第一章−7:観測されない真理
人工知能による帰宅通達がラボの天井スピーカーから三度目の通知を発したとき、ジュリアン・モローは返答しなかった。
彼の指はなお、光のキーボードを滑り続けている。
机の上には分子構造のホログラムが浮かび、仮想空間内では膨大なシミュレーションが同時並行で進行していた。
彼は気にも留めない様子で、演算の結果を見つめている。
時折まぶたを伏せ、無言のまま何かを思案し、それからまた次の検証へと移っていく。
目の下には疲労の影があり、制服のジャケットは脱ぎ捨てられ、シャツの袖は肘までまくり上げられていた。
それでも彼の所作に乱れはなく、すべてが整理され、正確で、静かだった。
このラボは、学園都市内にいくつかある個人研究ユニットのひとつで、ジュリアンに割り当てられた部屋には高次量子干渉解析機と反物質モデル試作炉が設置されていた。
ただの高校生の部屋とは思えない設備だったが、この都市では異例ではなかった。
彼の研究テーマは「観測における次元反転の確率解析」。
端的に言えば、「見ることができないものが存在している証明」を試みていた。
——この世界は、観測されることで初めて“確定”する。
——では、“誰にも観測されなかったもの”は、最初から存在しなかったとされるのか?
彼の問いは、哲学的でもあり、量子論的でもあった。
そしてその核心には、ひとつの空白が横たわっていた。
ジュリアンは、幾度目かのシミュレーション失敗を確認し、ふぅ……と短く息を吐く。
「また逸れる……収束しない……」
反物質モデルは不安定に崩壊し、観測変数の変動が臨界点を超えた。
彼は手元の数式を見直しながら、ふとディスプレイの片隅に貼ったメモに視線を移した。
「月は、存在しない」
それは、半年前に思いつきで書いた言葉だった。
論文の一節でもなく、研究の仮説でもない。
ただ、ある夜ふと、心に浮かんだ“違和感”の形を、言葉にして貼っておいたものだ。
彼は自分の感情を信じていない。
だが、消えない感覚だけは否定できない。
空が、何かを失っている。
それを人々が忘れていることが、なぜか自然に見える。
「……意識の解像度が下がっているのかもしれないな、この社会全体が」
彼は自嘲気味に呟いた。
均質化され、最適化され、摩耗しないよう整えられたこの都市の環境は、
思考そのものまでも「効率化」してしまったのかもしれない。
帰宅推奨時刻をとっくに過ぎた今、廊下の照明は減光され、ラボの外には誰の気配もない。
彼は椅子を離れ、研究室の壁際にある光学モニターに歩み寄った。
それは都市中枢のセンサーネットワークと接続されたリアルタイム映像投影装置で、地上の風景を天井近くに映し出している。
映像の中では、灯りが幾何学的に並び、無人車両や巡回ドローンが粛々と巡っていた。
完璧に整えられた都市の“沈黙”は、逆に何かを隠しているようにも見えた。
それが何か、彼にはまだ分からない。
けれどその空白こそが、彼の研究をここまで突き動かしてきた理由だった。
ベッドユニットを自動展開し、彼は軽くストレッチをして、ノート端末に短いメモを残す。
【観測ログ】
本日の結果:不安定/崩壊。
感覚的には“補完すべき空白”が存在する。
定量データとの照合に矛盾あり。要再検証。
補足:
“存在しない月”という言説があまりにも自然に流通している。
思考抑制か? 文化的馴致か?
どちらにせよ、自発的な喪失が前提化されている。
これは観測の盲点と酷似する。
保存。同期。暗号化。
明かりを落とし、ベッドに横たわりながら、彼は天井の人工星空を見上げた。
それは演算で導き出された最適星図であり、誰にとっても「美しい夜空」のはずだった。
だが彼には、そこに映らない何かが、確かにあるように思えた。
(星図に映らない重力源……光を持たない天体……それがもし、ただの虚構でなければ?)
彼の思考は静かに沈み、眠りに落ちていく。
けれどその奥底では、「観測されないもの」の輪郭が、かすかに揺らめいていた。




