第一章−3:ジュリアン・モローの境界線
図書館本館の地下階は、建物の構造上もっとも沈黙に包まれた場所だった。
階段を下りるたびに、音が一つずつ失われていく。
最後の段を踏み下ろすと、そこは人工光だけが支配する無窓の世界。壁には書架がなく、代わりにホログラムインデックスと呼ばれる円柱型の装置が並び、所定の入力さえあれば、過去数百年に渡る世界中の記録が呼び出せるようになっていた。
ジュリアン・モローはその一角、許可された生徒だけが使えるデータ実験室、通称パラセルラボの奥にいた。
人工光が白々と照り返す無菌的な空間。空調の微かな音と、ディスプレイの光が彼の眼鏡に反射していた。
今日のテーマは「詩における月の使用頻度と地域的分布の相関解析」。
滑稽なほど感情のない研究名だった。だがその実態は、人類が“月”をどれだけ深く前提としてきたかを探る、彼なりの精緻な探査行だった。
世界の主流科学では、“月”は「かつてそのような概念が流行した形而上的構成物」とされている。
天体としての証拠はなく、重力的な異常値も、観測記録も、存在しない。
なのに。
詩には残っていた。
絵画には描かれていた。
民話に登場し、季節を示す記号として定着していた。
そしてなにより、「なくなった」ことを誰も語らない。
ディスプレイには、各時代ごとの文学作品に現れる「moon(または各国語表記)」の出現頻度がグラフ化されていた。
不可解なことに、文明の進歩に伴って一度増加した「月」の語は、ある時期を境にほとんど使われなくなっていた。
その境界は明確ではない。だが20世紀の後半から、緩やかに、そして静かに消えていく。
誰も喪失を語らず、記録からはぼかされる。
(喪失は、知覚の不備によって起こるのか……それとも、意図的な遮断か)
彼は目を細めてデータを睨んだ。
この都市では、答えのある問いしか歓迎されない。だが彼の探しているのは「答えが拒まれている問い」だった。
そのとき、警告表示が一つ、静かに浮かび上がった。
【情報アクセス制限:CLASS-D+/学外アーカイブよりのリダイレクトにより遮断】
彼の指が止まる。ディスプレイに映されたのは、ある“信仰組織”に関連した非公開資料の一部。
ハルカとは別の形で、ジュリアンもまた“月”を信じる者たちの存在を感じ始めていた。
「……宗教か」
彼は声に出さず、眉をひそめた。
感情ではなく、純粋な知的拒絶だった。
科学は言葉と論理の支配領域であり、信仰はその外にある。それを混ぜ合わせることは、解体された意味の塔を積み直すようなものだ。
(……けれど、なぜ彼らだけが、堂々と“月はあった”と言い切れるのか)
その問いは、ジュリアンの心に火を灯すよりも、影を落とした。
それは探究の炎ではなく、崩されかけている確信への警鐘のようだった。
机に肘をつき、両手を組んで額を預ける。
誰にも見せない姿勢。
けれどその中には確かに、彼自身がまだ言葉にできない「不安定な違和感」が芽を出していた。
ふと、思い出す。
今朝、彼の隣の席でスケッチブックをめくっていた少女——ユン・ハルカ。
あの絵に描かれていた“丸いもの”が、彼の重力分布シミュレーションに妙に合致していた。
無意識か、記憶か、遺伝か。
何が彼女を描かせたのか分からない。けれど。
(本来、それは……)
彼は思考を切り上げ、立ち上がる。
視界には再び、冷たく整然とした機械と数式。
夜間照明が切り替わり、ラボ全体が仄かな青に染まる。
彼の影は、背後の壁に柔らかく落ちた。
ただし、その影の形はほんの一瞬、不自然に歪んでいたことに、ジュリアン自身は気づかなかった。




