第一章−6:静寂に咲くもの
歩道橋の上には、まだユン・ハルカの姿があった。
とっくに帰宅推奨時刻を過ぎていたが、彼女はそこから動く気配を見せなかった。
周囲はますます静かになり、都市の灯も眠る準備を始めている。
自動運転の車両がときおり橋の下を走り抜けるほか、人工水路の流れがかすかに響く。
光は抑えられ、風は温度を失い、世界がやわらかく輪郭を手放していくようだった。
そんな中、橋の端に小さな気配が現れた。
「ユン・ハルカ様。午後八時四十一分。帰宅推奨時刻を六十一分過ぎています」
声とともに現れたのは、巡回型の監視アンドロイドだった。
滑らかな白い外装と、やや間の抜けた無表情な顔。だがその背には明らかに「監視」と記された光のラインが浮かんでいた。
ハルカは振り返らず、ため息のように小さく言った。
「……分かってる。今、帰るところだった」
「了解しました。位置記録を帰宅経路へリンク。寄り道は不可となります。ご安全に」
アンドロイドはそれ以上何も言わず、一定距離を保ちながら彼女の後方にぴたりとついてきた。
この街では、「強制」は決してされない。だが、「選択肢」は確実に制限される。
ハルカは無言で歩き出す。
白く発光する歩道のラインに沿って、彼女の足音が淡く響く。
この時間帯、通行人はほとんどいない。
都市が眠りにつく前の数十分間は、かろうじて人の気配が残る“余白”だった。
音のない生活、整いすぎた風景。そのなかで彼女だけが、どこか都市のリズムに噛み合っていない。
そんなときだった。
ふと、風の向きが変わった。
歩道の先、曲がり角の向こう側。
建物の影と樹木が重なり、視界が歪むような一角から、ほんのかすかな声が漏れてきた。
(……人の声?)
それは、誰かが何かを唱えているような低い調子。
単語の一つひとつは聞き取れなかったが、規則性を持った「集まり」特有の空気が、夜の風に乗って流れてきた。
ハルカは足を止めた。
アンドロイドは数歩後ろで立ち止まり、無言のまま監視を続けている。
角を曲がれば、その声の正体が分かる——そんな距離だった。
彼女はそっと呼吸を整え、歩道を逸れて近づこうとした。
だが。
カシン——という微かな金属音とともに、背後の空間にドローンのホバリング音が交差した。
一機、二機、三機。
視界に入らない高所から、熱源を追跡する音が周囲に波紋のように広がっていく。
(……あの集団は、都市に“知られたくない”ことをしてるのかも)
それは直感だった。
好奇心は強く、足を止めかけたが——
次の瞬間、アンドロイドが淡々と警告を繰り返した。
「ユン・ハルカ様。定められた帰宅経路を逸脱しようとしています。ご帰宅を推奨します」
視線も声色も変わらないその存在に、彼女は深く息を吐いた。
「……分かったよ」
そう言って、元の道に戻る。
興味はあった。けれど、そこに留まる理由は見つからなかった。
あるいは、見つけてもきっと“許されない”ことを彼女は知っていた。
帰路につきながら、ふと背後を振り返る。
角の先、建物の陰。もう音は聞こえない。
ただ、あの一瞬だけ感じた空気の振動が、彼女の中にじんわりと残っていた。
(誰だったんだろう……何をしてたんだろう……)
問いは浮かぶが、答えは来ない。
だからこそ、都市は安定している。
問いが“未確定”である限り、それは「存在しなかった」ものとして扱われるのだ。
ハルカは寮の方角を見やり、再び夜空を仰いだ。
そこにはやはり何もない。けれど——
(でも、ないはずのものが、あるって感じるのは、わたしだけじゃない気がする)
彼女はそう思った。
言葉にはせず、ただ、胸の奥にしまい込んだまま。




