第四章-15:影の手招き
気配は、はっきりと“そこにある”わけではなかった。
だが、確実に向けられている。
ルイは壁際に身を寄せ、廊下の奥へと意識を伸ばした。
理事長宅は広い。だが無駄な空間は一切なく、すべてが「管理されている」建築だ。
視線の通り道、音の反響、死角の配置——そのどれもが偶然とは思えない。
(……誘ってる?)
そう感じたのは、勘ではない。
“こちらが動けば、次がある”
そんな予測が、自然に組み上がってしまったからだ。
ルイは一歩、足を踏み出した。
靴底がカーペットに沈み、音を殺す。
人間であれば、無意識に呼吸が荒くなる場面だろう。
だが彼の呼吸は一定で、心拍も理論上は安定している。
それでも。
胸の奥の「人間的な部分」だけが、奇妙に騒いでいた。
——やめておけ。
——でも、行かないと何かを失う。
相反する信号が、内部でせめぎ合う。
廊下の角を曲がった先。
庭園へと続くガラス扉の前に、ひとつの影が落ちていた。
人影ではない。
しかし光の屈折が、そこに「何かが立っていた痕跡」を残している。
ルイは、思わず口元に薄い笑みを浮かべた。
「……ほんと、回りくどい」
声は小さく、しかし確かな意志を含んでいた。
次の瞬間、庭園側の照明が一段だけ落ちる。
闇が深くなり、代わりに星明かりが浮かび上がった。
月は、存在しない。
それでもこの世界では、月光を模した照明や反射が、夜を彩る。
(皮肉だな……)
“ないもの”を、ここまで丁寧に再現する文明。
“真実”を隠すために、どれほどの技術と意思が注ぎ込まれているのか。
——カツン。
庭の奥、石畳を踏む音。
今度は、はっきりしている。
ルイはガラス扉を開けず、内側から様子をうかがった。
センサーは反応しない。
つまり、通過を許可された存在だ。
影の主は、あえて姿を現さなかった。
だが、低く抑えた声が夜気に溶ける。
「……やはり、起きていたか」
中性的で、年齢の測れない声。
電子的ではないが、どこか加工されたような響き。
ルイの背中に、微かな緊張が走る。
「名乗らないのは礼儀に欠けるんじゃない?」
軽口を装いながら、彼は相手の位置を測る。
音源は一定していない。
つまり、固定されていない。
声は、少しだけ笑った。
「名は重要ではない。
君にとっても、我々にとっても」
——我々。
複数形。
確信に近い何かが、ルイの中で組み上がる。
(アルセーネ……でもない。組織の人間でも、理事長直属でもない)
そのどれとも違う、第三の立場。
「用件は?」
ルイは問い返す。
「簡単な確認だ」
声は続ける。
「君は、どこまで“自分”を自覚している?」
一瞬、世界が静止したように感じられた。
その問いは、あまりにも核心を突いていた。
生物学、工学、倫理——そのどれにも属さない場所を、正確に刺してくる。
ルイは沈黙し、やがて静かに答えた。
「……それを聞いて、どうするつもり?」
「安心するか、警戒するかを決める」
影が、わずかに揺れる。
「そして、選ぶ。
君たち三人を——
“守る側”に回すか、“切り捨てる側”に回すかを」
風が吹き抜け、庭園の木々がざわめいた。
星明かりの下で、ルイの表情が初めて硬くなる。
そのとき。
——遠くで、微かな警報音が鳴った。
理事長宅のセキュリティが、何かを検知した合図。
影は即座に後退する。
「今夜はここまでだ、ルイ・カマウ」
名を呼ばれ、ルイは息を呑んだ。
「近いうちに、また“選択”の場が訪れる。
そのときまで——
何も知らないふりをしているといい」
次の瞬間、影は完全に消えた。
まるで最初から存在しなかったかのように。
ルイはしばらく動けずにいた。
やがて、深く息を吐く。
「……やっぱり、眠ってる場合じゃないよな」
彼は振り返り、屋敷の中へと戻った。
まだ、夜は終わらない。
そして——
この静かな屋敷は、すでに戦場の入口に立っていた。




