分の存在を抹消したくなる。

だが、彼女はぼくの袖をクイッと引いた。


「あなたも一緒に来てくださいませんか?」

「えっ?」


ぼくも一緒に?

ワルツって三人で踊れたっけ?


ぽかんとするぼくをグイグイ引っ張り、アンジェリアはなぜか、開け放たれているガラス扉から外へ出た。


「こちらですわ!」

「ク、クロウリー公爵令嬢??」


彼女は一体どこへ行くつもりなんだ?

うしろから絶妙な距離感で双子のメイドたちもついてくる。


等間隔で篝火の焚かれた広い道をどんどん歩く。

ここは王族専用道のはずだが、オズワルドは今日で卒業だし、弟のブライアン王子は誰の道だなどと幼稚なことは言わなそうだ。


アンジェリアは迷わず木立の中へ入っていく。

ぼくにもようやく彼女の先約の相手が誰かわかった。


「ミャー」


トコトコと歩いてぼくらのところへ来たのは、ブーちゃんだった。


「ブーちゃん、今までありがとうございました。可愛いあなたがいたから、愚かな王子の婚約者でいることにも、厳しい妃教育にも耐えられたわ。さあ、最後にわたくしとダンスを踊ってくださいませ」

「ミャーア」


アンジェリアはそっと子猫を抱き上げ、ホールからかすかに聴こえてくる楽隊の音楽に合わせてステップを踏んだ。

木立の上には満天の星空。

星明りを浴びて子猫と踊る彼女は、まるで妖精のように幻想的で美しかった。


彼女は、スッとこちらへ片手を伸ばした。

一礼をしてその手を取り、ぼくもダンスに加わる。


ダンスがこんなに楽しいものだなんて思ってもみなかった。

アンジェリアがぼくの手を握りターンする。

彼女の胸に抱かれたブーちゃんも、同時にくるりと回転する。


ずっとこの時間が続けばいいのにと願ってしまう。

けれど彼女は公爵令嬢で、ぼくは子爵令息で。

ついさっきも一生分の勇気を出してダンスに誘ったが、子猫に負けたところだ。


せめて、この瞬間を胸に刻みつけておこう。

そう心に決めたとたん、楽しそうに踊る彼女がぼくを見上げた。


「モンブル子爵令息、もしよろしければ今度、ご一緒に歌劇でもいかがですか?」


その瞬間、世界のすべてが黄金色の光に照らされたかのように眩しく輝きだした。

ぼくは満面の笑みで答えた。


「喜んで!」

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