表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/40

第一章−3:ジュリアン・モローの境界線


図書館本館の地下階は、建物の構造上もっとも沈黙に包まれた場所だった。


階段を下りるたびに、音が一つずつ失われていく。

最後の段を踏み下ろすと、そこは人工光だけが支配する無窓の世界。壁には書架がなく、代わりにホログラムインデックスと呼ばれる円柱型の装置が並び、所定の入力さえあれば、過去数百年に渡る世界中の記録が呼び出せるようになっていた。


ジュリアン・モローはその一角、許可された生徒だけが使えるデータ実験室、通称パラセルラボの奥にいた。

人工光が白々と照り返す無菌的な空間。空調の微かな音と、ディスプレイの光が彼の眼鏡に反射していた。


 


今日のテーマは「詩における月の使用頻度と地域的分布の相関解析」。


滑稽なほど感情のない研究名だった。だがその実態は、人類が“月”をどれだけ深く前提としてきたかを探る、彼なりの精緻な探査行だった。


世界の主流科学では、“月”は「かつてそのような概念が流行した形而上的構成物」とされている。

天体としての証拠はなく、重力的な異常値も、観測記録も、存在しない。

なのに。


詩には残っていた。

絵画には描かれていた。

民話に登場し、季節を示す記号として定着していた。


そしてなにより、「なくなった」ことを誰も語らない。


 


ディスプレイには、各時代ごとの文学作品に現れる「moon(または各国語表記)」の出現頻度がグラフ化されていた。

不可解なことに、文明の進歩に伴って一度増加した「月」の語は、ある時期を境にほとんど使われなくなっていた。

その境界は明確ではない。だが20世紀の後半から、緩やかに、そして静かに消えていく。

誰も喪失を語らず、記録からはぼかされる。


(喪失は、知覚の不備によって起こるのか……それとも、意図的な遮断か)


彼は目を細めてデータを睨んだ。

この都市では、答えのある問いしか歓迎されない。だが彼の探しているのは「答えが拒まれている問い」だった。


 


そのとき、警告表示が一つ、静かに浮かび上がった。


【情報アクセス制限:CLASS-D+/学外アーカイブよりのリダイレクトにより遮断】


彼の指が止まる。ディスプレイに映されたのは、ある“信仰組織”に関連した非公開資料の一部。

ハルカとは別の形で、ジュリアンもまた“月”を信じる者たちの存在を感じ始めていた。


「……宗教か」


彼は声に出さず、眉をひそめた。

感情ではなく、純粋な知的拒絶だった。

科学は言葉と論理の支配領域であり、信仰はその外にある。それを混ぜ合わせることは、解体された意味の塔を積み直すようなものだ。


(……けれど、なぜ彼らだけが、堂々と“月はあった”と言い切れるのか)


その問いは、ジュリアンの心に火を灯すよりも、影を落とした。

それは探究の炎ではなく、崩されかけている確信への警鐘のようだった。


 


机に肘をつき、両手を組んで額を預ける。


誰にも見せない姿勢。

けれどその中には確かに、彼自身がまだ言葉にできない「不安定な違和感」が芽を出していた。


 


ふと、思い出す。


今朝、彼の隣の席でスケッチブックをめくっていた少女——ユン・ハルカ。

あの絵に描かれていた“丸いもの”が、彼の重力分布シミュレーションに妙に合致していた。


無意識か、記憶か、遺伝か。

何が彼女を描かせたのか分からない。けれど。


(本来、それは……)


彼は思考を切り上げ、立ち上がる。

視界には再び、冷たく整然とした機械と数式。

夜間照明が切り替わり、ラボ全体が仄かな青に染まる。


彼の影は、背後の壁に柔らかく落ちた。

ただし、その影の形はほんの一瞬、不自然に歪んでいたことに、ジュリアン自身は気づかなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ