第5話
花咲町4丁目。
7階建てのマンションの、5階の角部屋。
俺が住んでいる――もとい、居候している所である。
カギをあけ、少し重いドアをぐいっと引くと、ふわりとスパイスの香りが漂ってきた。
「おかえり、まひるくん!」
廊下の向こうからひょっこり顔を出したのは、小さな女の子だ。ひよこマークのエプロンをつけて、手にはおたまを握っている。
加賀屋みゆ、小学三年生。俺の正体を知る、数少ない人間のひとりである。
「あれ? 今日はみゆが料理当番だっけ?」
「あのね、パパは徹夜明けでヘロヘロなんだって。だから交代してあげたの」
「そっか。みゆは優しいんだな」
俺の言葉に、みゆは照れたように笑う。なにこの愛らしさ、天使かよ。今日一日の疲れが消えていく気さえするぜ。
「んー、この匂い……今日の晩メシはカレーだろ?」
「ピンポーン! もうすぐできるから、ちょっと待っててね」
そう言い残すと、みゆは奥へとひっこんでしまった。
あー、腹減った! 美味そうな匂いに誘われるままに、俺もリビングへと向かうのだった。
「やー、まひる。おかえり」
ぼさぼさの頭でふらりと起きてきたのが、加賀谷晴一。俺はハルって呼んでる。
みゆの父親で、俺の親友。
年を取らない妖怪の俺と、人間の子供だったハル。なぜだか妙に馬が合って、もう三十年近い付き合いになる。
出会った頃はまだあどけないガキだったのに、今やすっかりヒゲ面のおっさんになっちまった。今は大学で民俗学を教えているんだとか。
「はい、パパの分」
ハルがテーブルにつくと同時に、テーブルに置かれるカレー皿。とろりとよく煮込まれた濃いめのカレーには、みゆ曰く「秘伝の比率」があるそうだ。旨いカレーは数あれど、俺もハルも、みゆのカレーが世界一好きなのである。
「おおっ、いつも通りおいしそうだね。ありがとう、みゆ」
ハルはそう言って笑った。丸メガネの奥の目が、きゅっと嬉しそうに細められる。
オッサンになった今でも、あの目だけは同じ。ハルの瞳はずっと昔のままだ。
「どうかしたの? まひるくん、食べようよ」
「……ああ、ありがと」
俺はみゆからスプーンを受け取ると、いただきますと声を合わせた。
「……でね、担任のアンドー先生は、ちょっとおとなしいの。体操のタナカ先生からは「もっと大きな声で話してください!」って言われちゃうんだって」
「そうか、物静かな人なんだね。仲良くしてあげるんだよ」
「うん!」
加賀谷親子の楽しげな会話が聞こえてくる。
いつもなら俺も興味深く聞いているのだが、今日は何だかぼんやりしてしまう……やはり昼間の怪異のせいだろうか。
「まひる、どうかしたかい?」
急にハルがそう言った。
「え、なんで?」
「なんだか疲れているようだし、目が赤いよ」
「ああ、今日プールで溺れて……」
しばしの沈黙。
しまった、と思ったときにはもう遅かった。
ハルは好奇心に目を輝かせて、ずいっと身を乗り出す。
「え? え? もしかして、まひるは泳げないのかい? へぇ! 長い付き合いなのに、それは知らなかったなぁ、あはは」
「笑い事じゃねーよ。大変だったんだからな!」
「ごめんごめん。まひるは何でもできるイメージがあったから、泳げないとは意外だったもんで」
「お前は泳げるのかよ」
「水泳は得意だよ」
「チッ……」
まさか人間であるハルに遅れをとるとは……くそ、だから知られたくなかったんだよ!
「まひるくん、みゆがクロール教えてあげよっか?」
「いい。俺、二度とプールになんか行かない」
ふてくされている俺を見て、またハルが笑う。
「まあまあ、拗ねなさんなって。ひとつくらい弱点があったほうが、可愛げがあるじゃないか」
「うるせー」
「そもそも、どうしてプールに? 所長さんの命令かい?」
「そうだけど……あ!」
それで思い出した。
俺はポケットから例の紙くずを取り出す。
「なあ、これ何だと思う?」
俺の手のひらの上。濡れて折れ曲がった紙を、ハルとみゆがじっと見つめる。
ふたりとも、決して手を触れない。これが危ないものかもしれないと、ちゃんと分かっているのだ。
「文字の跡のようなものがあるね……読めるほど鮮明ではないけれど。材質からすると、すこし繊維の荒い……和紙のようだが」
メガネを上げつつ、ハルが言う。
その隣で、みゆがはっと目を輝かせた。
「ねえ、これ、折り紙じゃない?」
「オリガミ? なんだそりゃ」
「みゆ、学校でいっぱい折ったの!」
そう言うが早いか、みゆは自分の部屋から紙の束を持ってきた。正方形の紙束だ。いろんな色や模様がある。
「見ててね」
みゆは紙を三角に折り曲げると、ひっくり返して折り、またひっくり返して折り……何度も何度もその動作を繰り返す。
俺の見ている前で、紙はひし形に折られ、半分になり、そして――。
「ほら!」
みゆの手が離れると、そこには羽を広げた鳥のような姿があった。
「へえ、器用だな……これは鳥か?」
「鶴だよ、折り鶴」
鶴か。あの頭の赤い、首の長い奴だな。
確かにそう言われれば、そんな風に見えてくる。
「学校でたくさん折ったということは、誰か入院でもしているのかい?」
「うん。クラスのシュウ君が、肺炎なんだって」
頷きあっている親子を前に、俺は首を傾げる。
「なあハル、なんで入院したら折り鶴を作るんだ?」
俺の質問に、ハルがにこりと笑う。職業柄なのか何なのか……ハルは俺が何かをたずねる時、決まって嬉しそうに笑うのだ。
「千羽鶴というものがあってね。折り鶴をたくさん、それこそ千羽、折ってつないだものなんだ」
ハルは両手の指を組むと、その上に顎を乗せた。俺と話をするとき、いつもハルはこうする。
「古くから、鶴は長生きの象徴だった。だから、病気や怪我が早く良くなって、長生きできますようにという願掛けの意味があるんだよ。早く元気になりますようにという願いを込めて、鶴を折るんだ。昔からのおまじないだね」
「ふーん」
人は本当によく願う。
消えそうな希望をつなぎたくて、あるいは、無駄だと分かっていながらも――それでも人は願い、祈るのだ。
いつか願いが天に届くだって? 悪いけど、俺にはそうは思えねえよ。長く生きてりゃ分かるぜ、この世には神も仏もねえな、って思うことだらけさ。
それでも――それでも人は願う。
何十年も、何百年も前からずっと続く、人の営み。
――ハルも、何かを天に願ったことはあるんだろうか。
目の前に置かれた折り鶴を眺めて、俺はそんなことを思っていた。
「まひる、どうかしたかい?」
「……いや、別に。何でもねえよ」
俺はテーブルの上の鶴をつまみ上げた。
「みゆ、この折り鶴もらってもいいか?」
「いいよー」
みゆはまた別の一羽を折り始めている。
俺は手の中の紙くずと、みゆの作った折り鶴を見比べてみた。
濡れて折れ曲がって、ちょっと破れた紙くず。確かに、広げる前の折り鶴に近い形をしている。
「なあ、ハル」
「何だい?」
「鶴の鳴き声って、聞いたことあるか?」
ふと思いついたんだ。あのラッパみたいな音は、鶴の鳴き声だったんじゃないかって。
ハルはまた、にこりと笑う。
「実際に聞くとびっくりするよ。『鶴の一声』なんていうけれど、まさにそれだね」
「どういうことだよ」
「鶴の鳴き声というのは、他の鳥に比べてかなり大きいんだ。喉の筋肉が発達しているためだと言われているね。雪景色の中に響く鶴の声は迫力があるよ。昔調査に行ったときに聞いたんだけど、思わず作業の手を止めて、息を飲んで見入ってしまったくらい、強くて大きな声だったね」
「どんな感じの声なんだ?」
「そうだな……鳥の声というよりもっと、楽器みたいな……」
「ラッパの音みたい、とか?」
「ラッパか……そう言われればそんな感じかもしれない」
鳴いた折り鶴と、プールの怪異、か。
「ったく、面倒なこった」
俺がぼやくと、ハルとみゆは顔を見合わせて笑った。
「なんだよ」
「面倒だと言いながらも、案外まひるは面倒見がいいんだよね」
「しょうがねえだろ、仕事だし」
「ふふ、そうだね」
ハルはまた、嬉しそうに笑った。




