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第四章−12:静夜の対話


 胸の奥がざわついていた。

 理由は分からない。気圧の問題でも、センサーの異常でもない。ただ、空気が変わっている。

 ──街の外から忍び込む“計算外の揺らぎ”のようなものを、彼は本能的に嗅ぎ取っていた。


 隣ではユンが、丸くなった猫みたいな姿勢で寝息を立てている。

 ジュリアンに至っては、資料を抱えたまま意識を手放したらしく、真面目さの象徴みたいに眉間に皺を寄せたまま眠っている。


 (……平和そうだなあ、ふたりとも)


 内心で苦笑しながら、ルイはそっとベッドを抜け出した。


「……トイレ、っと」


 自分で言っておきながら、

 その言い訳があまりに雑だという自覚はあった。

 なにせ──自分は”そういう機能”を持たない生体構造”なのだから。


 しかし、それでも何かを確認したかった。

 この家に満ちた微細な不穏。

 “外の気配”の濃さ。

 理事長の家そのものが、まるで防音の膜を張りめぐらせるように静まり返っている理由。


 廊下に出た瞬間だ。


「……やはり、来たのですね。ルイ・カマウさん」


 月明かりのように静かな声が、暗闇を柔らかく照らした。


 理事長が、廊下の端に立っていた。

 眠っていた気配はない。

 薄いローブを羽織り、髪にわずかな乱れがあるだけ。

 まるで元からこの場所で“待っていた”かのようだった。


「……あれ? トイレに行くだけなんですが」


 ルイは肩をすくめ、おどけてみせる。


「ふふ、あなたが“生物学的排泄を必要としない”ことは、私たちの記録にありますよ」


 理事長は微笑む。

 だがその目は、静かな湖面のように揺れず、深い。


 ──まるで、彼の嘘も本心も、すべて最初から見透かしているようだ。


「では質問を変えましょう。

 どうして、わざわざ“トイレ”という理由をつけて部屋を出たのですか?」


 柔らかい声。

 しかし逃げ場のない問い。


 ルイは息を小さく吐いた。

 冗談を返すこともできた。

 笑って流すこともできた。

 だけど──今はそれをしてはいけないという気がした。


「……なんとなく、です。

 空気? 勘?

 うまく言えませんけど……」


「“あの夜”と同じ、と?」


 理事長は一歩だけ近づく。


 その言葉に、ルイの胸の奥がひくりと震えた。

 “あの夜”。

 まだ彼が自分の存在意義を疑っていた頃、夜の研究区画で聞いた──あの微細な「違和感」。


 まさか、彼女がそれを知っているとは思わなかった。


「……記録に残ってるんですね、そういうことも」


「ええ。あなたは、多くを語らない子ですから。

 でも──感じ取る力はとても強い」


 理事長は微笑む。

 その笑みはどこか、母親のような、教師のような、そして何より“監視者”のそれでもあった。


「外が、騒がしいのでしょう?」


「……はい。でも騒音じゃない。

 もっと……こう、“近づいてくる”感じです」


「正確な表現です。

 あなたはいつも、感覚と言語化の精度が高い」


 理事長は満足気に頷くと、ローブの裾を静かに揺らした。


「さて、ルイ・カマウさん。

 あなたにも伝えておくべきでしょう」


 ルイの背筋が、ごく自然に伸びた。


 そして──


「“もうすぐ、この家の外で何かが起こる”。

 それがあなたの感じている『勘』の正体です」


 理事長の声は低く、凪いでいた。


 まるで、彼の正体も、この家の状況も、外の勢力の動きも、

 すべて把握している者の声音だった。


 ルイは一拍置いてから、静かに問い返す。


「……僕たちは、巻き込まれるんですか?」


 理事長は答えない。

 代わりに、やわらかく笑う。


「先ほど“トイレに行くだけ”と言いましたね。

 ──では、案内しましょうか。

 あなたの“行きたい場所”へ」


 言葉の意味は分からない。

 けれど、その笑みの奥にある“計算された親切”だけは感じられた。


 ルイは無意識に喉を鳴らした。


(……この人、やっぱりただ者じゃない)


 けれど恐怖より先に、

 “もっと知りたい”という奇妙な好奇心が胸を占め始めていた。


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