第一章−5:都市は静かに夜を受け入れる
午後七時。空はすでに夜の濃度を帯びていたが、学園都市「イデア・セクター」はまだ完全な暗闇には沈まない。
街路樹の下には光感知式の照明が点り始め、歩道のタイル一枚一枚がほんのりと色を変える。
それは装飾ではない。照度、温度、通行量、時間帯など複数の因子を加味した都市インフラの「最適化」による現象だった。
だがその完璧さを、通行人たちは誰も意識していない。
ただ、都市が彼らの生活を支えてくれているという無言の信頼のなかで、生徒たちはそれぞれの夜を始めていた。
寮棟前では、数人の生徒が談笑している。
制服の上に軽く羽織ったパーカーや、荷物のない手ぶらの姿は、この街に貧困や労働の概念がほとんど存在しないことを象徴していた。
ある者はタブレットを空中に浮かべながら宿題に取り組み、
ある者はドローンを連れて芝生を散歩し、
ある者はバイオリンのような楽器を鳴らして、ひとりで音の実験をしていた。
これらすべてが、学園都市の“日常”だった。
そしてそのどれもが、ある種の「選ばれし者」の空気をまとっている。
この都市に入れるのは、世界中の最も優れた頭脳と素質を持つ者たちだけ。
だがその選別は過酷ではなく、あまりにも自然な形で行われるため、誰もその優劣を口に出すことはない。
それが「イデア・セクター」という閉ざされたユートピアの風土だった。
治安維持用のアンドロイドが交差点をゆっくり横切っていく。
背中には「市民保護任務中」の表示が浮かび、歩行速度や視線の向きまでもが市民に不快感を与えないよう設計されている。
不審者は、そもそもこの街には入れない。犯罪という概念が、ほとんど実行される余地を持たないのだ。
たとえば……
夕方のマーケット通りでは、自動販売機と対話しながらジュースを選ぶ生徒がいた。
質問に対するAIの返答は「今の君の血糖値から考えて、このフルーツミックスが最適です」と、まるで親身な助言のようだった。
電柱も看板もない。
ゴミも音も、迷いも衝突もない。
この都市には、必要なものだけが存在する。
だが、それが「完全」であると、本当に言えるのだろうか。
夜空が深くなるにつれて、都市の灯りが一段階、彩度を落とした。
人間のメラトニン分泌を阻害しないよう設計された「眠るための明かり」が、街に静かに降りてくる。
風が緩み、空気の密度が変わる。生徒たちの声も減っていき、都市は徐々に眠りの支度を整え始めていた。
だが、眠らない者もいる。
――そのひとり、ユン・ハルカは、ひと気のない歩道橋の上にいた。
彼女の足元を、無人の車両が静かに通り過ぎていく。
彼女は欄干にもたれ、手すりに肘を置いて、じっと夜空を見上げていた。
その目は、何かを探しているようでいて、何も探していないようにも見える。
都市の灯りが反射して、夜空は青黒く染まっていた。
けれど、彼女が見ていたのはその色ではなかった。
「……そこにあるはずだったのに、って。思うだけ、無駄なのかな」
誰にも聞こえない声で、彼女はつぶやく。
けれどその声は、空気の中に静かに染み込んでいくようだった。
彼女の頬を風が撫で、遠くで何かが一瞬だけきらめいた。
それは星ではない。機械の反射か、ドローンの光か。
あるいは、彼女の目の奥にだけ灯った、かつて在った“何か”の記憶の残光だったのかもしれない。
歩道橋の下では、人工水路が静かに流れていた。
夜の都市は完璧だった。
それでも、ほんのわずかに、不完全な何かが芽吹きはじめていた。




