第3話
逃げるように事務所を飛び出した、およそ一時間後。
俺はワタルと並んで、プールサイドにぼんやりと座っていた。
今回の仕事は、ここ『花咲プールアイランド』の監視員だ。
プールといえば「長方形の水たまり」という俺の認識は、いつの間にか古臭いものへと変わっていたらしい。
ドーナツ形のプールではぐるぐると水がめぐっているし、海みたいに波が立っているプールもある。おまけにジェットコースターよろしく、信じられない高さからうねうねと続く滑り台まである。
そして何より一番驚いたのは、それらがすべて屋内にあることだった。
『真夏の強い日差しを遮ることができる』のがこのプールのウリなんだとか。
「だったら水遊びなんかしてないで、家で寝てりゃいいのになァ」
俺がぼやくと、なぜか張り切っているワタルが渋い顔でこちらを睨む。
「ちょっと、まひるっち! ふてくされてないで、真面目に仕事してよね」
「べつにー、ふてくされてませんー」
「嘘じゃん! これでクーラー直るんだから、気を取り直してしっかり見張っててよ」
「分かってますぅ」
冗談じゃねえ、文句のひとつも言いたくなるってもんだ。かといって、所長にケンカなんてふっかけたところで、百回やっても勝てねえだろうし……。
どうしたもんかと考えあぐねている俺の横から、ワタルが顔を覗き込んでくる。
「ねえねえ、まひるっち」
「なんだよ、うっとおしい」
「所長ってさー、なんの妖怪だろうね。あんなに強くて怖いなんてさー」
「は? お前知らないの?」
俺は思わず、素っ頓狂な声を上げて身を起こす。
「えー、なになに? まひるっち、知ってるの?」
「当然だろ! お前、正体も知らない相手に従ってるわけ?」
「えへへ。おれ、素直だからさ」
「そういうのは『馬鹿』って言うんだよ、覚えとけ。所長の正体はな、狐だよ――き、つ、ね!」
「へぇ、そうなんだ! 意外とカワイイじゃーん」
は?
可愛いわけねーだろ。
ワタルの馬鹿さ加減に頭を抱えつつ、俺はため息を吐いた。
狐の妖怪――妖狐といえば大妖怪だ。有名なのは九尾の狐。古くは王を惑わせ、国を滅ぼしたヤツまでいたらしい。
所長に尻尾が何本あるかまでは俺も知らないが――少なくとも、猫やカッパが挑んでいい相手ではない。
まあ、知らない方が幸せ、なんて事は、世の中にいくらでもあるモンだけど。
それにしても……。
「やっぱ妙だよな。お前もそう思わねえ?」
「えー? なにがー?」
ワタルはまったく何もわかっていない様子で首をかしげている。
「今ってさ、世間は夏休みだよな」
「そうだよー。小学生から大学生まで、絶賛夏休み中!」
「その割にココ、ずいぶん人が少なくねえか?」
「えー……あれ? ホントだ。この時期は毎年いっぱいのはずなんだけど、なんでだろ?」
俺は目を細め、口を開く。
「……なあ、所長から聞いてる依頼って、タダの監視員のバイトなのか?」
「うん。それ以外は何も聞いてないよ」
「やっぱ変だよな、あの所長がラクな仕事なんか回してくるわけねーし……この依頼、なんか裏があるんじゃね?」
「えー、気にしすぎだよぉー。人少ないほうがヒマでいいじゃん!」
「そもそも、何で俺がこんな所につき合わされなきゃなんないわけ?」
「はいはい、文句言ってないで仕事仕事!」
「仕事って、何するんだよ」
「えーっと……プールを監視するんだよ! で、足がつって溺れてる人がいたら助けるの!」
「俺、泳げねーんだけど?」
「……えっ?」
「えっ、じゃねーよ。猫なんだから泳げるわけねーだろ」
ワタルは無言で顔を背けた。
が、しっかり肩がぷるぷると震えている。
「……おいテメエ、笑ってんじゃねーよ」
「だ、だって……! まさかまひるっちが泳げないなんて思ってなくて……っ、ぷくくっ! あははッ! あっ、痛い痛い! 暴力反対!」
「黙れクソ河童!」
「まあまあ、心配しなさんな。この溝淵ワタルがいる限り、水辺の平和は約束されたようなものなんだから!」
笑いすぎて涙を浮かべながらも、ワタルは得意げに薄い胸を叩く。
「そうかい、そいつは凄いな。それじゃあ、俺はここに座っててやるから、お前はしっかり働けよ」
「OK! まかせといて!」
何やらやる気を出したらしいワタルは、意気揚々と歩き出した。
やれやれ、何事も起こらなきゃいいけどな……。




